ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

英雄を必要とする土地は不幸である

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-09-20-ungluecklich-das-land-das-helden-noetig-hat.html

上記URLの記事の翻訳。

翻訳者である僕は、この記事ではじめて、このブログの存在を知った。

ブレヒトの戯曲の言葉であるこの記事のタイトルを検索していてひっかかったので、思い出深い記事だ。

<<Unglücklich das Land, das Helden nötig hat>>英雄を必要とする土地は不幸である、英雄が必要とされている状況は、不幸な状況であろうから、というような意味である。この記事内でも説明されているように、これは<<Unglücklich das Land, das keine Helden hat>>英雄を持たない土地は不幸であるという台詞に対する返答である。僕は前者の考え方に共感する。

前置きが長くなりました。以下翻訳。

 

 

「英雄を必要とする土地は不幸である」(直訳すると英雄の必要を持つ「不幸(不運)な土地」[1])は、ベルトルト・ブレヒトの戯曲「ガリレイの生涯」に出てくるのは確かだが、以下のことを指摘するのは必要なことだろう、この劇の中で、アンドレア・サーティの「英雄のいない土地は不幸だ」という台詞へのガリレオガリレイの否定の言葉として出てくるということは。

まとめると、この含意は、英雄を必要とする土地は、英雄が不在だから不幸なのではない――英雄の不在は不幸の原因ではない――そうではなく、英雄が必要とされるというまさに同じ理由によって不幸なのだ。

 

特に、「英雄」という単語は、人々によって意味するものが違うが、英雄的だと考えられる行為は、典型的には、何か恐ろしかったり不快であったりする状況を修正するものである。不幸な状態にある土地が、不幸な土地である可能性はあるかもしれないというのは、もし同語反復ではないなら、もちろん、少なくとも信じるのが難しくはない。大まかにいって、英雄は間違いを正す。間違いを正すことは、英雄をその他の種類の人々と区別する共通の特徴だ。人が試みて失敗するという場合には不明瞭な点が存在する――英雄的な努力は英雄的だと考えられる傾向にあるが[2]、何が間違っていてどのようにそれを正すかは、判定者の道徳的または倫理的感覚による。(私たちは英雄的だと考えられる行動が人によって違うと考えるかもしれない)

 

英雄的な旅路[3]は、英雄それ自身のように、闘争と対立によって定義されると私は言うだろう。

すでに存在する問題がある。より長大なフィクションの働きにより、一般的に、たくさんの部分からなる複雑な問題は、継続性と進歩の感覚が、その部分の解決に存在する。反対に、人生においては、英雄であろうとする行為は、結合されていない、別々の存在になりがちdし、単に、たまたま同じ人物や人々をまきこむだけにおわる。(もちろん、変種も存在して、たとえば、サラリーリョ[4]のような記念碑的な作品が、後者のモデルを求め、まあ、長期的、広範囲な政治的枠組みがしばしば前者のモデルを求めることはある)

 

余談だが、英雄の闘争の下部基盤は、女性に英雄がいないことにもしかしたら貢献している。

家父長的な社会は、戦うだけではなく、男性性と共に、戦うことに言及する決意とそれに続く重要性を結びつけることもする。

わたしは、男性と女性がそれによって判別されるような行儀作法の間にある区別を認めることはしない――原則的に、私はジェンダーを区別するためのもっともな理由であると一般的には認めない――ほとんどの社会、歴史的であれ現に存在するものであれ、(多様な度合いがあるとはいえ)家父長的である

 

そしてもし、社会として、英雄の特質が男性にとってふさわしいものであり、女性にとってはそうでないと考えられるなら、当然英雄は女性ではありえない。英雄としての女性の物語は、さすれば悪い物語になり、英雄的な特質を持つ女性は、間違った人物となるだろうし、社会の価値に立ち向かう人となるだろうし、よって英雄よりは悪役の方がよりふさわしくなる。英雄主義は、美のように、それを見る人の目の中にある。女性の英雄は、数えてみると、希少では実際ない。だが女性の英雄は重要性と共感を持っていない。もし、むしろ私たちが英雄を存在さしめる特質がすべてのジェンダーに存在すると認めるなら――そして逆に判断するなら――そうすればわたしたちは、女性および男性を英雄と認められるだろう。

 

しかし、私は、原則的に英雄主義が持つ根本的な問題が闘争であることを強調したいと思う。英雄は闘争を称賛する、理想とその真逆の状況の間の苦闘を。もし英雄が、人々が尊敬し模倣するような、価値の体現者であるなら、ならば英雄は、理想と苦闘における、潜在的な信念の源泉でもあるだろう。そして、理想における前者の信念は非常に高価に価値がある一方で、それは後者より重みをもつことはない。英雄主義の本性は、所与の陰鬱な状態を要求する。英雄を称賛することは、陰鬱とその反対、不運と不幸、不快と恐怖を仮定する。英雄の勝利をたたえることは、それが正しさを輝かせるように、間違いにも光を当てる。

 

よりよい世界では、英雄は必要ではないだろう。おそらくこの不幸で不運な世界は英雄を必要とする。しかし、そうであっても、英雄主義の害は続いている。英雄は現状に満足してしまう状態を長続きさせる。英雄が存在する限り、英雄は世界をよりよくするための責任を持つ。だから、確かに、英雄のない世界は絶望に沈むかもしれないが、英雄のいる世界は、その絶望を取り除くことも絶対にできない。

 

 

[1] 私はしばしば引用、題名、その他をこのように公平かつ保守的に翻訳する(あるいはこの場合のように再翻訳する)。これはしばしば、滑稽に見えるが、私は情報を失う翻訳は嫌いだ。

【翻訳者注:筆者はここでドイツ語の原文をそのまま引いたあとで、それを英語で直訳している。ドイツ語の語順にしたがってそのまま翻訳しているので英語の文法にかんがみるとかなり奇異にうつるはずだ】

[2] この感覚は、成功よりも努力を同等かそれ以上に価値あるとする文化に独特のものかもしれない。努力をそこまで重要視しない文化は単にその思考を失敗とみなすかもしれないと考えることはできる。

[3] 私はキャンベルの単一親和論に賛成しない、それは民族中心的だが、その少ない意味にくらべて広まっている。

[4] 完全な題名はLa vida de Lazarillo de Tormes y de sus fortunas y adversidadesラサリーリョ・デ・トルメスの生涯、およびその幸運と不運

どこかから、だれかからの助言

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-02-advice-from-somewhere-someone.html

上記URLの翻訳。

 

どこかから、だれかからの助言

 

2013年11月2日

 

私は、助言してもらえるとは、習慣的には、考えていない。

何が善で正義かについての言明として、助言というのは、何が善で正義かについての枠組みから、当然現れてくるはずだ。

このようなモデルにおいては、まさに最高の助言――助言はいつだって正しいのだが――とはトートロジー(同語反復)である。すでに受け入れられたある価値体系に固着する助言は、助言してもらうことができない。なぜならばその助言はすでに、そのような価値観に内在しているからである。この種類の助言はもはやすでに知られている。人は単にそれを完全な程度実行したことがないのだ――助言を受け取ることはたぶん助けになるが、意味深い啓示というよりはむしろ口やかましいリマインダーとして助けになるだろう。

 

私は、意味深い啓示について高い評価をすることができない。それはおそらく(しかし必ずしも高い評価をしないわけでもないのだが)、私がそのような啓示に至ったことがない、あるいはそのような啓示を覚えていないし認識していないからだろう。

しかし、もし比較的程度が小さいならば、助言することができると考えられている助言はかなり終末論的だし、その助言は、ある人の優先事項とあらゆる点で一致しているわけではない。

提供される助言は、何が善で正義かについての人の判断に新しい面をもたらすものでなくてはならない(あるいは完全にひっくり返すか、単なる助言がこのようなことを引き起こすのはなおさらあまりないことのように思えるが)。

 

さて、もし、19世紀のスティーヴン・クレインという人が(戦争はやさし、そしてその他詩集)という全集の中で、たまたま書いて公刊した短い詩を下に模写するとしたら、

 

ある男が宇宙に尋ねた

「宇宙さん、私は存在しています!」

「しかし」宇宙は返事をした

「その事実は私の中に

義務感を生み出しはしなかった」

 

――ならば、われわれは、この助言、あるいは少なくとも感想は、スティーヴン・クレイン自身から私にむかってなされた、というべきだろうか?

