ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。


いつか死ぬことが確定している世界におけるハッピーエンドとは何か?
最後には全て失うことになるのにハッピーエンドは存在するのか?
これを子供の頃から考えている。滝本竜彦のネガティブハッピーチェーンソーエッヂはこの問題意識を共有していると思っている。

全ての努力が無駄に終わるとしても戦いながら死にたい。勝てないまでも負けたくない。せめて一太刀、一矢報いたい。

 

滝本竜彦さんの、「安倍吉俊さんと私」という文章について。
これは、ユリイカの「安倍吉俊」特集で出てきた文章だ。
安倍さんの描く女の子では、オナニーしたくならないのだ、と書いてある。
それは、つまり、性的なまなざしを受け付けないような絵なのだという。確かに、オナニーしたくなる絵ではないとぼくも思う。
滝本さんの洞察ですごいなあと思ったのは、ここからで、「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」というところ。
これは、まったくそのとおりかもしれない。
(実は、性的な目線が、イコールで、奪うべき価値があるという錯覚「だけ」にもとづくのかには、ちょっと疑問があるのだが)


好きな人はいつか離れ、自分の頭も体も衰えて、以前できたことができなくなってゆく、本当に自分のものとして永遠に手に入れることができるものは何一つない、だから戒を守って瞑想しなくては救われないと言う気持ちがある。
今年度は、絶対ぶっ殺してやるという気持ちがわいてきた。
絶対ぶっ殺してやるという気持ちがあるが、特定の誰かに向けた気持ちではない。殺意みたいな憎しみがあり、たぶん何かスイッチが入るとそちらに向かうような気配がある。貪瞋痴、あまり今まで感じていなかった瞋を強く感じる。憎悪、怒り、これを心の自然現象として、ただ見るだけ、観察するだけ。


自分が幸せになれないゲームに強制参加させられているなら、当然ゲームごと自分をぶっ壊してやると思ってもまったく不思議じゃない。
闘争領域の拡大とは最終的にはそういうことでしょう。ウェルベックの問いは正しい。問題は解法の行方だ。

ミシェル・ウェルベックというフランスの作家がいる。
彼の処女作が、「闘争領域の拡大」だ。
資本主義が経済の自由化をもたらしたように、性愛の自由化、自由恋愛の進展が、「闘争領域」の拡大をもたらすという話だ。

経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。―『闘争領域の拡大』より。


闘争領域が拡大する中で、敗北者になったものには何が残るのだろう。きっと何も残らない。そして勝利者になったものには、得たものを失う恐怖が常に付きまとう。安息はない。闘争領域の縮少が求められている。
みんながご飯が食べられるくらいにお金を稼げるべきだと思う。
みんなが結婚できるのがいいと思う。(しかし――それはみんなを幸せにするとは限らない――それは新しい犠牲者を出すだけなのでは?)


自分には、あとどれだけのチャンスが残されているかと考える。自分には、あとどのようなチャンスが残されているかと考える。たぶんあまりないだろうと考える。それでも実際にどうかは、可能性を叩き潰してみるまで厳密にはわからないだろう。

美しくない人にも救済が訪れますように。

僕が本当に興味があったのは、「僕自身の救済」だったんだろう。
たまに青井えうさんのブログの最後のエントリ「なすびあんは終わりました」とか、kentz1さんの「会社を辞めた」とかを読みたくなる。
すべてが終わったと思ってからが、その人間の真価が出ると思っているからだ。何もかもが失われてもまだ未来だけは残っているし、たぶんまだ未来以外にも残っている。
とりあえず、このままでは終われないな。

今までできていたことが、どんどんできなくなっていく感覚がある。老いというよりは、これは、摩耗という感覚に近い。
しかし、完全に駄目になる前に、やれることはあるはずだと、まだ信じている。
まだ、何もかもが手遅れだというわけではないのだと、心のどこかでは信じている。
思い返せば、幸せになることをあきらめたことだけは、物心ついてから一度もない。
絶対に決着をつけてやるという気持ちで生きている。
勝つことはできないにしても、負けないことはできるはずだという確信めいた信仰を僕は持っているのかもしれない。

叫び出したくなるような孤独を経験したことがない人間にとって文学は必要ない。(必要ないがあっても問題ない)
やはり文学はかつて語られたように勝つための学問ではなく負けないための学問だ。

小鳥遊るいというアイドルがいる。その知性は本当に美しい。もっとその頭の良さを見せて欲しい。頭のいい女の子は、頭の切れる女の子は、本当に本当に魅力的です。
そしてもちろんアイドルに愛されることはできない。
好きな女の子に一生好きだと言われることのない人生だとしても小鳥遊るいを愛することはできる。これは得られなかった感情や思い出の代替品なのかもしれないし、一種の補償作用なのかもしれないが、いずれにせよ救済であることに違いはない。(本当に? 本当にそれは救済か?)
小鳥遊るいちゃんはみんなに救済と幸福を与えていて偉い。叫び出したくなるような孤独に安らぎを与えている。キリエエレイソン。
たぶん子供の頃からずっと考えていることのひとつとして、「『闘争領域の拡大』のティスランが人生を肯定するにはどうすればいいのか」という問題がある。
カラマーゾフのイワンも言っているように、ティスランが救われないままなら天国行きのチケットは謹んでお返しするべきだ。
救われたいけど救われないような人間が一人でもいるならそれはそんな人間を生み出すこの世界が間違っているし、それを神様が作ったのなら、そんな天国行きのチケットなんて倫理的に汚れている。
神様が世界を作ったくせに、その世界でもがいている人が死んだ後に天国に行くか地獄に行くか決めるだけならそんなのはただの暴君だし、そんな存在が作った天国なんて高が知れている。
全知全能なら全員救って見せろ。
それができないなら無能だろ?
仏教の好きなところは、梵天も死ぬところだ。ブラフマンも万能じゃない。最高神も不完全なところだ。戒、定、慧の三学を修めて涅槃に至らない限り、この苦痛に満ちた現世から解放されることはない。
結局、絶対に救われない人がいるという状態がたまらなく納得できないのだろう。どこかに救済がないと嘘だと思ってしまう。
そういう意味だと大乗仏教徒っぽいな。


このまま何もやる気がなくなって人生が終わるのは納得できない。
闘争領域の拡大ではないが、戦って死にたい。抗って死にたい。勝てないとしてもそれなら負けたことにはならないという信仰がある。誰が言ったか(「素晴らしき日々」という美少女ゲームだったはず)、「文学は負けないための学問」ですよね。何もしたくない欲が増えていって、自分を蔑ろにしつつあり、可愛い女の子を可愛いというだけで人生を終わるのは、それは、嫌だな。好きな詩を書き留めたノートも、もうどこにいったのかわからないな。
自分の人生の勝利条件は自分で決めないとな。

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。