ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

だけど何人かは反対の側にいる

だけど何人かは反対の側にいる

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-12-17-but-some-of-them-are-on-opposite-sides.html

 

2013年12月17日投稿

 

なぜ善が報いられるべきであり、なぜ悪が罰を受けるべきなのかを、そしてなぜそれが逆ではないのか(あるいは、なぜ逆であるのか)[1]についておそらく考えることができるようになる前には、最初に善と悪が何であるかを考えるべきだし、とにかくそれらが何であるのか、ものごとが善い、悪いというのはどういう意味なのか考えるべきだ。もしわたしたちが、人間の本性というものが、善は報われるべきであり、悪が罰を受けるべきだと信じさせるのだということを受け入れるのなら、それは以下の運用上の定義を許可する。善とは報われるべきもので、悪とは罰を受けるべきものである。

 

このような定義はとても単純化したものであり、簡単になぜ人が善くあるべきかについて説明する(良い報いがあるから)し、なぜ人が悪いことをしてはいけないのか説明する(罰があるから)が、富める者や力のあるもの栄光をたたえ(報われている、食料を得てきているはずだ)、犠牲者を非難する(罰をうけているから、悪いやつに違いない)。

 

なぜ罰を受けてさえ倫理的にふるまうべきなのかの説明は、ならば、おそらくほとんど満足のいくものにはならないだろう。ふるまうべきないなら倫理は善ではない。罰を受けるときでさえそれをしなくてはならないような固有の性質をもつから倫理的にふるまうべきではない。このような考えはまったく無意味だ。罰に報酬があるとでも仮定しない限りは。しかし、これは仮定された嘘と同じくらい間違っている。

 

このモデルにおける複雑化は、みっつの点で立ち現れてくる。最初に、なぜ人間の本性はそのようであるのかという点。第二に、公道に対する結果が報いあるいは罰あるいは他のものあるいはなんでもないものとして知覚されるかどうかという点。三つ目は罰よりも報酬を大事に思う点。                                                                                    

 

最初の点は人類のバイアスによってもっとも簡単に説明できる。これは私たちが観察したことだ、なぜならもしそうでないなら、観察することができないからだ。このようであるべきかそうでないべきかをわたしたちが定義しないなら、十分な人間がまわりにあまりいないことになるだろう、一人で充分な時間を確保して倫理と道徳性の源泉について考えさせればよい。そうであるいいわけはあまり存在しない。このように考える人もいるようだが、このように考える人は考えるのを止める確かな傾向があるようだし、ちがったように考えたり、そのようにある間違いに陥らないようになっている。

 

第二の点と第三の点はもっと面白くて、お互いに幾分かかわりあっている。

 

報酬と罰の任意のペアを比べることが実際に可能かどうかを言うのは難しいが、確かに私たちは二つの極端を仮定する。究極の報酬を生む最大の報酬が同時に起こる可能性のあるすべての罰の総数と比べられるとき、そして究極の罰を生む最大の罰が同時に起こる可能性のあるすべての報酬の総数と比べられるとき(このふたつは、もちろん、同時には不可能だが、繰り返すことのできないすべての組み合わせを含む組み合わせは、繰り返すだろうか?)。これは、絶対善と絶対悪の親しみある概念を、最大の顛末を結果するすべての行動という観点から、提供する。

 

しかしながら、善と悪をその結果という観点から定義することにおいて、わたしたちは未来性、そしてしたがって不確定性という要素を付け加えるが、これは行動の結果を判断するという問題を呼び起こす。ある程度は、私たちは似たような行動の後に過去起こったことに基づいた結果への期待を形成するのは自然なことだし、もし他の哺乳類の心理学がなんらかの指針になるのなら、機体が外れたときのみしばしば一般化と差別化が起こる。

 

そして、依然私たちは、その結果が望ましい(善い)か望ましくない(悪い)を評価しなくてはならないし、結果が完全に不合理あるいは最低でも部分的に識別不可能なことは完全にありそうなことだ――その理由は情報の不足のためか情報が矛盾しているためなのだが。さらに、報酬と罰の両方がありえそうな結果であるなら、それぞれの価値と可能性はおたがいに相殺しあうし、結果に割り当てられたそれぞれの価値と可能性にわりあてられた相殺分は実質的に違う人間の状況評価に寄与する加えて、不可知であり予見不可能な要素があり、それは理解可能だろうが、割合を占めるのは難しい。

 

しかしながら、未来は、我々の視点からすると、決定されているようではないから、行動の是非を問うのは、決定的な時間の終わりがきて、すべての可能な結果が明らかになるまで不可能であり、因果法則を考慮に入れると、動作主が動作したあとに得られた行動についての情報はその行動に影響を及ぼさないので、その行動を起こした時点での動作主にとって利用可能なすべての情報に照らしてその行動が善か悪かを判別することのみが役立つことである。

 

これらすべて、わたしたちをヨブ記のヨブへと呼び戻す。ヨブは悪い結果を受けたが、ヨブが得た情報で、ヨブは自分が正しいという結論を得る。ヨブは自分が罰にえらばれたかを知ることはできないなぜなら、ヨブはもっとも正しいものだからだ。

 

しかしながら、予想されたことが実際に起こるという保証はまったくない。そして神の持つ情報はヨブの持つ情報と同じではない。それゆえ、ヨブや他の人間が持っている善と悪についての信念を、神が原因であるとすることはできない。実に、全能の存在にとって、結果による道徳性はあまり意味深いものではない。神は何かに理由を必要としない。それはそのようにあるだけだ。そしてちょうど同様に、もし神が何にも理由を必要としないなら、神がだれかの行動にどのように反応するかを心配するのは無意味なことだ。神はいずれにせよ反応することができるし、神の行動を予想することはできないのだから。人はかわりに、理由をまさに必要として、限界の存在のすることに注意を払うべきであろう――つまり、たとえば世界のように。

 

[1] 役者注:筆者のこういう書き方が僕はとても好きだ。ここで筆者は、世界が善は報われず悪が報われる可能性について言及している。話の前提は、なぜ勧善懲悪であるべきなのかという話だが、そうじゃない可能性にも言及する「しつこさ」がたまらなく好きである。

そのやり方じゃない

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2014-01-09-this-is-not-the-way.html

上記URLの翻訳

 

 

そのやり方じゃない

2014年1月9日投稿

 