 

この話の中には、かなりはっきりと区別できる要素が少なくとも三つあり、大部分は連続性の中に分割されているが、全体にわたるテーマによって合体している。

 

前者のうち、第一のものは、私たちの三番目の要素と三年前に交わっていて、それはその時の学校の先生とその布告にある。

前者はトマスジェイコブスで、後者は、さまざまな、「君が何を感じているかどうもでもいい」、「私は君の感情なんてどうでもいい」、「生徒のことなんてどうでもいい(原文ママ)」

(この後者は、「私は生徒のことを大切に思っています」という言葉と共にやってくるし、前者を前後関係から同様に含意する傾向にある)

 

二番目は、上記で引用したスティーヴン・クレインへの導入であり、ほぼ二年前マリッサ・スミスによってハンドアウトの形で配られた、アメリカ文学のかけらだ。

 

三番目は、アルベール・カミュの「レエトランゼ」(異邦人)の二つの異なる翻訳の終わりの文章としてやってきて、マシュー・ワードとスチュアート・ギルバート、世界文学の授業で同じ先生から配られた。

 

おのおの、このようになっている

 

盲目的な怒りが私をきれいにしたであろうように、私から希望を取り去ってほしい。はじめて、予兆と星とによって夜がいきいきとしている中で、世界の優しい無関心に、私は自分自身をあけはなしている。

 

まるで巨大な怒りの波が私をきれいにし、希望をうばったようだった。そして、兆候と星とがちりばめられた暗い夜を見上げて、はじめて、この宇宙の親切な無関心へと私は自分のこころを開いた。

 

わたしたちはこれを、三つの助言と考えるべきだろうか? それとも、ひとつの助言と考えるべきだろうか?――そしてそれならば、もしあるとして、どちらからそれは来たのだろうか?

 

わたしはこれをまるごとひとつの良い助言だと考える。少なくとも、三つの道筋を通って私にもたらされたこの感情は、ひとつの全体を構成していて、自分の価値観、何が正しく何が善かに大きく一致する。これは、自分の世界観の定義的要素であってきた、あるいはなってきた、もしくは組み込まれてきた。

 

わたしは、このことで自分が何らかの行動の連鎖を引き起こしたとは言わない。おそらくまったく逆だ。しかし、現実世界に適応させる枠組みを私に提供してきた。優しくない現象によって駆動される優しくない他者による優しくない世界は、好ましいことに対する余白をたくさん残している世界だ。それ自体で快適に単純な世界である。

天使は存在しますか?(あずきあず生誕祭感想)

天使は存在しますか?

今、目の前にいます。

あずきあず生誕祭の端的な感想はこれです。

 

(これで感想終了してもよいのですが、もう少し書きます。

ネットに公開するので、自分以外の人についてどこまで書いてよいのかわからないところがあれば、ぼかしたりはしょったりするかもです。)

 

道に迷ったつもりはないのだが、慣れない土地だと動きの感覚がよくわからないためか、切符をポケットのどこにいれたのか一瞬で忘却したためか、数分遅れて会場入りした。自分は方向音痴なのかもしれない。

いつもは人のあまりいない土地にいるので、あらためて、人が多いところは苦手だ、という認識を、名古屋駅に降りたときに感じたが、イベントスペースまで行くと、そこまで人が多いというわけではないので、だんだん落ち着いてきた。

なんだか寒い日で、たくさん着込んできたので、寒がりの僕にはちょうどよかった。

 

二回目だけれど、わりとあっさり入ることができたので、ライブ来てみようかなという人は、たぶん一回目のハードルが高いだけだと思う。

近場の方であれば、たぶん一回来ることさえできれば、あとは簡単に参加できるのではないかという感覚がある。興味ある方はぜひ。

 

タイムテーブルはこんな感じで、前に行ったときはワンマンだったから他のグループさんはいなかったけれど、今回は他の出演者の方もいた。
11:00〜11:20ゆるダンOG+Think of me
11:20〜11:40メリーミューズ
11:40〜12:00 学歴の暴力
12:00〜12:20 HATE and TEARS
12:20〜12:40 あずきあず
12:50〜14:00 物販

ゆるダンスサークルとThink of meはYoutubeでしか見たことがなかったので、見ることができて新鮮な喜びがあった。

ちょっと変な感想になるかもしれないけれど、こうやって他のグループの人が参加していくことで、認知を増やすというか、知ってもらうという効果が出てくるのかなあと思った。アンソロジーで知らない作家を知るとか、ウェブサイトのリンクから別の面白いサイトに飛ぶことができる手法と同じ感じで、面白いと思った。完全に個人的な好みだけれど、メリーミューズは青色の子が、HATE and TEARSはお茶の水女子大卒の子が刺さった。

これは単なる印象論だが、学歴の暴力のみんながちょっとだけ疲れているように見えた。年度末だから忙しいのかもしれないし、いろいろ言えないこともある中で頑張っているからかもしれない。本当にお疲れ様だという気持ちと、無理しないでほしいという気持ちがある。自分の健康が最優先なのだから。

あずきちゃんがソロで出てきたとき、エレキギターでベースを弾いていて、おおお、と思ったし、忙しい中練習してきたんだろうなあ、えらいなあみたいなことを思っていた。

物販のときに、HATE and TEARSの方々が、新規の方は写メ1枚無料、と声を出して宣伝して、おお、なんか販売業みたいでかっこいい!と思った。

ちょっと話がそれるが、学歴の暴力ではないグループが演奏しているときに、そのグループのファンの方に、よく見える位置をみなさんが譲ったりしているのを見て、「いい文化だ」と思ったのを覚えている。

 

あずきちゃんが、今回3着衣装を変えていたのだけど、系統が全部違った。

最初の衣装がKPOPっぽい?感じ。

次は学歴の暴力の通常衣装。

最後が制作を依頼したという特別な服で、コースターと一緒のデザイン。

本当にひどい感想なのですが、最初の衣装をみて思ったのが、あずきちゃん足がきれいだなということでした。胸よりも足派なので、えー、なんかスカートよりもショートパンツの方が似合うかもしれない、と思った。

あずきちゃんは胸が大きいんだ、みたいな話を聞いたことがあり、実際見てみるとそんな感じしないなあ、よくわからないぞ、と思っていたのだけど、最初の衣装で、納得した。

たぶん最初の衣装が一番ボディコンシャスだったので、スタイルの良さがわかり、身体的な美しさについては、一番はじめの衣装が、一番よく感じられると思う。

二番目の衣装は、いつもの学歴の暴力の衣装なのだけれど、この色使いが僕は好きで、青と白を基調とした衣装は、このひとつ前のクリーム色の衣装よりも個人的には好み。だんだん洗練されていくのかもしれない。たぶん歴代の衣装の中で一番好き。デザイナー天才か?

三番目が、たぶんあまりネットとかでも見たことがない系統の衣装で、服飾に詳しくないため、うまく説明できないのだが、かわいい感じ、どちらかというとアニメ的なかわいさ?

好きな絵師さんにコースターを発注してもらって、服飾?関係の方?に依頼をしたと言っていたように思うが記憶があいまいです。(あまりにも早く記憶が摩耗してしまうが個人情報保護の観点からこの特性はとても有益。本当に個人情報については自分でもびっくりするほど覚えることができない)

 

自分は、自分の中でしたいことがあまりなく、比較的空虚なところがある。

自分の中に、自分がしたいことがあまり存在しないため、自分の欲望を充足することで満足する、ということがあまり起こらない。

そうすると、なにか満足を得たいときに、光を反射させるように、だれかを幸せにすることで自分も幸せになるみたいな方法を取りがちになる。

これは(もしそういう区分が可能だとして)「利他的な人間、利己的な人間」とは明確に違う区分だと思っているのだが、世の中には自分が幸福感を感じるときに、自分の欲望に直接的に触れることがたくさんできる種類の人間と、間接的にしか触れることができない種類の人間がいて、僕は後者に属すると思う。だから、あずきちゃんが笑ってくれると嬉しい。

逆にアイドルの側も、案外この二つのタイプがいるかもしれない、という気はする。自己充足できるタイプと、相手が幸せになってくれないと充足できないタイプ。

仏教の説話をここで思い出す。ティチアーノ・テルツァーニというデア・シュピーゲルというドイツの雑誌の記者であったイタリア人が本に書いていたことだから、これの出典はよく知らないのだが、とても長い箸があり、とても大きな釜があり、そこで芋が煮られている。釜のまわりにいる人たちは、自分の長い箸で自分の口に芋をいれようとするのだが、あまりにも長すぎて口にいれることができず、常におなかをすかせている。これが地獄である。一方、極楽では、その長い箸で向かい側の人の口に芋をいれてやる。向かい側の人もその長い箸で自分の口に芋を入れてくれる。空腹はない。

