ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

知性、崩壊、計名さや香

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好きな文章、にじみでる知性がすばらしい。

犬養毅とアンティステネスが、どちらも犬に関係した名前だと知っている英語話者がいったい現在、世界で何人いるんだろう。

知性を感じる文章に、僕はノックアウトされやすいみたいだ。

 

体力がないんだ、と言ったら、だったら鍛えればいいんじゃない?と言ってくれた他校の女の子のことを今でも尊敬している。「それ」を変える能力を君は持っているんじゃない?と肯定的に言われた気がして。

 

 

気がついたら精神が崩壊していた。 この経験があったので、後年になってフィッツジェラルドのエッセイの二つの崩壊について完全に同意できた。 致命的な崩壊は気づいたら起こっていて、気づいたら手遅れなのだ。

なんでそうなったのか分からないが、突然、何もかもがやる気がなくなってしまった。退学したくなったし、勉強に情熱を注げなくなった。 本当に崩壊という感じだった。友達がいなかったのも危険因子だったのかもしれない。

死にたいとは思わなかったが、自分が何をしたいのか分からなかった。何もかもが終わってしまった感じがあった。
このせいで人生は確実に「レール」から外れてしまったと思う。
もし、ぼくが時を巻き戻すことができたら、この「崩壊」を止めることはできただろうか、とたまに思う。
百パーセントの確信は持てないが、おそらくこの「崩壊」を、あの時点で引き起こすことだけは、止めることができる。
あれがおこった原因は、正確にはわからないが、あの専攻を選ばなければ、違う選択肢をもっと早い段階でとっていれば、あの頃には思いつかなかった行動をとることができていれば、あの「崩壊」の発現をとめることはできるだろうと思う。
でも、ここで二つの事実を指摘したい。
ひとつめ。現時点では、過去に戻ってあの「崩壊」を止めることができたとしても、幸福になれる自信はない。過去に戻れたら、「もっとうまくやる」自信はある。だが、幸福になれるかはわからない。これは、本当に大事な点だ。今は、それなりに幸福でいるから、そう思えるのかもしれない。「崩壊」が起こったあとでも幸福にはなれる。
そして、「崩壊」が起こらなかったとしても、それは幸福になれることを意味しない。
ふたつめ。過去に戻って「崩壊」をとめられたとしても、そこからさらに生きていくときに、別の形で「崩壊」が発現する可能性はある。これは当然、この今の人生でも同様だ。「崩壊」を引き起こす要因を特定しきれたわけではないのであれば、同じ現象が起こることはありうる。ここを防ぐには、瞑想が有効なのではないかと思っているが……。
 
この「崩壊」は、ぼくの人生の方向性を、かなり大きく変えてしまった。
前と同じような人生、子供のころに描いていた人生が二度と手に入らないように思う。(いや、でも、子供のころから、みんなと同じようには生きられないような気もしていたかな)
昔と同じような人間にさえなれないだろうと思う。
しかし、これは必然だった気もするのだ。つみあがっていた歪みが発現しただけで、兆候は昔からあったんじゃないだろうか。
高校のころ、現代文が読めなくなって、サリンジャーしか読めなくなったころから、死ぬのが怖くなって頭の働きがとても悪くなっていたころから、周りの環境がよくてたまたまそろわずにすんでいたカードがすべてそろってしまったために、最悪なロイヤルストレートフラッシュが完成してしまったんじゃないだろうか。
 
この「崩壊」は、自分が何もしたくなくなってしまって、完全に人生の方向性を失ってしまったことにある。「あんまりにも自分のことばかり考えていた、あたりはほらあなのように暗い」、若山牧水の詩だ。中学校のころに読んでからずっと頭の中にある。僕のことだと思った。
ぼくには、他人が必要だと思う。
 
 
昔、計名さや香さんに会ったことがある。とても若く見える人だった。実年齢から20歳くらいは若く見えた。幸福に生きていてほしいと思う。もっといろいろ話してみたかった。
 
 
 
何かを手に入れたいと思っている。
まだ、そう思っている。
だが、時間と能力とエネルギーが、もうあまり残っていない。
本当に慎重に考えないと、また失敗するだろう。
今度は失敗してたまるかという気持ちがある。
結局、ぼくは、少し怒っているのだろう。あの頃に、「崩壊」してしまった自分自身に。失敗とか成功とか関係ない境地に行きたいと思いつつも、あの頃の失敗を絶対に挽回してやるという気持ちがある。こんなところで終わってたまるかという気持ちがある。自分の中にある攻撃性、貪瞋痴のうち瞋を強く感じる。
もう少し、自分を信じてあげたい。