自分自身について知ることは、その人の自己についての知識を持つことである。

 

この説明は少し、それ自身でそれ自身を説明しているが、この「自分自身」についてこじ開けて考えてみることは重要だと思う。自己とは何か? 段階的に接近してみよう。ある人にとっての自己とは、その人が何者かということである。その人の自己とはその人の本質的な性質である。その人の自己とは、おそらく、周りの環境の特殊性を除いたその人の潜在能力と価値観の性質により成り立つ。

 

ならば、自己知識とは、「自己」についての知識である。自分に何ができて何ができないかについての知識、自分がなにをしたくて何をしたくないかについての知識、何をするだろうか何をしないだろうかについての知識。[1]

 

これは有用な未来予見の道具だ。わたしはこの文脈において価値(下記も参照)について議論することを拒否するが、自己知識は有用性を持つし、自己がうまく成し遂げることができることが何かを判断することを助けるし、効率性を高め、適用できる場所で分業を強化し、おそらく幸福か何かを推進する、望ましい目標のように見えるなら。一般的に、自己知識は人に、もしより多く達成することをしないなら、少なくとも、より少なく達成することを失敗させるように見える。

 

まさに少なくとも、おのれの欠点に自覚的である人は、そちらのほうにはまりこむ代わりに、よけたり回避したりする方法を見つけるようになるはずだ。

 

わたしは、自分の原則的弱点を、意味の否定として捉えているようだ。自分なりの観点からすると、これはかなり複雑な問題だ――しかし、自分が偏った見方をしている可能性はある、もちろん、原則的な属性と自己奉仕する偏った見方の両方はここで有効化されているとして――なぜならばわたしはおそらくわずかに相反する信念を維持しているからだ。意味があるべきであるが、同時に意味のある何物も認識できない、自分には意味が存在する原因を何も認識しないからだ。物事のこの状態は、不条理の一種として特徴づけられるかもしれない。前に書いたように、わたしは存在が観測されるときまたその時に限り、存在が存在を生むなら存在はありえるために、そこに存在の意味はないと信じている。

 

意味を認識することがないということは意味と目的と方向性とやる気がないという感覚をもたらすけれども、自分がやることのほとんどを、わたしはただ自分がやるだけのこととして考えているし、変化が特に意味のあることだとも思えないなら自分が何かをして変化させることもない。

 

このような意味欠乏症に対してなんとかしようとしていると言いたいが、このことに考えることがそんなに努力のいることなのかどうか、望ましいことなのかどうか判別するのはちょっと難しいと思ってもいる。「何も意味がない」主義は確かにやる気を大幅にくじくし、慢性的な先延ばし癖の主な原因であろう一方で、実際に意味を見つけようとすることは、実際に意味の源泉がないことをあらためてわかったりする結果になる傾向がり、やる気を出す助けにならない。

 

 もし、わたしが、人間によって作られた物語の中の登場人物で、私の長所がだいたい「心配ごとから自由で、本当にやらなければならないことに集中できる」的な何かであるなら、しかしわたしは自分がそうだとは思わないのだけどそうであるとして、わたしの物語を語る人は、違う文学伝統に寄与することになりそうだ、わたしはそんなにやらなくてはならないと思えることに出会ったことがない。

 

かわりに、わたしの長所は期待していることに気づくことだと主張したい。わたしの主張は検証しにくいが、確かに確証バイアスの影響下にあるだろう。他人とくらべて、わたしは自分がたまたましたいこと、たまたまするだろうこと、そしてその両者がどんな風に曲がった方向にいくかの、よりはっきりした自覚があると思うし――ある程度、平均以上の自己知識があると主張したいと思う。

 

思うのだが、わたしがこの種の自己知識を持っているのは、自分がプログラミングをすこししたことがあり、数学の照明をいくぶん書いたことがあって、自分には下手なことがたくさんある一方で、これらは一般的にだいたい上手にできた。他人は、出来事が予見できず予測不可能なときに混乱するのをわたしは知っているが、これは私が経験を思い出す問題ではなくて、もしわたしが知っているとするなら、それを修正してきた、もしかしたら過剰に修正してきたからだ。

 

しかし、短所と長所について主張することさえ、それらがあまり自分を描写しているとは感じない。広く、長所と短所はしばしば自分が披露する特徴であり、全体的におそらく自分を作るのに大事な特徴だろうが、それによってわたしの真の姿をつかむことはできない。おそらくこのことについて考えると、議論すると、自分の短所と長所は、自分として認められる自分の概念を必要とするところが難しいが、全体的に心の中にもたらすことができる。つまり、自分についてすべてを知ることさえ十分ではなく、任意の外部環境にどう反応するかを予測することができることさえ十分ではない。このようなモデルが完全な自己知識のタイプであろう一方で、それは役に立つ自己概念とはいえない、なぜなら、それはわたしたちが合理化するにはあまりにも複雑すぎるので、わたしたちは自分の特徴を考えるときにこの自己概念という仮定を単純化しなくてはならないからだ。

 

しかしながら、自己概念を単純化することは難しい、なぜならば、自分がどちらの属性にあるかによって見る側と見られる側には非対称性があるからだ。見られる側としては、自分の行動を固有の要素というよりも状況的要因によるものとしがちである。そのため、自分を一般化することをあまりわたしたちはしないが、自分の短所と長所をはっきりさせることは一般化をともなうため、なぜならわたしたちの行動の特別に特殊な状況的側面はあまりのも状況依存で特殊なためにわたしたちについておおざっぱにしか全体的に意味のある情報を提供できないので――そしておおざっぱなまとまりは単純化を必要とするし、状況に応じた善悪の判断を捨てないといけなくなるので、わたしたちはしたいとは思わないのだ。

 

わたしは、少なくとも、自分について一般化をしたいとは思わない。ふたつの特徴をわたしはもつわけではなくて、実際に、決定的であるかもしれないしないかもしれない相互作用の複雑なシステムなのだ。自分自身であるすべてを失いことなしに、いくつかの概略をどのように書きつけるべきかわたしはわからないでいる。単純なことは美しいが、悪魔は細部に宿り、ファウストの契約[2]とおなじくらい多い提案を美しさはしてくれない。

 

[1] “mightn’t”という短縮形はここで使われているほかの二つの短縮形よりも全然使われることがないだけだろうか、それともそれ自身あまり使われない“might not”が違う効果を持つ? “I might not be able to”はちゃんとよくある表現に見えるが、自分は”I mightn’t be able to”という表現を今まで聞いたことがない。

[2] ……暗喩を混ぜるのは自分の長所のひとつではない、ということも記録しておこう。

園からさまよう

僕はこの翻訳で筆者がいう、変化についての筆者の考えには賛同できない。これに関しては正反対の心性を持つと思う。2013年の11月に高校三年生である筆者は、秋学期が新年度だと考えると、2024年4月現在は、30歳目前ということだろうか。面白い心性と思考回路と文体を持った人だと思う。教養を感じる。犬養毅を知っている(おそらく)英語を母国語とする高校三年生、世界でも限られるのではないか?