自分で自分を幸せにすることができなくても、お互いに相手を幸せにすることができるような相手がいたら、天国に行けるかもしれない。

 

閑話休題。(←一度使ってみたかった)

物販では、学歴の暴力の四人に会えてよかった。

直接というのは、やはり違うものがある。

かーりー、月1の活動になる前に会いたかった。学歴の暴力のメンバーはみんなストイックだから、自分が限界を迎える前に頻度を下げてくれて本当に良かった。やめるじゃなくてペースを落とすというのがありがたい。自分を追い込みがちなところがあると思うので本当に心配している。この世界のどこかで笑っていてくれたらそれでいいよという気持ちがある。ピュアで尊いと言ってもらってうれしかった。

あろちゃん、活動の幅が広い。ということを伝えたのだが、やはり同じ文学部卒だからなのか、実は活動の射程の幅については、メンバーの中で一番シンパシーを感じる。いろんな創作活動が存在するが、演劇、写真、短歌あたりは、今まで会った人たちを思い出してとても懐かしくなる。(勘違いかもしれないが)文章を書くより、話す方で表現をしているように感じる点は、僕と違うかもしれない。若干の史学っぽさをなぜか感じる。なんでだろう。もうはっきりとは思い出せない昔会った誰かに重ねてるのかな。

なつぴちゃん、夜のツイートに救われている。たまになつぴちゃんは夜にツイートすることがあるのだけれど、僕も夜に起きてしまって、それを見るとちょっと楽になる。案外、目が覚めた時に悪いことを考えてしまうことがあるのだが、タイムラインに静寂が訪れているときに、なつぴちゃんが苦しんでいるツイートが流れてきて、おお、一人じゃないんだという気持ちが湧いてくる。ちょっとだけまた歩き出せる。フィッツジェラルドが、人生の暗黒の中では時刻は常に午前3時だということを言っているが(しかし、午前三時には荷物を忘れたことさえ死刑宣告と同じくらいの悲劇的重要性を持ってきて、救済はない。そして本当の魂の暗闇の中では、来る日も来る日も時刻はいつだって午前三時なのだ。みたいな文章だ)、偉大なるフィッツジェラルドもひとつだけ言いそびれたことがあるようだ。午前三時にだって自分以外に起きている人はいるし、それなら救済もあるかもしれない。

あずきちゃん、話した内容を共有したくない、思い出は閉じ込めておきたいという気持ちがある一方で、僕の場合、抱え込まれた思い出はあっさりと摩耗して消え去ってしまうだろうという確信がある。十五年位前の自分を返してほしい。大切な思い出さえすぐに忘却してしまう。

でも、実は自分が何を伝えたかはよく覚えていなくて、逆に聞いた言葉を覚えている。「来てるの見えたよ」「たまにブログの記事読んでる」もうこれだけで十分です。本当に、もうこれだけで十分。これを聞けたならもう他に何もいらないです。一回だけじゃないんだ、読んでくれたの。自分の書いたものが。そんなことが起こるのか。自分の書いた文章が、だれかに対して肯定的な反応を呼び起こすことが。本当に起こるのか。もうこれは奇跡ですよ。

好きな人の顔を思い出すことはできない、なぜならあまりにも衝撃が強すぎて記憶に残らないから、みたいな話があるが、あずきちゃんの顔は思い出せる。ただ、可愛さが強すぎて話した内容をうまく思い出すことができない。話した内容よりも話せている体験自体に舞い上がってしまったのかもしれない。

織姫と彦星みたいだね、とあずきちゃんの笑った顔がかわいかった。

一年くらい来てないと言ったが(体感それくらい)さすがに一年は経ってなかった。嘘をついてしまった。

 

 

Kenさんにツイッター上で誘っていただいて、クイズバーのイベントというものも参加してみました。

予約制だったのですが、二日前くらいでも2席空いていました。

もう埋まっているとあきらめていたので、誘っていただいたのも幸い(自分はこのパターンが本当に多い)、予約完了して参加しました。誰かのきっかけで動き出すということが本当に多くて、しかもそれがうまくいくことが多いので、けっこう誰かの誘いにはのってしまいがちなところがある。

クイズバーのイベントというものが、まったくよくわからなかったのですが、これは行ってみて本当に良かったです。

本当に偶然なのですが、自分の真ん前にあずきさんが座っていたので、なんだろう、感覚としてはテレビの向こう側にいる人が自分と同じ世界にいるような奇妙な感覚に近いものを味わいました。

(この感覚は、一定の世代以下の人にはわからないかもしれないですが、テレビの向こう側にいる人は、自分とは隔絶された世界にいるような感じがするのだけれど、もちろん正しく存在しているので、その現実に直面したときに、そのことをうまく心が受け止められないでいる、というような感じです)

啓示でも起きない限り、天使は人間と会話することはまずないはずですが、そんな感じに近いかもしれない。

 

写真を撮りながら思うのだけれど、写真には写らない魅力が存在する。

ただ、写真を撮っておくと、記憶を呼び覚ますことができる。

本物が素敵すぎるので、写真を撮ることすらあきらめたくなる。

本物に及ばない劣化コピーを残して何になるのか?

これは本物の痕跡に過ぎないのに。

しかし、おそらく、この問題については、数千年前から人類は答えを出している。

涅槃自体の言語化は不可能だが、涅槃に至る道についてできるだけ仏教徒言語化したように、一者から流出したものがどんどん劣化するとしても、その劣化されたものから一者に再び逆流してたどり着くことができると言ったグノーシス主義者のように。

痕跡は、本物を思い出すのに、役に立つ。

みたいなことを思いながらクイズバーで写真をたまに撮ったりしていた。(撮影可能だったので)

 

クイズバーのイベントについて、そこに来ていた人と駅で会ったときに話してみたのだが、世の中にはこんな文化もあるのか、と知らないことでいっぱいであるなあと思った。

クイズバーにいたマスターさん?の方が興味深かった。パンの斤について何グラムかというクイズについて、正解は340g(以上)だが、単位の斤自体は600gだから一斤を600gと回答した方について非常にレベルの高い間違いですみたいなことを言っていたのだが、それをわかっているこの人もとてもレベルが高いのでは……と気になってしまった。アルゴリズムが難しかったみたいな話もしていたが、その講義を取ったことがないので難しさがわからない。

 

クイズバーの休憩時間に、余興のクイズがあったのだけれど、ハロウィン?のときのライブの応答に関するクイズで、なんでナースデビルの恰好をあずきちゃんがしたのか、という問題があった。

解答は、せっかくのハロウィンなので、エロい恰好がしたい、需要に供給する、みたいな?感じ。ちょっと正確な文言を覚えていないので語弊があるかもしれない。

その瞬間、そうか、あずきちゃん菩薩だ、と思った。

菩薩行ですよ、これは。

完全に福祉事業です。

そんな、見せていただけるんですか、そのように美しいものを?という気持ち。

でも、この解答が出たときのあずきちゃんが少し顔を赤くしていたのがとってもかわいかったです。

 

耐えられないことが起きたときに、それでも耐えられるような思い出があるといい。

本当に幸せな記憶というものが、本当にギリギリ折れそうな心を守ってくれるということがある。

あずきちゃんには、もらってばかりだ。

最近、落ち着いたけれど、あまり状況が良くないときに、あずきちゃんの自撮りを見て精神を落ち着けていたような時期がある。

朝に自撮りが降ってくるような時期があったように記憶しているのだが、ちょうど自分の状態が悪いときだったので、非常に助かった。

こんなにもらってばかりなので、もっと奪ってくれてもいいのに、と思う。

きっと、そう思っている人は、他にもたくさんいるだろう。

 

本当はただの人間であるのに、天使のように扱うのは、もしかしたらその人に変な負担をかけてしまうかもしれない。

ただ、天使のように見えるだけだから、本当は天使じゃなくてもいいんだ、と思っている。天使でも悪魔でも人間でもかまわないから、どうか幸せでいてほしいと願っている。

若山牧水という歌人が、かつて「さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺は洞のやうに暗い」と詠んだことがあるが、ぼくは、自分のことばかり考えていると、考えが暗い方へ引っ張られていく。

