ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

デジタルデトックス

インターネットに時間を取られているということをずっと昔から思っていて、なんとか撤退したいと思っていた。宣言するとうまく撤退できないのかもしれない。

攻撃性が高まっているような気がしていて、インターネットの怒り増幅装置にやられてしまうのは嫌だなと思っている。

ちょっと今離れられている。今後どうなるのかは分からない。

デルモア・シュワルツ「夢のなかで責任がはじまる」書評

デルモア・シュワルツの短編集「夢のなかで責任がはじまる」を読み終わった。

ツイッターで、田中一郎(@t_tanaka_ichiro)さんに紹介していただいて読んだ。

自分で思っていたよりも、ずっと自分に刺さる短編集で、読んで本当によかった。

 

序文 ルー・リード

 

「夢のなかで責任がはじまる」

 最初読んだときは、実はあんまりピンとこなかった。

 もう一度読んだときに、最後の部分が本当にぐさっときた。

 映画館で、父親と母親の出会いを見ている幻想的な話なのだが(というか、おそらく夢)、最後の場面で父親と母親に、ふたりは何をやっているんだ、自分たちが何をしているのかわかってるのか?と叫ぶのだが、そこで案内係が言う言葉がすべてだと思う。

「おまえは何をやってるんだ? なんでも自分の好きなようにはできないってことがわからないのか? なんでおまえのような若者が、人生はこれからだっていう人間が、こんなおかしなことをする? 自分が何をしているのかなぜ考えないんだ? まわりに人がいなくても、こんなことはしちゃいけないんだよ! やるべきことをやらなかったら、きっと後悔することになる。こんな調子でいようったってだめだ。いけないんだよ。じきにわかる。自分が取る行動にはすべて責任が伴うってことがね」

 

 わかりますか?

 僕の解釈を述べさせてもらえば、これは親や環境が悪いとしても、それでも何かできることがあるんだよという、シュワルツからの応援だと思っている。

 変えることができるのは自分であって、他人ではないのだから、人生の責任は自分が背負うしかない。

 自分の人生の責任は、親でさえ取れなくて、自分で取るしかない。

 子供のころから、僕はそう思ってきたが、それだけでなくて、自分で自分を動かす以外に、人生を切り開くことはできないだろうと最近、やっと腑に落ちてきたから(他人からの援助を受けないという意味ではない)、すごく響いた。

 この作品の評価が高いのは、やはりここにあるんじゃないか?

 

 

アメリカ! アメリカ!」

 同名の詩がシュワルツにはあるようだが、これは小説。

 甘やかされてダメにされた子供の話を、シェナンドーという作家が聞く。シェナンドーは「大晦日」にも出てくる。

アメリカ! アメリカ!」で出てくるある一家の子供は、恵まれた家庭に育ったためにハングリー精神に欠け、自分の人生を切り開くガッツが持てず、親を責める描写があるのだが、この題材を二世代以上前のアメリカ人が書いてるのか……

 と僕はツイッターに書いたが、まるでこれは現代日本の話みたいじゃないか?

 ある条件がそろうと、人間はそうなる、ということなのかもしれないが、時代を超えることができるのがすばらしい作品のひとつの条件だと思うので、これは素晴らしいと思う。

 

「この世界は結婚式」

 正直、小説としての完成度は、収録作の中でもっとも高い、と思う。少なくとも、技巧については、収録作の中でもっとも優れている。複数の人間が登場し、それぞれについてに書かれた章があわさり、全体像を構成する。登場人物それぞれを別の人間として造形しなくてはならないし、それぞれが別の人格を持つため、別の問題を持つ。

 これをある程度統一的な形で物語にするのは、それなりの技巧を必要とするはずだ。

「サークルの一員であるというのが彼らの真の人生となり、下流中産階級の貧しさゆえに女の子を見つけたり、結婚について考えるのは難しくなっていた」。

 僕も貧しくて「女の子を見つけたり、結婚について考える」のが難しくなっていた時期があるので、本当に自分のことを言われているような感じになった。

 ここに登場する人物、かなり自分と近しいものを感じ、それぞれの人生の損なわれ方が、自分の人生と少し重なり、「うぅぅ……」となった。

 知的なことを楽しむことはできるが、やはり基本的には貧しさにより色々なものが阻害されて、しかしだからといって仕事に投球することもできないしんどさ。

 こんな小説が、1948年には書かれていたなんて、80年前に、すでに?