以下URLの翻訳です。

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-23-sauntering-from-the-garden.html

 

 

園からさまよう

 

2013年11月23日投稿

 

エデンは昔ながらのおうち

毎日わたしたちは住む

住処をうたがうことなしに

わたしたちが立ち去るその日まで

 

過去を見るとなんて公平

扉をあけてさまよいだした日は

無意識に戻れると

でももはやそれは不可能とわかる

 

エデンの園においては、エデンの園の外という別の状況にさらされるまで、その中に住むという状況をアダムとイヴは理解できなかったし疑いも持てなかった。

 

離別の時、エデンの扉からさまよい出た時は、その時点でのそこを通れるようだと理解できて決断した時だろうが、以前の状態に戻ることができないという、このように予見できないその後の経過を考えると、イヴとアダムにとっては、善悪の知識の木の果実を食べた時だろう。ディキンソンの「さまよう」という言葉が暗示するのは、カジュアルさだが、この情報のなさは、続く次の行の「無意識に戻れると」にあらわれていて、善悪の知識のないイヴとアダムが正しいことと間違っていることの概念をもてないように、このことに責任がない印象をあたえている。

 

わたしの状況、そして高校三年生として私たちのほとんどが、住居をうたがうことなしに毎日住んできた家庭から「立ち去る」ようになっている状況は、非常に異なったものだ。これは、なじみ深い場所からイヴとアダムが二人とも離れることになったおかげでこの状態になったことに対して垂直ではないこと以外は、かなりほとんど直交している。

(訳者注:ここの表現は難解だが、慣れ親しんだ家を離れること以外のことについては、アダムとイヴの状況と自分の状況は重なるところがないと言っているのだと思う。比ゆ的な意味で直交・垂直という言葉を言っていると思うがいまひとつつかみ切れていない)

 

(同様に、アンティステネスと、ああ、犬養毅の二人が、己の人生のある時点で読むことを学んだからだ[1]

 

主題に関して、ディキンソンの詩は、エデンの園の物語を考えると、だいたい三つの点で注釈を書けるだろう、このように、

 

  • 1. アダムとイヴはエデンで暮らしており、この園が自分たちの家であるという自覚がない。彼らにとっては、エデンは世界全体そのものに見えており、エデンとエデンでない場所についての区別が存在しない、エデン以外にいたことがないのだから。よって、イヴとアダムがエデンでエデンのような状態で済むことができるようになるには、善悪の知識の木の実によって授けられた、まさに善と悪についての知識を解釈することにかかっているが、これは二人がエデンから離れてエデンではない状態を学習した時にえられるのだから。
  • 2.イヴとアダムはエデンから立ち退くことを決定する本当の選択肢を持っていなかったし、よって本質的に罪がない。もし善と悪の知識がないなら、イヴが蛇の誘惑に反抗したかもしれないとみなす理由はないし、アダムがイヴの果実を食べようという提案を拒否したかもしれないと思う理由もない。イヴとアダムはおそらく未来を考えてその結果を理解する能力にかけているのだから、同意と有責性の概念は適用できないし、たとえば、これは未成年や新生児に法令によって定義された強姦事件において同意や有責性の概念を適用しないのとほとんど同じことである――イヴとアダムは認知的には未成年や新生児なのだから。確かに、二人は聖なる一つの委任に背いたが、表面的に規則を理解する以上のことを二人は(少なくともイヴは)できないだろう。
  • 3.イヴとアダムはエデンに戻ることができない。

 

わたしの状況はむしろ違う。

 

  • 1.わたしは、わたしの家以外にたくさんの世界があることを知ってきたし、そして、事実、自分の経験の総計よりさえもたくさんの世界があることを知ってきたし、アダムとイヴとは違って、わたしは現に直近の環境の外にいる(事実、「直近の環境」とみなされるものは、歴史的に変わってきている)。もちろん、わたしは、わたしの経験のほかに何の経験もすることはできてきていないので、これは自分の知らない世界の一面を知る助けにはまったくならない。
  • 2.わたしは、ある状況のもとで自分が能力があるとみなすほど、完全に不合理というわけではない。イヴとアダムと違って、おそらく、わたしは過去に、(社会によって)善と悪と考えられるものを教わっている。わたしはこのガイドラインに従うように期待されているだろうし、自分の行動の結果を予見するように期待されているだろう。これが現実に常に妥当するかはともかく、原則としてはこうだ。
  • 3.私はいずれかの時点で家に戻れると望んでいる。もちろん、家を定義することはできていない。

 

もし、ディキンソンの詩に関して、わたし自身の人生と、イヴとアダムの創世記のエデンの園の物語における状況の間に何か平行線(役者注:共通点のことだろう)があるなら、最初の点にあるだろう。アダムとイヴは、そのほかの場所を知ることができなかったので、エデンの園を認識することができないように、それを他の家と区別できないから、私も離れるかもしれない自分の家であるものを認識することができない。

 

この家を離れたあと、後悔と共に思い出すかもしれないということは完全にありえることだが、この瞬間においては、家を認識しないから――わたしは任意に家を定義するという概念を否定することさえしているかもしれない――家に帰る選択を変更することを怖がることができない

 

そして、本当のことをいえば、たとえ、あとに残していくものごとを考えようとしても、わたしは帰ったときにそれが変化しているだろうことをおそれないだろう。あとに残していくだろうほとんどのものは本質的に変わらないし、残ったもののほとんどは代替可能なものだ。代わりに、私は自分自身の中でおこる変化を恐れる――おそらく、あとに残されたものと私の関係性における変化を恐れる。

 