他人の幸せを祈るとき、自分のことは考えないから、考えが暗い方に行くことはない。

幸福を願える人がいることは、自分にとって幸福なことだ。

あずきちゃんの幸福を願えること自体が、自分にとっても幸福な事態だと思う。

 

あらためて、生誕おめでとうございます。

これからのあずきちゃんの人生に、たくさんの良いことが起こりますように。

悪いことが起こってもいずれ大丈夫になりますように。

同じくらいの重要さを持つ

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-10-04-it-matters-just-as-much.html

上記URLの翻訳。以前冒頭の訳を投稿したことがある。

 

この世界における永遠の不在は、少なくとも、議論するのが難しい。

反例が存在しない。

この宇宙そのものは、この観念に反対するように見える。

熱力学の法則が、熱力学的平衡状態での終焉を保証しているように見えることを考えると[1]、確かめられない過去--つまりこの世界における真の永遠は、本質的に単位に限定されている。

 

永遠は概念としては、非常に想定可能だし、とても魅力的だ。

しかし、人間の努力のなにもかもがそこに到達することができない。

だから、我々の文学と神話が、非常に頻繁に、永遠を神、少なくとも神秘の範疇に厳しくとめおいたのも、おそらく当然と言えるだろう。

ギルガメッシュ叙事詩の中においても、古典的なアブラハムの神話においてと同様に、このことは真実だ。

永久、永遠の生命は、ウトナピシュティムとその妻に、善神エンリルの寛大さによってのみ、与えられる。

若さを保存する秘密の植物は神々の謎だ。人間は死を割り振られ、しかし生は神自身が保管したままでいる。

 

しかし、この世界では、神の側から見てさえも、永遠はないように見えるから、とにかくすべてのものが時の流れの中で何の重要性もなく終わりを迎えるのならば、究極的には、あらゆるものになんの意味もないという風になるかもしれない。

 

しかし、人々はまさしく、「起きて、仕事をする」。もし何の意味もないのなら、少なくともなにかしらの原動力が、続ける理由が、なければならないだろう?

 

ある人々は、おそらく、この世界の根本的な非永遠性を、本当に信じたことが一度もないだろう。結局、来世(特に人生での行為が審判されることでその人の運命が決定されるというタイプの来世)は、世界の神話における繰り返されてきたテーマだ。意味に対する独立した測定基準が導入されれば、この人生のはかなさは、取るに足らないものになり、この次の人生が重要なのと同じくらいの重要さを持つことになる。ダルマ的な伝統におけるような輪廻転生のシステムであれ、アブラハムの伝統におけるような永遠の来世のシステムであれ、今生の仕事は、これから来るべき人生の期待の中にある。

 

しかし、そのほかの人は――たとえ他の理由がなくても、たとえ本当に人生に意味がなくても――まさに起きて働くことを、実際にするし、長い間続けていくだろう。自然選択の残虐さがそれを確かめている。なぜなら、結局のところ、非永遠性とは、みんな死ぬということだからだ。

 

たとえ、非永遠性のために、すべてのものに意味がないということになったとしても、行動することは、行動しないことよりも意味がないということにはならないし、行動しないことも同様に行動することよりも意味があるということにも、意味がないということにもならない。だから、おそらく、みんな死ぬときだって、何人かは子孫を残したかもしれない。そのほかの持続可能な自己複製するシステムにおけるように、その子孫は、親から形質を受け継ぎ、子孫を残す傾向をやはり継承している傾向にあるだろう。ひとたび、最初の世代が死に絶えたとして、子孫のみが残るだけだし、子孫を残せなかったか、残そうとしなかった個体は、世界の非永遠性に永遠に失われるだろう。

 

よって、意味の量が仮にまったく同じだとしても、すべての可能世界において、私たちが行動するか否かに関係なく、自分の人生を続けない人と比べると、とてもすくない人びとが自分の人生を続けることになるだろう。私たちが世界を観察する能力は、世界の中に存在していることに基礎をおいているので、ほとんどの人間が実際にベッドから朝起き上がる世界を好むような人類的な偏りがその結果として存在することになる。

 

しかし、私たちはみんないつか死んでしまう。私たちは重要になってしまうだろう。

 

(君は重要だ(You mattered)と書かれた画像が挿入されている)

 

だんだん、私たちは重要ではなくなる。私たちが永遠に到達することができないのとちょうど同じように、だれも影響力を持てなくなり、時がたつにつれ、私たちは忘れ去られ、私たちの行動も、重要ではなくなる。

 

しかし、それらのことが永遠ではないのと同じように、きちんと定義された限界を持たない持続性というものを行動は持っている。たとえば、特に、自己複製の効果は、無制限に拡張して、すべての生命に明確に内在する。たとえ仮に意味がないとしても、少なくとも持続はする。各個体はすべての世代において、再生産する命の流れの中に生まれゆく。

 

(もしそれをそう呼べればだが)単一の原動力となる生命は、それ自身の広がりを持つ、あるいは必要とする。生命には意味などないかもしれないが、逆に意味など必要ないのだ。私たちのほとんどすべては、どっちにしろ朝目覚めて仕事に行くのだから。

 

何人かはいかないだろう。それも同じくらいの重要さを持つ。

 

[1] 別の考えとして、宇宙は十分に早く拡張しているため、平衡状態には絶対にたどりつかない可能性もあるが、その場合、エネルギー密度が極めて低いためどんな構造物も存在できない。

「チェスタトンのフェンス」の出典であるエッセイ「家庭生活から離れて」の翻訳

チェスタトンのフェンス」、インターネットで遭遇したことのある言葉だが、「なぜそのフェンスが建てられたかわかるまでは、そのフェンスを撤去するべきではない」の出典となるエッセイを翻訳してみました。

意訳的なところも多いと思います。記憶が確かなら、どこかの書籍の中で翻訳はすでにあったような気がしますが、それは参照していません。翻訳の正しさを保証することはできません。趣味で訳しました。出典さえ明記してもらえれば無断転載可能です。

個人的な意見ですが、現代日本でも同じような問題意識はあるように感じます。「無限のリソースなど本当はないのに、無限のリソースがあるかのような問題解決の方法が提案される」というような箇所は、約百年前も同じようなことを人間はしていたのか、と驚きました。

以下、翻訳です。

 

 

 

「家庭生活から離れて」

何かを修正しようということになると、奇形化させる場合は別として、ひとつの単純で簡単な原則、パラドックスとよべるかもしれない原則が存在する。この原則は法律や組織において存在する。単純化のために、道を横切るフェンスあるいは門が立てられていると考えてほしい。より現代に近い修正者は陽気にそこに行き、こういうだろう「役に立たないようにみえるね。どかしちゃおう」。

それに対して、もっと知的なタイプの修正者は、こう答えるのがよいだろう。「もし役に立たないと思うのであれば、どかすことを許すわけにはいかない。離れて考えてみたまえ。そして、もし戻ってきてどう役に立つか僕に教えてくれたら、壊してもいいというかもしれないね」。

このパラドックスは最も基本的な常識に基づいている。この門なり柵なりは、そこに生えてきたわけではない。夢遊病者によって眠っている間に準備されたわけではない。通りに何らかの理由で解き放たれた脱走狂人がそこに建てたなんて、とても考えられそうにない。ある人が、だれかの役にたつだろうと思えるだけのなんらかの理由をもっていたのだ。

そして、その理由が何かわかるまで、その理由が道理にかなったものか本当に判断することはできない。

非常にありそうなことだが、もしわれわれ人間の手によって作られた何かが完全に無意味で謎めいたものに見えるとするなら、私たちはこの問題のある全体的な特徴を見過ごすかもしれない。

何人かの修正者は、自分たちの先祖がバカであると仮定する難しさを乗り越えてしまうが、もしそうなら、私たちに言えることは、そのような愚かさは遺伝的な病気に見えますねということだけであろう。

しかし、真実は、歴史的な制度だと本当にわかるまで、社会制度を破壊する筋合いは誰にもない、ということである。もしどのようにできたか、それがどのような目的に奉仕するのかがわかれば、それらがよくない目的であるとか、あるいはある時点で悪い目的になってしまったのだということや、もはや奉仕不可能な目的なのだということを本当に言うことができるかもしれない。