 80年前の人間たちの言っていることがわかる。あなたたちの感じている閉塞感や現実逃避の仕方、僕は知っている。違う時代の違う国の人間に共感できるのが文学の素晴らしい点だと思うが、80年前のアメリカの人たちに共感するとは思わなかった。

 家族について書いてあるのもとてもいい。今のアメリカの小説は個人主義的な感じがして、こちらの方が、まだ日本の読者には共感を得られるのではないだろうか。

 

「大晦日

 シェナンドー(Shenandoah)が再び登場。

 これもすぐれて現代的な小説、というより、デルモアがすごいのか。人々のすれ違いが書かれている。

 

「卒業式のスピーチ」

 これはいまいちピンとこなかった。

 

陸上競技会」

 ある悪夢の話。

 個人的な印象を語らせてほしい。

 この悪夢は、最後のための「前座」だと思う。そういう意味では「夢のなかで責任がはじまる」と同じパターンの話だ。

 最後の箇所が一番大事だ。

「夢であろうとなかろうと、だから何だっていうんだ?」

「もしこれが夢なら、君にとってはもっと良くないじゃないか。今ではもう、君にもそれがわかっていると思うんだけどね」

「私が新聞から読んで聞かせたことは、どちらかと言えば、今ここで起きたことよりも衝撃的なことだった。目覚めるだけでは、悪夢からは逃げられないんだよ。そして競技場で起きたことが現実ではなく単なる想像で、君の頭のなかだけの幻想に過ぎないとしたら、君を怖がらせた悪は、君自身の頭や心に根ざしている。他のみんなと同じようにね」

「君は、自分が知っていると思っている以上のことを知っていて、それだけでなく、認めようと思っている以上のことを知っている。自分自身をよく見るんだな! いいから、見てみろって!」

 

「生きる意味は子どもにあり」

 これは、なかなか面白い話づくりだ。

 ハッピーエンドではないように見えるが、バッドエンドでもない。

 いいこともわるいこともあったが、というかむしろ悪いことの方が多いようだが、それでも救済はある(おばあちゃんの誕生日、おばあちゃんの祝福され具合を見てほしい)し、しかし、すっきり明るい終わりというわけではない。

 むしろ、人生は続く、というか、シェイクスピア風にいえば"The show must go on"というべきか、ハードボイルドな感じがする。それでもやってかなくちゃいけないんだよな、という感じというか。どの話とも少し似ているが、どれとも違う、毛色が違う話だと思う。

 

「スクリーノ」

 読後感が良いので、これを最後にもってきた方の読者へのやさしさを感じる。

 読み終わったあとはすっきりしてる方がいいよね。

 この作品については、T.S.エリオットの詩が出てくる。ゲロンチョン(Gerontion)の五段目くらいか。

 

現代に、今この訳が出たのは素晴らしいと思う。

「この世界は結婚式」が予想外に良かった。

表題作「夢のなかで責任がはじまる」は、確かに看板を背負うにふさわしいというおもむきだ。

「スクリーノ」はシュワルツの善性が素直に出た(珍しい?)作品だと思う。これが最後をかざっていてよかった。

崩壊

崩壊

 

Of course all life is a process of breaking down, but the blows that do the dramatic side of the work—the big sudden blows that come, or seem to come, from outside—the ones you remember and blame things on and, in moments of weakness, tell your friends about, don't show their effect all at once. There is another sort of blow that comes from within—that you don't feel until it's too late to do anything about it, until you realize with finality that in some regard you will never be as good a man again. The first sort of breakage seems to happen quick—the second kind happens almost without your knowing it but is realized suddenly indeed.

 

 なんでそうなったのかわからずに、ぶっこわれてしまうことはある。

 ふりかえってみても、明確にこれといった原因がわからずに、ぼやけている種類の崩壊というものがある。

 これは、フィッツジェラルドのエッセイ「崩壊」で紹介される、ふたつの崩壊のうち、致命的な方と同じものだと思っている。

 ぼくにとって、その崩壊がやってきたのは、大学のときだった。

 今からふりかえってみても、これが原因の一撃だったのだろう、と明晰に判明できるような一撃が存在しない。

 フィッツジェラルドは、そのエッセイ「崩壊」の中で、外からくるような急な一撃は、思い出して悪態をつけるような一撃は、友達に語れるような一撃は、影響が一気にあらわれるわけじゃない、と言っている。