しかし、この努力をするのは難しい、もしかしたらばかばかしい、変化を恐れるということは。変化を否定するということは、変化を防止するということは、変化を受け入れるということは、努力を必要とするだろうが――しかし、変化を恐れることなしに、これらのことはできるはずだ、どっちにしろ、どんな形であれ、徐々に起こることなのだから。いつ起こるかは議論の余地があるが。

 

 

役者注:この記事で使われているrecogniseという綴りからすると、この筆者はアメリカ人ではない可能性が高い(他にもcolourという綴りを使っていた記事があったはず)。高校三年生でこのような文章を書く人間は、今でもどこかで何かを書いている気がするが、話してみたいものだ。

 

[1] もっと重要なことだが、二人とも犬に関係している。(訳者注:犬養毅は日本語話者には言わずもがなだが、アンティステネスはキュニコス派の始祖とされる。これは犬儒派とも訳され、キュニコスという単語自体が犬を語源とする。)

英雄を必要とする土地は不幸である

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-09-20-ungluecklich-das-land-das-helden-noetig-hat.html

上記URLの記事の翻訳。

翻訳者である僕は、この記事ではじめて、このブログの存在を知った。

ブレヒトの戯曲の言葉であるこの記事のタイトルを検索していてひっかかったので、思い出深い記事だ。

<<Unglücklich das Land, das Helden nötig hat>>英雄を必要とする土地は不幸である、英雄が必要とされている状況は、不幸な状況であろうから、というような意味である。この記事内でも説明されているように、これは<<Unglücklich das Land, das keine Helden hat>>英雄を持たない土地は不幸であるという台詞に対する返答である。僕は前者の考え方に共感する。

前置きが長くなりました。以下翻訳。

 

 

「英雄を必要とする土地は不幸である」(直訳すると英雄の必要を持つ「不幸(不運)な土地」[1])は、ベルトルト・ブレヒトの戯曲「ガリレイの生涯」に出てくるのは確かだが、以下のことを指摘するのは必要なことだろう、この劇の中で、アンドレア・サーティの「英雄のいない土地は不幸だ」という台詞へのガリレオガリレイの否定の言葉として出てくるということは。

まとめると、この含意は、英雄を必要とする土地は、英雄が不在だから不幸なのではない――英雄の不在は不幸の原因ではない――そうではなく、英雄が必要とされるというまさに同じ理由によって不幸なのだ。

 

特に、「英雄」という単語は、人々によって意味するものが違うが、英雄的だと考えられる行為は、典型的には、何か恐ろしかったり不快であったりする状況を修正するものである。不幸な状態にある土地が、不幸な土地である可能性はあるかもしれないというのは、もし同語反復ではないなら、もちろん、少なくとも信じるのが難しくはない。大まかにいって、英雄は間違いを正す。間違いを正すことは、英雄をその他の種類の人々と区別する共通の特徴だ。人が試みて失敗するという場合には不明瞭な点が存在する――英雄的な努力は英雄的だと考えられる傾向にあるが[2]、何が間違っていてどのようにそれを正すかは、判定者の道徳的または倫理的感覚による。(私たちは英雄的だと考えられる行動が人によって違うと考えるかもしれない)

 

英雄的な旅路[3]は、英雄それ自身のように、闘争と対立によって定義されると私は言うだろう。

すでに存在する問題がある。より長大なフィクションの働きにより、一般的に、たくさんの部分からなる複雑な問題は、継続性と進歩の感覚が、その部分の解決に存在する。反対に、人生においては、英雄であろうとする行為は、結合されていない、別々の存在になりがちdし、単に、たまたま同じ人物や人々をまきこむだけにおわる。(もちろん、変種も存在して、たとえば、サラリーリョ[4]のような記念碑的な作品が、後者のモデルを求め、まあ、長期的、広範囲な政治的枠組みがしばしば前者のモデルを求めることはある)

 

余談だが、英雄の闘争の下部基盤は、女性に英雄がいないことにもしかしたら貢献している。

家父長的な社会は、戦うだけではなく、男性性と共に、戦うことに言及する決意とそれに続く重要性を結びつけることもする。

わたしは、男性と女性がそれによって判別されるような行儀作法の間にある区別を認めることはしない――原則的に、私はジェンダーを区別するためのもっともな理由であると一般的には認めない――ほとんどの社会、歴史的であれ現に存在するものであれ、(多様な度合いがあるとはいえ)家父長的である

 

そしてもし、社会として、英雄の特質が男性にとってふさわしいものであり、女性にとってはそうでないと考えられるなら、当然英雄は女性ではありえない。英雄としての女性の物語は、さすれば悪い物語になり、英雄的な特質を持つ女性は、間違った人物となるだろうし、社会の価値に立ち向かう人となるだろうし、よって英雄よりは悪役の方がよりふさわしくなる。英雄主義は、美のように、それを見る人の目の中にある。女性の英雄は、数えてみると、希少では実際ない。だが女性の英雄は重要性と共感を持っていない。もし、むしろ私たちが英雄を存在さしめる特質がすべてのジェンダーに存在すると認めるなら――そして逆に判断するなら――そうすればわたしたちは、女性および男性を英雄と認められるだろう。

 

しかし、私は、原則的に英雄主義が持つ根本的な問題が闘争であることを強調したいと思う。英雄は闘争を称賛する、理想とその真逆の状況の間の苦闘を。もし英雄が、人々が尊敬し模倣するような、価値の体現者であるなら、ならば英雄は、理想と苦闘における、潜在的な信念の源泉でもあるだろう。そして、理想における前者の信念は非常に高価に価値がある一方で、それは後者より重みをもつことはない。英雄主義の本性は、所与の陰鬱な状態を要求する。英雄を称賛することは、陰鬱とその反対、不運と不幸、不快と恐怖を仮定する。英雄の勝利をたたえることは、それが正しさを輝かせるように、間違いにも光を当てる。

 

よりよい世界では、英雄は必要ではないだろう。おそらくこの不幸で不運な世界は英雄を必要とする。しかし、そうであっても、英雄主義の害は続いている。英雄は現状に満足してしまう状態を長続きさせる。英雄が存在する限り、英雄は世界をよりよくするための責任を持つ。だから、確かに、英雄のない世界は絶望に沈むかもしれないが、英雄のいる世界は、その絶望を取り除くことも絶対にできない。

 

 