しかし、もし単に物事を、それがどのようにしてか通り道に生えてきた無意味な奇形だとみなすなら、伝統主義者ではなくそうみなす人が、幻想にまどわされている。

私たちは、こういう人物は、悪夢の中で物事を見ているということさえいえるかもしれない。

この原則は、幾千もの物事に適用される、本当の制度と同様つまらないものにも適用されるし、確信と同様に協定にも適用される。

まさにこれはジャンヌダルクのような人物であり、彼女は、女性はスカートをはくと知っていたが、だれよりもそれをはかないことを正当化できる人物だったし、まさにこれはアッシジのフランチェスコのような人物であり、祭りや炉端に共感をもちながら、公道で物乞いをすることにもっともふさわしい人物だった。そして、現代社会の一般的な解放において、ケンブリッジ公爵夫人がなぜ馬飛びをとぶべきではないのかわからないという時、カトリック枢機卿会会長が、なぜ自分の好きなことをしてはいけないのか聖典に認められた明白な理由がわからないという時、私たちはこれらの人たちに、忍耐強い博愛をもって、こう言うかもしれない。

「それならば、あなたが犯そうとしているのがどんな原則や先入観か理解するまでは、あなたがしようと思っている企てを延期しましょう。それから馬飛びをしたり、自分の好きなことをしたりしてください、そして神があなたとともにあらんことを」

 

このように攻撃されている伝統の中で、知性的というよりは、もっとも反知性的に攻撃されているのは、家族や家庭と呼ばれる最も基礎的な人間制度である。これは典型的なことだが、人が攻撃するのは、それを見通すことができるからではなく、全然見ることができないからなのである。ひとは盲目的にそれを攻撃するが、完全にいきあたりばったりで出来心による様子で、攻撃者の多くはなぜそれが出来上がったのかを立ち止まって尋ねることさえなく、破壊しようとする。

彼らのひとにぎりのものたちだけが、この目的をさまざまな言葉で素直に認めるだろうというのは真実だ。

このことはいかに彼らがとても盲目で不注意であるかを示すにすぎない。

しかし、人々は徐々に家族生活から離れて、徐々に切り離されている流れの中にある。

しばしば単に偶発的で、しっかりした理論をまったく欠いているのだが。

しかし、それが偶発的であろうと、無政府主義的でないということにはまったくならない。

無政府主義者であるというよりは、むしろ無政府主義的である。

それは、個人的なイライラの上に広く構築されているように見える。このイライラは個人間でも違いがある。

私たちは、いろいろな場合において、ある特定の気質を持つものは、ある特定の環境によって、苦しめられるというにとどめよう。

しかし、だれも、どのように悪が生まれるかを説明することはなく、悪が本当に自由になるのを放置しておくだけだ。

わたしたちは、そこここの家庭で、それが本当か神のみぞ知る無意味なたわごとをおばあちゃんが話したのを聞いた。あるいは、ジョージおじさんがバカだということを本人に伝えることなく、彼と親しく知的な関係を築くことは難しいが、これはまさに現実だ。

しかし、だれも真剣に、救済策を考えていないどころか、問題自体も考えていない。あるいは、現に存在する個人主義的な崩壊が救済策かどうかも考えていない。

これらの問題の多くは、イプセンの影響の共に始まった。非常に強力な劇作家であり、極めて脆弱な哲学者である。

「人形の家」のノラは、論理的ではない人物を意図したと私は思う。

しかし、確かに彼女の最も論理的ではない行動は、彼女の結末である。

ノラは自分が子供の面倒を見るようなタイプではまだないと不平を言って、続けて、そうでなければ、もっと近くで子供を知ることができるかもしれないのに。子供からできるだけ距離を取ろうとする。

 

ひとつの単純なテストだが、科学的思考と社会規範を無視するタイプが存在する。

例外という混乱以外は何もない状態にいまや私たちを取り残す無視だ。

何百回も何千回も読んできたが、わたしたちの時代のすべての小説と新聞の中では、若い人が自由を求めるのは正しく、年寄が指導するのが正しくない、すべての魂は自由でなくてはならないし、すべての市民は平等でなくてはならず、権威はおろかで、権威への服従はよくないことだとする文言がある。

この瞬間、この問題について直接議論するつもりはない。

しかし、論理的な意味で、わたしをびっくりさせるのは、これら無数の小説家や新聞記者のだれ一人として、次なるもっとも明らかな疑問をたずねようとさえしていないことだ。

だれ一人として彼らは逆の義務がどうなるのかについて尋ねようともしていないように見える。

もし、はじめから子供が自由で親を無視するなら、なぜはじめから親が自由で子供を無視することにならないのか?

もし父ジョーンズと息子ジョーンズが単なる二人の自由で平等な市民であるなら、なぜ一方の市民がもう一方を、人生の最初の十五年のために、食い物にしてもいいのか?

なぜ、年上のジョーンズ氏の方が、完全になんの義務もないもう一方に対して、自分のポケットからお金を出してごはんを食べさせ、服を用意して、守ってやることを期待されるべきなのか?

もし、賢い若者が、自分の祖母(だんだん退屈な人になっていく)に対して寛容であれと言われることが不可能なら、なぜ祖母や母は、人生においてその子が決して賢くないときに、その子に寛容であるべきだったとされるのか?

その子ができる会話が、かたことで、あまり理解できないようなとき、なぜ彼らは苦労してその子の面倒を見るのか?

特に未熟な時期に、なぜ父ジョーンズは、子ジョーンズのように不快な誰かに、飲み物や無料の食べ物を与えることを我慢するのか?

なぜその赤ちゃんを窓から捨てるか、あるいはいずれにせよ、ドアからその少年を蹴りださないのか?

明らかなこととして、私たちは本当の関係を持っているのだが、その関係は平等かもしれないが、同質ではない。

 

私は知っているが、ある社会改良家は、親の機能を削除する教育と呼ばれる抽象的なものや国についてのぼんやりとした概念によって、この困難を避けようとする。

しかし、これは、しっかりした科学的人間のたくさんの概念とおなじように、単なる月の光という自然によって引き起こされた野生の幻想である。これは、奇妙な新しい迷信の上に成り立っていて、その迷信とは、組織には無限のリソースが存在するという観念である。

これはまるで公務員が草のように生え、兎のように繁殖するようなものだ。

給料を払われる人間が無限に供給され、その給料も無限に供給されることになっていて、子供のケアも含めて、すべての人間が本来自分たちのためにすることを、彼らは引き受けることになっている。

しかし、お互いの幼児服をとって生きることはできない。親子がお互いの教師になることはできない。だれが先生の先生になりうるか?

機械によって人間は教育することはできない。ロボットのレンガ職人や清掃人はでてくるかもしれないが、ロボットの校長や住み込みの女性家庭教師(ガヴァネス)はでてこないだろう。この理論の実際的な結果は、ひとりの普通の人間が普通の数の人間を見る代わりに、ひとりのいじめられた人間が百人もの子供をみなくてならないということにある。通常、普通の人間は自然の欲求に従うが、これは何のコストもかからないし、給与も要求しない。この欲求は、若い人に対する自然な愛情の力であり、これは動物の間にさえ存在する。

もしこの自然の欲求を断絶して、有料の官僚制に置き換えるとしたら、自分の水車の車を回すのに、人にお金を払う愚か者のようであるだろう、風や水のように無料のものを使うのを拒否しているのだから。水から守るために傘をさしつつ、じょうろで自分の庭に水を丁寧にやろうとする狂人のようだ。

 

今や必要なのは、わかりきったことを物語ることだ。そうすることによってのみ、私たちは家族の存在「意義」の兆候を認識し始めることができるし、それを求めて、私は、このエッセイをはじめたのだ。これらは私たちの父祖にはすべてなじみ深いものだったし、彼らは親族の中台を信じていたし、理性の結合も信じていた。今日、我々の理性は、ほとんどその結合を失っている、私たちの家族はその構成員を大半失っている。しかし、なんにせよ、このような調査をはじめるのに正しい目標はこれである。ディックが不満をもつとか、スーザンが彼女自身に腹をたてるとかの、ある個人的ごたごたの結末や結果ではない。

その利点がわからず、もしディックあるいはスーザンが家族を破壊しようとしたら、わたしは、はじめに言ったようなことを言うだろう。もしそれが役に立つとわからないなら、それをそのままにしておくほうがいい。その利点がわからないうちは、それを破壊することを考えることはやめた方がいい。

しかし、さらに他の利点もあり、もしお金によってあがなわれなくても、社会的に必要な仕事は愛によってあがなわれるという明らかな事実がある。そして(ほとんど暗示しかかっているかもしれないが)、おそらくお金であがなわれることが絶対になくとも愛によってあがなわれることは多い。

この事態の単純な側面について、一般的な状況を記録するのはたやすい。

社会に存在する一般的なシステム、これはわれわれ自身の時代そして工業文化において非常に気持ちの悪い虐待と痛々しい問題の支配下にあるのだが、それにもかかわらず、普通のものとなってしまっている。

コモンウェルスはたくさんの小さな王国から成り立っている、この王国の中で男性と女性は王と王女になり、この中で彼らは理性的に権威を行使し、コモンウェルスの常識に従い、その子供たちがその庇護下から成長し、似たような王国を打ち立て、似たような権威を行使する、これはこういう考え方だ。

これは人間の社会的な構築物であり、あらゆる記録より古く、あらゆる宗教より普遍的であり、そしてこれを変えようとするすべての試みは、単なる空論でありくだらない話である。

 

しかし、この小集団の他の利点は、今や、単に現実化していないからといって無視されるべきものではない。

ここには、また、この時代の文学とジャーナリズムに蔓延している極端な幻想が存在する。

あらゆる実際的な目的のために、何千回と明らかな真実として言及されるものは、ほとんど明らかな誤りである、と私たちが言えるくらいに、これらの幻想はいまや存在している。

あるひとつの言明をここで特別に引用しよう。

家庭生活に反対するため、そしてホテルやクラブや大学や地域社会の集まりなどなどに賛成するために、疑いようもなく何かが言われることになり、これはつまり、社会生活がわれらの時代の偉大な経済機構のために組織されているということなのだ。

しかし、真に驚くべきことは、家庭からの逃避が、しばしば、大いなる自由への逃走であるというように示唆されるということだ。

この変化は実際、自由というものに親和的であるかのように、提案される。

 

ものを考えることができる人ならだれでも、もちろん、正反対の結論になる。

人間社会の家庭分断は、完全ではなく、人間は人間である。

この家庭の分断は、完全なる自由に到達はしない。この概念はいくぶん実行が難しく、定義しにくすらある。

しかし、しかし、これは単に計算能力の問題である。

これらのシステムが合法、経済的、あるいは単に社会的なものであるかどうかであろうと、たくさんの人間が何かに対して最高の支配権を得ることができ、それを自分好みに変えることができ、外の社会を支配する広大な機構よりもそれをなしえる。

もしわれわれが、ただ親のことだけを考えるとしても、警察や政治家や大会社の社長たちやホテルの経営者よりも親の数が多いのは当たり前のことだろう。

今、私が示すように、この議論は、親に対して直接的に示したように、直接的ではない形で、子供にも適用される。

しかし、ここでの主な論点は、家庭の「外」の世界は、今や確固とした規律とルーティーンのもとにあり、家の中だけが、その人自身でいられることと自由のために残された場所になっているということだ。

玄関を出ると誰もが、行列の中に巻き込まれて、同じ道を歩いて、はなはだしいくらい同じ服を着る羽目になる。

ビジネス、特に大きなビジネス、はいまや軍隊のように組織されている。

これは、何人かが言うように、流血のない柔らかな軍事主義の一種であり、私自身の言葉でいうなら、軍隊的な価値のない軍事主義だ。

しかし、とにかく、明らかなのは、自分の住まいや住居に戻った時に、お気に入りの絵を掛け、お気に入りの安いたばこの良い香りをまとっているときよりも、銀行ではたくさんの行員が、喫茶店ではたくさんのウェイトレスが、軍隊のように訓練されて、規則の管理下にあるということだ。

しかしこれは、経済の分野の場合はこんなにも明らかであるが、社会の分野の場合でも同様に真実なのだ。

実際、快楽の追求は単に流行の追求である。

流行の追求は単にしきたりの追求である。これは単に新しいしきたりを呼び起こすだけだ。

ジャズダンス、ジョイライド、大規模な楽しいパーティ、ホテルのエンターテイメントは、本当に独自の味を出すことはしないし、過去のどんな流行も本当に独自の味を出すことをしなかった。

もし、裕福な若いレディが、他の若いレディがしているすべてのことをしたいと思ったら、彼女はそれをとても楽しいと思うだろうが、それは単に若さとは楽しみであり、社会とは楽しみだからだ。

彼女のヴィクトリア朝時代の祖母がヴィクトリア朝を楽しんだのとまったく同じように、彼女は現代を楽しむだろう。

そして、かなり正しくもあるのだが、これはしきたりを受け入れるということであり、自由を受け入れるということではない。

あらゆる歴史の時代のすべての若い人々にとって、理性ある度合いの範囲まで一緒に集まって、熱心にお互いをまねしあうのは、完全に健康的なことだ。

しかし、ここにおいては、特別に新鮮なものや特別に自由なものは存在しない。自分の頭を剃って、化粧をして、短いスカートを履くような女の子は、世界が自分のために組織されているように思うだろうし、この世界の進行に歩を同じくし幸福に行進するだろう。

しかし、自分の髪をかかとまでのばしたり、野蛮なつまらない品物とひきずるような衣装でごてごて飾ったり、(この中で一番ひどいが)化粧をせず、もともとの状態のままにおいておくことが好きになってしまったような女の子は、これらのことを自分自身の敷地でやるように、しっかり注意されるだろう。

社会構造のせいだが、もしケンブリッジ公爵夫人が馬飛びを本当にしたいなら、最新のダンスをプロのように踊る50人ものベストカップルたちでいっぱいのバビロンホテルのバスルームで突然馬のように飛んではならない。

フィッツドラゴン城の古いオーク材でおおわれたホールで気心の知れた友人たちに認められながら馬飛びするほうがよほど簡単に思うだろう。

もし、枢機卿会会長が、自分にできることを何でもしようと思うなら、すでに慈善事業のために組織されたなんらかの社会的エンターテイメントのプラグラムを邪魔しようとするよりは、自分の管区のおちついた雰囲気の中でそれをする方が、よほど楽で品位をたもちつつできるだろう。

 

もし、日個人的なルーティーンが経済的、さらには社会的なことの中にも存在するなら、それは政治的、法的なものの中にも存在するし、いつも必ず存在することは言うまでもない。

たとえば、国の罰は、雑な一般化をせざるをえない。

家庭での罰のみが、個人的な事例に対応できるのは、審判者がその個人のことを何でも知っているからに過ぎない。

トミーが銀の指抜きを仕事用のバスケットからくすねたら、彼の母親は、彼がいたずらのためか、腹いせのためか、だれかに売るためか、だれかを困らせるためか、何のためにしたかによって、全然違う態度をとるだろう。

しかし、もしも、トムキンスが銀の指抜きを店からとったら、万引き犯に対して定めたルールに従って法の処罰を受けることになるし、また受けなくてはならない。

家庭的な規範のみが、なんらかの共感や特になんらかのユーモアを示すことができる。

家族がいつもこういうことができるとは言わないが、国家がこのようなことを絶対にしようとしてはいけない。

もし、私たちが親のみを独立した王子で子供がその単なる従属物だと考えるとしても、家族の相対的な自由は、これら従属物に対して、有利に働きうるし、実際にしばしば有利に働く。

しかし、子供が子供である限り、子供はいつだって、だれかの従属物であるだろう。

問題は、子供たちが、古い言い伝えの言うように、他のだれも感じないような感情、自然な愛情を感じる彼らの自然の王子さま(親)のところに、当然分配されるかどうかということなのだ。

わたしにとっては、この分配が、もっとも多くの人に、もっともたくさんの自由を与えるのは明らかなことのように思われる。

 

反家庭的な潮流に対するわたしの不満は、知的なものではない。

人々は、自分が何をしているかわかっていない。彼らは何をしていないかわかっていないからだ。

一番大きなものから小さなものまで、離婚からピクニックパーティまで、多数の現代的な兆候が存在する。

しかし、ひとつひとつは、ばらばらの逃避や回避だし、特にこの問題の要点に対する回避だ。

人々は、哲学的なやり方で、伝統的な社会秩序を望むかどうか、決断すべきである――もし何か特に代替案が望まれる状況なら。

ところが実際は、公的な問題を人々は、単に個人的問題をごちゃまぜにしたものや寄せ集めにしてものとして扱っている。

反家庭的な状況にあっても、家庭主義のテストをするなら、人々は家庭的すぎるだろう。

それぞれの家族は、自分たちの場合だけを考え、その結果は単に偏狭で否定的なものになる。

それぞれの場合は、存在しない規則に対する例外である。

家族、特に現代国家におけるそれは、思慮深い訂正と再生の必要があるし、現代国家のほとんどのものがそうである。

しかし、家族という邸宅は、保存されるべきか、破壊されるべきか、再建されるべきか――レンガ一つ一つバラバラになるべきではないだろう、なぜならだれもレンガが積まれた目的に対して、歴史的意味を見いだせていないのだから。