[1] 私はしばしば引用、題名、その他をこのように公平かつ保守的に翻訳する(あるいはこの場合のように再翻訳する)。これはしばしば、滑稽に見えるが、私は情報を失う翻訳は嫌いだ。

【翻訳者注:筆者はここでドイツ語の原文をそのまま引いたあとで、それを英語で直訳している。ドイツ語の語順にしたがってそのまま翻訳しているので英語の文法にかんがみるとかなり奇異にうつるはずだ】

[2] この感覚は、成功よりも努力を同等かそれ以上に価値あるとする文化に独特のものかもしれない。努力をそこまで重要視しない文化は単にその思考を失敗とみなすかもしれないと考えることはできる。

[3] 私はキャンベルの単一親和論に賛成しない、それは民族中心的だが、その少ない意味にくらべて広まっている。

[4] 完全な題名はLa vida de Lazarillo de Tormes y de sus fortunas y adversidadesラサリーリョ・デ・トルメスの生涯、およびその幸運と不運

どこかから、だれかからの助言

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-02-advice-from-somewhere-someone.html

上記URLの翻訳。

 

どこかから、だれかからの助言

 

2013年11月2日

 

私は、助言してもらえるとは、習慣的には、考えていない。

何が善で正義かについての言明として、助言というのは、何が善で正義かについての枠組みから、当然現れてくるはずだ。

このようなモデルにおいては、まさに最高の助言――助言はいつだって正しいのだが――とはトートロジー(同語反復)である。すでに受け入れられたある価値体系に固着する助言は、助言してもらうことができない。なぜならばその助言はすでに、そのような価値観に内在しているからである。この種類の助言はもはやすでに知られている。人は単にそれを完全な程度実行したことがないのだ――助言を受け取ることはたぶん助けになるが、意味深い啓示というよりはむしろ口やかましいリマインダーとして助けになるだろう。

 

私は、意味深い啓示について高い評価をすることができない。それはおそらく(しかし必ずしも高い評価をしないわけでもないのだが)、私がそのような啓示に至ったことがない、あるいはそのような啓示を覚えていないし認識していないからだろう。

しかし、もし比較的程度が小さいならば、助言することができると考えられている助言はかなり終末論的だし、その助言は、ある人の優先事項とあらゆる点で一致しているわけではない。

提供される助言は、何が善で正義かについての人の判断に新しい面をもたらすものでなくてはならない(あるいは完全にひっくり返すか、単なる助言がこのようなことを引き起こすのはなおさらあまりないことのように思えるが)。

 

さて、もし、19世紀のスティーヴン・クレインという人が(戦争はやさし、そしてその他詩集)という全集の中で、たまたま書いて公刊した短い詩を下に模写するとしたら、

 

ある男が宇宙に尋ねた

「宇宙さん、私は存在しています!」

「しかし」宇宙は返事をした

「その事実は私の中に

義務感を生み出しはしなかった」

 

――ならば、われわれは、この助言、あるいは少なくとも感想は、スティーヴン・クレイン自身から私にむかってなされた、というべきだろうか?

 

この話の中には、かなりはっきりと区別できる要素が少なくとも三つあり、大部分は連続性の中に分割されているが、全体にわたるテーマによって合体している。

 

前者のうち、第一のものは、私たちの三番目の要素と三年前に交わっていて、それはその時の学校の先生とその布告にある。

前者はトマスジェイコブスで、後者は、さまざまな、「君が何を感じているかどうもでもいい」、「私は君の感情なんてどうでもいい」、「生徒のことなんてどうでもいい(原文ママ)」

(この後者は、「私は生徒のことを大切に思っています」という言葉と共にやってくるし、前者を前後関係から同様に含意する傾向にある)

 

二番目は、上記で引用したスティーヴン・クレインへの導入であり、ほぼ二年前マリッサ・スミスによってハンドアウトの形で配られた、アメリカ文学のかけらだ。

 

三番目は、アルベール・カミュの「レエトランゼ」(異邦人)の二つの異なる翻訳の終わりの文章としてやってきて、マシュー・ワードとスチュアート・ギルバート、世界文学の授業で同じ先生から配られた。

 

おのおの、このようになっている

 

盲目的な怒りが私をきれいにしたであろうように、私から希望を取り去ってほしい。はじめて、予兆と星とによって夜がいきいきとしている中で、世界の優しい無関心に、私は自分自身をあけはなしている。

 

まるで巨大な怒りの波が私をきれいにし、希望をうばったようだった。そして、兆候と星とがちりばめられた暗い夜を見上げて、はじめて、この宇宙の親切な無関心へと私は自分のこころを開いた。

 

わたしたちはこれを、三つの助言と考えるべきだろうか? それとも、ひとつの助言と考えるべきだろうか?――そしてそれならば、もしあるとして、どちらからそれは来たのだろうか?

 

わたしはこれをまるごとひとつの良い助言だと考える。少なくとも、三つの道筋を通って私にもたらされたこの感情は、ひとつの全体を構成していて、自分の価値観、何が正しく何が善かに大きく一致する。これは、自分の世界観の定義的要素であってきた、あるいはなってきた、もしくは組み込まれてきた。

 

わたしは、このことで自分が何らかの行動の連鎖を引き起こしたとは言わない。おそらくまったく逆だ。しかし、現実世界に適応させる枠組みを私に提供してきた。優しくない現象によって駆動される優しくない他者による優しくない世界は、好ましいことに対する余白をたくさん残している世界だ。それ自体で快適に単純な世界である。

天使は存在しますか?(あずきあず生誕祭感想)

天使は存在しますか?