たとえば、復元のための建築家は、古代のホスピタリティ(暮らしやすさ)という徳のため、広く簡単に開くドアがつけられるように、家を再建するべきなのだ。

別の言葉でいえば、個人的な資産は祝祭の交換の余地を残すように、満足がいくほど適正に平等な形で分配されるべきだろう。

しかし、家のホスピタリティはいつだって、ホテルのホスピタリティとは違うものだろう。

そして、ホテルのホスピタリティよりも、家のホスピタリティの方が、いつだって、もっと個人的で、もっと独立していて、もっと興味深いものだろう。

若いブラウンと若いロビンソンが、創造主の計画に従い、出会って、付き合って、踊って、自分たちをバカにするのは、完璧に正しい。

しかし、ブラウンがロビンソンを楽しませることと、ロビンソンがブラウンを楽しませることの間には、いつだってなんらかの違いがあるだろう。

そして、この違いは、人の心の多様性や人間性、潜在能力にとって有利だろうし、別の言葉でいえば、生活、自由、そして幸福の追求にとって有利になるだろう。

 

 

 

 

ウィリアムジェイムズ「道徳哲学者と道徳生活」

アーシュラ・K・ル・グウィンの「オメラスから歩み去る人々」において、言及されていた文章、ウィリアム・ジェイムズの「道徳哲学者と道徳生活」の、「オメラス」にて言及されている部分の抜粋訳。

訳者の力不足により意味が取れていない箇所があると思います。

【】は訳者の意見です。

 

改行は原文と一致していません。

 

 

***以下より翻訳***

 

 

道徳哲学者と道徳生活

(1891年2月9日イェール大学の哲学クラブの前で読まれた)

 

この論文の主な目的というのは、あらかじめ独断的に倫理哲学を作るということはまったく不可能であるということを示すことにある。

人類の道徳生活に貢献する限りにおいて、我々はみんな、倫理哲学の内容を決めようとしている。

別の言葉でいえば、物理学でそうであるように、人類最後の人間が自分の経験から自分の言い分を言い終わるまでは、最終的な真実は、倫理においては存在しない。

しかしながら、この場合においては、別の場合と同じように、とりあえずの仮説と、この仮説が思いつかせた行為は、その「言い分」が何であるか決定する必須の条件に含まれる。

まず第一に、倫理哲学を求める人間の立場というのは、どのようなものだろうか?

はじめに、その人は倫理的懐疑主義者であることに満足しているすべての人間と区別されなければならない。

その人は懐疑主義者ではないだろう。

 

それゆえに、倫理的懐疑主義は倫理哲学の実りにはなりえず、その結果、すべての哲学にとって、倫理的懐疑主義は最初から、落胆した哲学志望者がその探求をあきらめ、もともとの目標を断念するようにおどかす、あまりものの代替案としかみなせないでしょう。

【倫理について懐疑的な見解を持つものは、そもそも倫理哲学者ではないという話】

 

その目標とは、道徳関係の説明を求めるとういことであり、これらの中には、倫理的関係性を安定したシステムへと作成することや、倫理的観点から真正なる宇宙と人が呼ぶかもしれない世界を作ることも含まれる。

【正しい倫理に関する理論や、正しい世界とは何かについての見解を述べるということ】

 

世界が、統一の形式の減少に抵抗する限り、倫理的な提案が不安定に見える限り、哲学者はその理想を達成できない。研究の題目は、世界に存在することを哲学者が発見した理想である。彼を導く目的は彼自身の理想であり、その理想をちゃんとした形に変えることだ。

 

よって、この理想は、真正なる存在は絶対に見過ごされてはならないという倫理哲学の世界では、あるひとつの要素となる。

これは、倫理哲学者自身が必然的にその問題に対して可能な、肯定的な貢献だ。

しかし、これのみが肯定的な貢献である。

倫理哲学者の探求はその最初から、他の理想を持つべきではない。

 

もし倫理哲学者が特に、なんらかの種類の善の勝利に興味があるならば、彼はその程度までは、裁判官のような調査官であることをやめるだろう、そしてこの件に関しては、ある限定された要素の代弁者になるだろう。

【あらかじめ何らかの善に価値があるとすると、結論ありきの議論を展開するために、その善に関しては不公平な態度をとることになる(いつもその善に味方する)ということだと思う】

 

なんにせよこれらの言説にくっついているかもしれない不明瞭さというものは、我々が具体的な適用をしていき、観察するにつれ、なくなっていくだろう。

 

 

 

 倫理学には、別々に考えなくてはならない問題が三つある。

 これらをそれぞれ、「心理学的問題」、「形而上学的問題」、「詭弁家的問題」と呼ぼう。

 心理学的問題は、我々の道徳概念と判断の歴史的「起源」を問う。

 形而上学的問題は、善、悪、義務などの言葉のまさにその「意味」が何であるかを問う。

 詭弁家的問題は、人間が認識する、さまざまな善と悪の「基準」が何であるかを問う、それにより、哲学者は人間の義務についての真なる秩序を構築するかもしれない。



I

 

 

 心理学的問題は、ほとんどの論争者にとって、唯一の問題である。

 もし、一般的な神学博士が、何が正しくて何が間違っているかを、良心と呼ばれるまったく固有の能力が我々に教えてくれることになっているはずなのだということを、自分の満足いくように証明できたとしたら、あるいは、通俗科学の熱狂的信者が、「先天主義」は打破された迷信であり、我々の道徳判断は徐々に環境の影響によって決定されてくると明白に示したら、これらおのおのの人々は、倫理とは確定されたもので、もはやいうべきことは何もないと思うだろう。

なじみ深いふたつの名前、直感論者と進化論者、今や倫理的問題における全てのありうる違いに言外に意味するのに共通に使われるこの二つの名前は、心理学的質問のみを本当は参照する。

この質問に関する議論は、特定の細かい点に大きく依存するため、この論文の限界により、この点から話をはじめることは不可能である。

 

それゆえ、私は自分の教条的な信念を述べるにとどめるが、それはこのようなものだ――ベンサムや、ミルや、ベインの賛同者たちは、人間の理想をあまりにもたくさん取り上げて、その理想がいかに単純な身体的快と痛みからの逃避という行為の連合から生まれてくるに違いないというこをを示してきた。

【ペインは、文脈からおそらく連合心理学の人物だと思われる】

 

多数あるそれぞれの快感と連合が、疑いようもなく我々の心の中の善というような重要なことがらを作り出すのだが、心の中の善があいまいになればなるほど、善の起源はどんどん神秘的なものになっていくようだ。

しかし、すべての気持ちと好みをこの単純な方法で説明することは確実に不可能だ。

ひっきりなしに人間の本性について心理学が研究すればするほど、二次的な感情の痕跡を人間の本性の中にますます明らかに見つけるだけになり、純粋な経験主義が受け入れることができる共存と連続の単なる連合とはかなり違ったやり方で、環境の印象それぞれと私たちの衝動が関連付けられている。

酩酊への愛をとりあげてみよう。はじらいや、高所恐怖症、船酔いになりやすい傾向、血を見て失神すること、音楽の音に対する感受性、喜劇の感情、詩や数学、形而上学への情熱を取り上げてみよう。これらの事柄のどれも、それぞれの連合あるいは効用によって完全に説明することはできない。

そのように説明されるあれこれに、連合や効用は疑いなく付き物だが、何の役にも立たないことなんて我々の中には見つからないから、だいたいは未来の効用の予言になる。

 

しかし、連合や効用の起源は我々の大脳構造――その構造は、その元からの特徴がこれらの不協和音と調和の認識になんの関係もなく出てくるのだが――に対して偶発的で厄介な問題の中に存在する。

【ちょっと何を言っているかわからない】

 

ああ、我々の多くの道徳認識は、この二次的で脳に由来する種類のものからも確かにできている。道徳認識は、感じられた感覚に直接とりくもうとし、しばしば習慣という先入観と効用という仮定をしばしば無視する。

 

粗悪でありふれた道徳格言の枠を超えるとき(たとえばモーセ十戒や、貧しきリチャードの暦)、あなたは、常識的な目には風変りで過剰に緊張したように見える形式と立場の中に落ち込む。

 

何人かの人が持つ抽象的正義の感覚は、博物学の視点からすれば、音楽への情熱か他所の魂を破壊する高次の哲学的一貫性と同じくらい異様な変異種である。

 

ある霊的な態度に対する内的な遡源の感覚、つまり平安、平静、簡素さ、誠実さ、あるいは他者に対する本質的な品性のなさ、つまり愚痴っぽさ、不安、わがままなうるささ、など、これらはほぼ説明できない――純粋にそれ自身のためのより理想的な態度を好むという先天的な好みを除いては。

【人類には先天的に向上心があると言いたいのだと思う】

 

高貴な物事は、より「良い」味がする、そしてこれが我々に言いうるすべてだ。

 

継起するものごとに対する「経験」は、我々に、何が奇妙なことなのかを確かに教えてくれるかもしれないが、何が意地悪で下品かということについては何の関係があるのか?