今、目の前にいます。

あずきあず生誕祭の端的な感想はこれです。

 

(これで感想終了してもよいのですが、もう少し書きます。

ネットに公開するので、自分以外の人についてどこまで書いてよいのかわからないところがあれば、ぼかしたりはしょったりするかもです。)

 

道に迷ったつもりはないのだが、慣れない土地だと動きの感覚がよくわからないためか、切符をポケットのどこにいれたのか一瞬で忘却したためか、数分遅れて会場入りした。自分は方向音痴なのかもしれない。

いつもは人のあまりいない土地にいるので、あらためて、人が多いところは苦手だ、という認識を、名古屋駅に降りたときに感じたが、イベントスペースまで行くと、そこまで人が多いというわけではないので、だんだん落ち着いてきた。

なんだか寒い日で、たくさん着込んできたので、寒がりの僕にはちょうどよかった。

 

二回目だけれど、わりとあっさり入ることができたので、ライブ来てみようかなという人は、たぶん一回目のハードルが高いだけだと思う。

近場の方であれば、たぶん一回来ることさえできれば、あとは簡単に参加できるのではないかという感覚がある。興味ある方はぜひ。

 

タイムテーブルはこんな感じで、前に行ったときはワンマンだったから他のグループさんはいなかったけれど、今回は他の出演者の方もいた。
11:00〜11:20ゆるダンOG+Think of me
11:20〜11:40メリーミューズ
11:40〜12:00 学歴の暴力
12:00〜12:20 HATE and TEARS
12:20〜12:40 あずきあず
12:50〜14:00 物販

ゆるダンスサークルとThink of meはYoutubeでしか見たことがなかったので、見ることができて新鮮な喜びがあった。

ちょっと変な感想になるかもしれないけれど、こうやって他のグループの人が参加していくことで、認知を増やすというか、知ってもらうという効果が出てくるのかなあと思った。アンソロジーで知らない作家を知るとか、ウェブサイトのリンクから別の面白いサイトに飛ぶことができる手法と同じ感じで、面白いと思った。完全に個人的な好みだけれど、メリーミューズは青色の子が、HATE and TEARSはお茶の水女子大卒の子が刺さった。

これは単なる印象論だが、学歴の暴力のみんながちょっとだけ疲れているように見えた。年度末だから忙しいのかもしれないし、いろいろ言えないこともある中で頑張っているからかもしれない。本当にお疲れ様だという気持ちと、無理しないでほしいという気持ちがある。自分の健康が最優先なのだから。

あずきちゃんがソロで出てきたとき、エレキギターでベースを弾いていて、おおお、と思ったし、忙しい中練習してきたんだろうなあ、えらいなあみたいなことを思っていた。

物販のときに、HATE and TEARSの方々が、新規の方は写メ1枚無料、と声を出して宣伝して、おお、なんか販売業みたいでかっこいい!と思った。

ちょっと話がそれるが、学歴の暴力ではないグループが演奏しているときに、そのグループのファンの方に、よく見える位置をみなさんが譲ったりしているのを見て、「いい文化だ」と思ったのを覚えている。

 

あずきちゃんが、今回3着衣装を変えていたのだけど、系統が全部違った。

最初の衣装がKPOPっぽい?感じ。

次は学歴の暴力の通常衣装。

最後が制作を依頼したという特別な服で、コースターと一緒のデザイン。

本当にひどい感想なのですが、最初の衣装をみて思ったのが、あずきちゃん足がきれいだなということでした。胸よりも足派なので、えー、なんかスカートよりもショートパンツの方が似合うかもしれない、と思った。

あずきちゃんは胸が大きいんだ、みたいな話を聞いたことがあり、実際見てみるとそんな感じしないなあ、よくわからないぞ、と思っていたのだけど、最初の衣装で、納得した。

たぶん最初の衣装が一番ボディコンシャスだったので、スタイルの良さがわかり、身体的な美しさについては、一番はじめの衣装が、一番よく感じられると思う。

二番目の衣装は、いつもの学歴の暴力の衣装なのだけれど、この色使いが僕は好きで、青と白を基調とした衣装は、このひとつ前のクリーム色の衣装よりも個人的には好み。だんだん洗練されていくのかもしれない。たぶん歴代の衣装の中で一番好き。デザイナー天才か?

三番目が、たぶんあまりネットとかでも見たことがない系統の衣装で、服飾に詳しくないため、うまく説明できないのだが、かわいい感じ、どちらかというとアニメ的なかわいさ?

好きな絵師さんにコースターを発注してもらって、服飾?関係の方?に依頼をしたと言っていたように思うが記憶があいまいです。(あまりにも早く記憶が摩耗してしまうが個人情報保護の観点からこの特性はとても有益。本当に個人情報については自分でもびっくりするほど覚えることができない)

 

自分は、自分の中でしたいことがあまりなく、比較的空虚なところがある。

自分の中に、自分がしたいことがあまり存在しないため、自分の欲望を充足することで満足する、ということがあまり起こらない。

そうすると、なにか満足を得たいときに、光を反射させるように、だれかを幸せにすることで自分も幸せになるみたいな方法を取りがちになる。

これは(もしそういう区分が可能だとして)「利他的な人間、利己的な人間」とは明確に違う区分だと思っているのだが、世の中には自分が幸福感を感じるときに、自分の欲望に直接的に触れることがたくさんできる種類の人間と、間接的にしか触れることができない種類の人間がいて、僕は後者に属すると思う。だから、あずきちゃんが笑ってくれると嬉しい。

逆にアイドルの側も、案外この二つのタイプがいるかもしれない、という気はする。自己充足できるタイプと、相手が幸せになってくれないと充足できないタイプ。

仏教の説話をここで思い出す。ティチアーノ・テルツァーニというデア・シュピーゲルというドイツの雑誌の記者であったイタリア人が本に書いていたことだから、これの出典はよく知らないのだが、とても長い箸があり、とても大きな釜があり、そこで芋が煮られている。釜のまわりにいる人たちは、自分の長い箸で自分の口に芋をいれようとするのだが、あまりにも長すぎて口にいれることができず、常におなかをすかせている。これが地獄である。一方、極楽では、その長い箸で向かい側の人の口に芋をいれてやる。向かい側の人もその長い箸で自分の口に芋を入れてくれる。空腹はない。

自分で自分を幸せにすることができなくても、お互いに相手を幸せにすることができるような相手がいたら、天国に行けるかもしれない。

 

閑話休題。(←一度使ってみたかった)

物販では、学歴の暴力の四人に会えてよかった。

直接というのは、やはり違うものがある。

かーりー、月1の活動になる前に会いたかった。学歴の暴力のメンバーはみんなストイックだから、自分が限界を迎える前に頻度を下げてくれて本当に良かった。やめるじゃなくてペースを落とすというのがありがたい。自分を追い込みがちなところがあると思うので本当に心配している。この世界のどこかで笑っていてくれたらそれでいいよという気持ちがある。ピュアで尊いと言ってもらってうれしかった。

あろちゃん、活動の幅が広い。ということを伝えたのだが、やはり同じ文学部卒だからなのか、実は活動の射程の幅については、メンバーの中で一番シンパシーを感じる。いろんな創作活動が存在するが、演劇、写真、短歌あたりは、今まで会った人たちを思い出してとても懐かしくなる。(勘違いかもしれないが)文章を書くより、話す方で表現をしているように感じる点は、僕と違うかもしれない。若干の史学っぽさをなぜか感じる。なんでだろう。もうはっきりとは思い出せない昔会った誰かに重ねてるのかな。

なつぴちゃん、夜のツイートに救われている。たまになつぴちゃんは夜にツイートすることがあるのだけれど、僕も夜に起きてしまって、それを見るとちょっと楽になる。案外、目が覚めた時に悪いことを考えてしまうことがあるのだが、タイムラインに静寂が訪れているときに、なつぴちゃんが苦しんでいるツイートが流れてきて、おお、一人じゃないんだという気持ちが湧いてくる。ちょっとだけまた歩き出せる。フィッツジェラルドが、人生の暗黒の中では時刻は常に午前3時だということを言っているが(しかし、午前三時には荷物を忘れたことさえ死刑宣告と同じくらいの悲劇的重要性を持ってきて、救済はない。そして本当の魂の暗闇の中では、来る日も来る日も時刻はいつだって午前三時なのだ。みたいな文章だ)、偉大なるフィッツジェラルドもひとつだけ言いそびれたことがあるようだ。午前三時にだって自分以外に起きている人はいるし、それなら救済もあるかもしれない。

あずきちゃん、話した内容を共有したくない、思い出は閉じ込めておきたいという気持ちがある一方で、僕の場合、抱え込まれた思い出はあっさりと摩耗して消え去ってしまうだろうという確信がある。十五年位前の自分を返してほしい。大切な思い出さえすぐに忘却してしまう。

でも、実は自分が何を伝えたかはよく覚えていなくて、逆に聞いた言葉を覚えている。「来てるの見えたよ」「たまにブログの記事読んでる」もうこれだけで十分です。本当に、もうこれだけで十分。これを聞けたならもう他に何もいらないです。一回だけじゃないんだ、読んでくれたの。自分の書いたものが。そんなことが起こるのか。自分の書いた文章が、だれかに対して肯定的な反応を呼び起こすことが。本当に起こるのか。もうこれは奇跡ですよ。

好きな人の顔を思い出すことはできない、なぜならあまりにも衝撃が強すぎて記憶に残らないから、みたいな話があるが、あずきちゃんの顔は思い出せる。ただ、可愛さが強すぎて話した内容をうまく思い出すことができない。話した内容よりも話せている体験自体に舞い上がってしまったのかもしれない。

織姫と彦星みたいだね、とあずきちゃんの笑った顔がかわいかった。

一年くらい来てないと言ったが(体感それくらい)さすがに一年は経ってなかった。嘘をついてしまった。

 

 

Kenさんにツイッター上で誘っていただいて、クイズバーのイベントというものも参加してみました。

予約制だったのですが、二日前くらいでも2席空いていました。

もう埋まっているとあきらめていたので、誘っていただいたのも幸い(自分はこのパターンが本当に多い)、予約完了して参加しました。誰かのきっかけで動き出すということが本当に多くて、しかもそれがうまくいくことが多いので、けっこう誰かの誘いにはのってしまいがちなところがある。

クイズバーのイベントというものが、まったくよくわからなかったのですが、これは行ってみて本当に良かったです。

本当に偶然なのですが、自分の真ん前にあずきさんが座っていたので、なんだろう、感覚としてはテレビの向こう側にいる人が自分と同じ世界にいるような奇妙な感覚に近いものを味わいました。

(この感覚は、一定の世代以下の人にはわからないかもしれないですが、テレビの向こう側にいる人は、自分とは隔絶された世界にいるような感じがするのだけれど、もちろん正しく存在しているので、その現実に直面したときに、そのことをうまく心が受け止められないでいる、というような感じです)

啓示でも起きない限り、天使は人間と会話することはまずないはずですが、そんな感じに近いかもしれない。

 

写真を撮りながら思うのだけれど、写真には写らない魅力が存在する。

ただ、写真を撮っておくと、記憶を呼び覚ますことができる。

本物が素敵すぎるので、写真を撮ることすらあきらめたくなる。

本物に及ばない劣化コピーを残して何になるのか?

これは本物の痕跡に過ぎないのに。

しかし、おそらく、この問題については、数千年前から人類は答えを出している。

涅槃自体の言語化は不可能だが、涅槃に至る道についてできるだけ仏教徒言語化したように、一者から流出したものがどんどん劣化するとしても、その劣化されたものから一者に再び逆流してたどり着くことができると言ったグノーシス主義者のように。

痕跡は、本物を思い出すのに、役に立つ。

みたいなことを思いながらクイズバーで写真をたまに撮ったりしていた。(撮影可能だったので)

 

クイズバーのイベントについて、そこに来ていた人と駅で会ったときに話してみたのだが、世の中にはこんな文化もあるのか、と知らないことでいっぱいであるなあと思った。

クイズバーにいたマスターさん?の方が興味深かった。パンの斤について何グラムかというクイズについて、正解は340g(以上)だが、単位の斤自体は600gだから一斤を600gと回答した方について非常にレベルの高い間違いですみたいなことを言っていたのだが、それをわかっているこの人もとてもレベルが高いのでは……と気になってしまった。アルゴリズムが難しかったみたいな話もしていたが、その講義を取ったことがないので難しさがわからない。

 

クイズバーの休憩時間に、余興のクイズがあったのだけれど、ハロウィン?のときのライブの応答に関するクイズで、なんでナースデビルの恰好をあずきちゃんがしたのか、という問題があった。

解答は、せっかくのハロウィンなので、エロい恰好がしたい、需要に供給する、みたいな?感じ。ちょっと正確な文言を覚えていないので語弊があるかもしれない。

その瞬間、そうか、あずきちゃん菩薩だ、と思った。

菩薩行ですよ、これは。

完全に福祉事業です。

そんな、見せていただけるんですか、そのように美しいものを?という気持ち。

でも、この解答が出たときのあずきちゃんが少し顔を赤くしていたのがとってもかわいかったです。

 