【一般的な時間の流れの中で普通にする経験から常識というものは作られるし、それによって何が普通でそうではないかはわかるだろうが、何が意地悪で下品かということを説明することはできないだろうと言いたいのだと思う】

 

もしある男が、妻の愛人を撃ったとして、我々は 夫婦が仲直りして、ふたたび一緒に仲良く暮らしていると聞いたときに我々がとても気持ち悪くなるのは、いったいどんな言葉にできない嫌悪感によるのだろうか?

 

あるいは、フーリエ、ベラミー、モリスたちのユートピアがすべてに勝る世界において、すべての人が永遠に幸福になっており、ある失われた魂が、物事の遠いはじっこで、孤独な拷問の人生を歩むということのみを条件としてそれが成立するという仮定を提案されたら、特別で独立した種類の感情以外に、何が我々を以下のように感じさせるのだろう、そのように提案された幸福を自分たちが手にしようという衝動があろうとも、そのような取引の結果と知りながら受け取ることはおぞましいことであると感じさせるのは。

【この箇所がオメラスのインスピレーションとなった箇所】

 

もうひとつ言うと、いったい何が、因果応報を求める正義のまったき民族的伝統に対する最近のこれら、繊細な脳に由来する抗議的不協和音感情の原因なのだろうか?

【ここの訳は自信がない】

 

私は、トルストイの無抵抗の考えに言及する、ベラミーの後悔の忘却の代理(ハイデンハインのプロセスという小説の中にある)について言及する、ギュイヨーの刑罰の理想に対する急進的な避難について言及する。社交形式のマニュアルに印字されている「婚約期間に観察されるエチケット」の教訓を、若い恋人たちの間にうまれうる感情のきめこまやかさが乗り越えるのと同様に、「連合法則」によって明らかにされるものをこれらすべての道徳的感性の微妙さは乗り越える。

 

いや! 純粋に内的な力がここでは確かに働いている。

理想が高くなるだけいっそう、理想はより透徹し、革命的になる。

その理想は過去の経験の装いというよりは、未来の体験の可能的な原因としてあらわれてきて、環境と教訓が私たちに服従しなければならないと教えてきた要素だ。

【おそらくこの文は意味をよく取れていない】

 

これは、私が心理学的質問について今や言えることのすべてだ。

最新の研究の最後の章で、一般的な方法において、私は、関係性についての考えの中にある存在は経験の単なる反復だけではないということを証明しようとしてきた。私たちの理想は確かにたくさんの起源をもっている。この理想は、重要な肉体的な得たい喜びと、避けたい苦痛とですべて説明できるわけではない。そして、この心理学的事実をしげしげと観察すると、直感学派を我々は称賛するしかない。この称賛を、この学派の人物にまで拡大しなければならないかどうかは、次なる質問をみていく上であきらかになるだろう。

 順番からして、次の質問は、形而上学的質問であり、私たちは義務、善、悪といった言葉で何を意味するのかという質問である。

功利主義者の考えだけでは、人間の精神を理解することはできないということを言いたいのだと思う】

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」宗教的な感想

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」について。
あまり、ネットの書評では書かれていない観点からの感想を書きたい。
SFが好きな人と宗教に興味がある人は、もしかしたらあんまりかぶらないかもしれない。
だが、僕はSFが好きだし、宗教も好きだ。
ネタばれありで、少し語る。
これは僕の解釈なので、そう思わない人もいると思う。
文学部的な言い方になるが、僕なりのテクストの「読み」だ。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」についてだが、僕の見るところ、これはアンドロイドものによくある、人間の心を持つアンドロイド、的な話にはならない。
アンドロイドは基本的に、人間とは決定的に違う要素を持つ存在として語られる。
僕の見るところ、もっとも人間に近いアンドロイドとして描かれているように見える、ルーバルフト(LubaLuft)も、最初の尋問の際に、アンドロイドが劇団の中にいるなら捜査に協力する、と言って、仲間を売るのをいとわないようなそぶりを見せる。
主人公のリックには、自分以外のアンドロイドがどうなろうと気にしないのがアンドロイドの特徴のひとつだ、と指摘されてしまう。
このエンパシー(共感)能力を、アンドロイドはもたない、というのが、この小説での大前提である。
他者に対して共感することができない、そういう能力を欠如している存在、これをこの小説でアンドロイドと呼んでいて、そしてそれは「処理(リタイア)」させるべき対象とされている。
ここらへんはフィリップ・K・ディックはあまり煮詰めて書いていないと思うが、「共感能力を持たないやつは人間ではない」ということがひとつの前提で、この前提があったうえで、書きたいトピックをいろいろ書いていったのではないかという感じがする。

 

マーサー教という宗教が作中で出てくる。
これは共感ボックスという、その取っ手をにぎると、その宗祖マーサーの受難を体験できるという道具を使う宗教らしいのだが、詳しいことはあまり語られない。
実際に共感ボックスで投石されたら現実の体にも傷がついたりする。
これは一般的な「共感」とは異なると思う。もう少し射程の広い話をディックは展開しているように思う。
ディックがここで言っているのは、共感というよりも、ある種の宗教体験である。

マーサーは、時間を巻き戻すような能力を持っていた、とされている。
死んだ生き物をよみがえらせたりできたらしい。

物語の終盤で、マーサー教はインチキだということがあばかれる。
役者がやっていた偽物の舞台で、受難の歴史を捏造したのだということなのだが、ここで、この本は面白い展開を見せる。
物語の設定上でも、たしかにマーサーの受難映像はインチキであるというのは「正しい」ことだとされている。
しかし、そのあと、物語の登場人物であるイジドアはマーサーに会い、救われる。
ここでの描写はすごくて、イジドアの周りの物質が時間を加速して崩壊していくような描写がある。
共感能力を持たないアンドロイドが足を切り落としたクモも、足が復活して息を吹き返す。
これはマーサーの祝福として描写されているように見える。
バウンティハンターであるリックも、自分が好きになってしまった女性アンドロイドと同型のアンドロイドに殺されそうになる時に、マーサーに助けてもらう。
It will be the hard one of the three and you must retire it first.
残っている三人のアンドロイドの中でもっとも難しい相手だから、最初にそれをリタイアさせなくてはならない。
という助言のみならず、背後にいることまでも指摘する。
もう、ここでは現実世界に干渉している。

 

マーサーは、リックがこの三人のアンドロイドと戦う前に、自分の本質とは違うことをするのが人間のさだめだし、それが呪いなんだ、そして救済はないんだ、しかし、それでも「間違ったことでもしなくちゃならない」みたいなことを言う。
インチキだとわかったマーサー教だが、それでもその力は失われないことが物語では示唆されている。そしてなぜそうなるのかをアンドロイドは理解できないであろう、とも語られる。

キリスト教の高等批評にしろ、仏教学の成果にしろ、実際に聖書に書かれていることが本当ではないとか、聖書に書かれていることが相互矛盾するとか、ある仏典が釈迦の死後数百年後に作られたものだとか、相互矛盾する記述があるとか、そういうことがわかってきている。
地球が平らだったり、須弥山を信じている現代日本人はいないだろう。
しかし、それでも、キリスト教や仏教には、ある種の力--こういっていいのかわからないが、救済力が存在する。
聖書が歴史的事実であるかどうか、仏典で語られる話が本当かどうか、とは違うレベルで、人を救う力がある。
マーサー教のところでディックが言いたかったことはこういうことだろう。

 

それが歴史的事実として、客観的事実として真実かどうかはあまり問題ではなくて――たとえそれが嘘でも、それでも何かそこには意味があるのだということを言いたかったのではないか。
もともと、純文学を志向していた作家らしいし、ヴァリスなどはもっと宗教的な著作らしいから、そこらへん読むとよくわかるのかもしれない。