耐えられないことが起きたときに、それでも耐えられるような思い出があるといい。

本当に幸せな記憶というものが、本当にギリギリ折れそうな心を守ってくれるということがある。

あずきちゃんには、もらってばかりだ。

最近、落ち着いたけれど、あまり状況が良くないときに、あずきちゃんの自撮りを見て精神を落ち着けていたような時期がある。

朝に自撮りが降ってくるような時期があったように記憶しているのだが、ちょうど自分の状態が悪いときだったので、非常に助かった。

こんなにもらってばかりなので、もっと奪ってくれてもいいのに、と思う。

きっと、そう思っている人は、他にもたくさんいるだろう。

 

本当はただの人間であるのに、天使のように扱うのは、もしかしたらその人に変な負担をかけてしまうかもしれない。

ただ、天使のように見えるだけだから、本当は天使じゃなくてもいいんだ、と思っている。天使でも悪魔でも人間でもかまわないから、どうか幸せでいてほしいと願っている。

若山牧水という歌人が、かつて「さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺は洞のやうに暗い」と詠んだことがあるが、ぼくは、自分のことばかり考えていると、考えが暗い方へ引っ張られていく。

他人の幸せを祈るとき、自分のことは考えないから、考えが暗い方に行くことはない。

幸福を願える人がいることは、自分にとって幸福なことだ。

あずきちゃんの幸福を願えること自体が、自分にとっても幸福な事態だと思う。

 

あらためて、生誕おめでとうございます。

これからのあずきちゃんの人生に、たくさんの良いことが起こりますように。

悪いことが起こってもいずれ大丈夫になりますように。

同じくらいの重要さを持つ

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-10-04-it-matters-just-as-much.html

上記URLの翻訳。以前冒頭の訳を投稿したことがある。

 

この世界における永遠の不在は、少なくとも、議論するのが難しい。

反例が存在しない。

この宇宙そのものは、この観念に反対するように見える。

熱力学の法則が、熱力学的平衡状態での終焉を保証しているように見えることを考えると[1]、確かめられない過去--つまりこの世界における真の永遠は、本質的に単位に限定されている。

 

永遠は概念としては、非常に想定可能だし、とても魅力的だ。

しかし、人間の努力のなにもかもがそこに到達することができない。

だから、我々の文学と神話が、非常に頻繁に、永遠を神、少なくとも神秘の範疇に厳しくとめおいたのも、おそらく当然と言えるだろう。

ギルガメッシュ叙事詩の中においても、古典的なアブラハムの神話においてと同様に、このことは真実だ。

永久、永遠の生命は、ウトナピシュティムとその妻に、善神エンリルの寛大さによってのみ、与えられる。

若さを保存する秘密の植物は神々の謎だ。人間は死を割り振られ、しかし生は神自身が保管したままでいる。

 

しかし、この世界では、神の側から見てさえも、永遠はないように見えるから、とにかくすべてのものが時の流れの中で何の重要性もなく終わりを迎えるのならば、究極的には、あらゆるものになんの意味もないという風になるかもしれない。

 

しかし、人々はまさしく、「起きて、仕事をする」。もし何の意味もないのなら、少なくともなにかしらの原動力が、続ける理由が、なければならないだろう?

 

ある人々は、おそらく、この世界の根本的な非永遠性を、本当に信じたことが一度もないだろう。結局、来世(特に人生での行為が審判されることでその人の運命が決定されるというタイプの来世)は、世界の神話における繰り返されてきたテーマだ。意味に対する独立した測定基準が導入されれば、この人生のはかなさは、取るに足らないものになり、この次の人生が重要なのと同じくらいの重要さを持つことになる。ダルマ的な伝統におけるような輪廻転生のシステムであれ、アブラハムの伝統におけるような永遠の来世のシステムであれ、今生の仕事は、これから来るべき人生の期待の中にある。

 

しかし、そのほかの人は――たとえ他の理由がなくても、たとえ本当に人生に意味がなくても――まさに起きて働くことを、実際にするし、長い間続けていくだろう。自然選択の残虐さがそれを確かめている。なぜなら、結局のところ、非永遠性とは、みんな死ぬということだからだ。

 

たとえ、非永遠性のために、すべてのものに意味がないということになったとしても、行動することは、行動しないことよりも意味がないということにはならないし、行動しないことも同様に行動することよりも意味があるということにも、意味がないということにもならない。だから、おそらく、みんな死ぬときだって、何人かは子孫を残したかもしれない。そのほかの持続可能な自己複製するシステムにおけるように、その子孫は、親から形質を受け継ぎ、子孫を残す傾向をやはり継承している傾向にあるだろう。ひとたび、最初の世代が死に絶えたとして、子孫のみが残るだけだし、子孫を残せなかったか、残そうとしなかった個体は、世界の非永遠性に永遠に失われるだろう。

 

よって、意味の量が仮にまったく同じだとしても、すべての可能世界において、私たちが行動するか否かに関係なく、自分の人生を続けない人と比べると、とてもすくない人びとが自分の人生を続けることになるだろう。私たちが世界を観察する能力は、世界の中に存在していることに基礎をおいているので、ほとんどの人間が実際にベッドから朝起き上がる世界を好むような人類的な偏りがその結果として存在することになる。

 

しかし、私たちはみんないつか死んでしまう。私たちは重要になってしまうだろう。

 

(君は重要だ(You mattered)と書かれた画像が挿入されている)

 

だんだん、私たちは重要ではなくなる。私たちが永遠に到達することができないのとちょうど同じように、だれも影響力を持てなくなり、時がたつにつれ、私たちは忘れ去られ、私たちの行動も、重要ではなくなる。

 

しかし、それらのことが永遠ではないのと同じように、きちんと定義された限界を持たない持続性というものを行動は持っている。たとえば、特に、自己複製の効果は、無制限に拡張して、すべての生命に明確に内在する。たとえ仮に意味がないとしても、少なくとも持続はする。各個体はすべての世代において、再生産する命の流れの中に生まれゆく。

 

(もしそれをそう呼べればだが)単一の原動力となる生命は、それ自身の広がりを持つ、あるいは必要とする。生命には意味などないかもしれないが、逆に意味など必要ないのだ。私たちのほとんどすべては、どっちにしろ朝目覚めて仕事に行くのだから。

 

何人かはいかないだろう。それも同じくらいの重要さを持つ。

 

[1] 別の考えとして、宇宙は十分に早く拡張しているため、平衡状態には絶対にたどりつかない可能性もあるが、その場合、エネルギー密度が極めて低いためどんな構造物も存在できない。