 本当に注意すべきは、最初に紹介されるこっちの一撃ではない、と言っている。

 こっちの崩壊は、「まだマシ」だ。

 本当に「やばい」のは、二番目に紹介される方の崩壊だ。

 それは、知らないうちにやってくる。

 そして、それがやってきたことに気づいたときには、もう手遅れなのだ。

 最初の崩壊は外からくるが、二番目の崩壊は内からくる。

 二番目の崩壊を経験しない人もいるだろう。

 ぼくは経験した。

 一番目の崩壊は、たとえば、自分より大切に思うほど愛していた人と付き合うことができて、しあわせの絶頂にあったのに、結局わかれてしまったときに経験する、あの崩壊だ。

 睡眠時間は三時間くらいになる。

 横になっても眠ることができない。

 意識があること自体が苦痛になる。

 般若心経がとても心安らぐものになる。

 正信偈を唱えることで精神の健康を保つようになる。

 以前は、世界中すべてが黄金色に輝いていたのに、色を感じることができない。

 クオリアというものの実在を感じる。赤色を見ることができ、それが赤色だと認識することができるのに、それを赤色だと感じることができない。

 これは、明瞭に原因がわかっている崩壊だ。

 好きな人と別れたこと。

 これが原因だ。

 二つ目の崩壊は、原因がよくわからない。

 なぜ、そうなったのかが、明確にわからない。

 何か小さな負担が雪のようにつみかさなって、最後には、ぼくを押しつぶしてしまったのかもしれない。

 それが来たのは、大学三年生の春のときだった。

 四月は最も残酷な月だ、とエリオットは言った。

 ぼくにとって、四月は、しばしば残酷な月となってきた。

 しかし、この年の四月は、数ある四月の中でも、最も残酷な四月だった。

 大学を辞めたい。

 心の奥底からわきあがってきたのは、この気持ちだった。

 

 しかし、結局、理性というものが人間にはあるもので、ぼくは大学を辞めることはできなかった。

 

 高浜虚子が詠っている。

 春風や闘志いだきて丘に立つ。

 ぼくはまだ闘えるだろうか?

 そうだ、もちろん闘える。

玉砕

昔書いた小説を公開する。小説を書いたあと、ほとんどいつも、僕の書きたいものは本当はこんなものじゃないんだという気がしてしまう。 本当に書きたいことはこんなことじゃないんだ、だけど本当に書きたいことがわからない。本当に書きたいことを直接書こうと思えば思うほど直接書けない。近づけば近づくほど遠ざかってしまう気がする。もしかしたら、間接的に書くことしかできないのかもしれない。

 

玉砕

 

Before I go on with this short history, let me make a general observation—the test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function. One should, for example, be able to see that things are hopeless and yet be determined to make them otherwise.

 

 バレー部の女の子は、なぜみんなかわいいのだろう?

 ひとそれぞれ、好みはあるとおもうが、ぼくはある一人の女の子が、特にかわいいとおもった。

 武者小路実篤の「愛と死」に登場する夏子みたいにかわいい。

 だから、ここでは、彼女のことを、夏子さんとよぼう。

 「売られた喧嘩は買わねばなるまい」とも言わないし、宙返りもできないが。

 ぼくは、夏子さんのことを愛していた。

 とても好きだった。

 

 絶対に無理だとおもっていた。

 きっと告白しても玉砕するだろう。

 しかし、それでも、もしかしたら成功するかもしれない。

 相手のこころはわからない。

 ふせられたトランプのカードがある。

 ひっくりかえすまでは、その模様はわからない。

 ジョーカーがないトランプかもしれない。

 ジョーカーがあたる確率なんてひくい。

 だが、ゼロではないかもしれない。

 ならば、ひっくりかえす以外の選択肢が、ぼくにあるだろうか?

 フィッツジェラルドのエッセイの言葉を思い出す。

 第一級の知性とは、正反対の概念を同時に心の中に抱く能力であり、しかもその能力を機能させ続ける能力なのだという言葉だ。

 告白したところで、絶対に玉砕するという確信を持ちながら、それでも、もしかしたらうまくいくかもしれないという希望を同時に持ちながら、この正反対の概念を心の中に抱きながら生活していく能力。

 これが、フィッツジェラルドの言う、第一級の知性なら、あの頃のぼくは、中学生だったときのぼくは、この第一級の知性を有していた。

 

 夏目漱石の「彼岸過迄」に出てくる須永は、(ぼくは名前を忘れてしまった)健康的な男に嫉妬していた。

 武者小路実篤の「友情」でも、主人公は、大宮に嫉妬していたはずだ。

 主人公の野島は、貧相な体格で、大宮はスポーツマンだったとおもう。

 小説を読むような人間の多くは、ぼくのように体格に優れているわけではないんじゃないか、という疑念が昔からある。

 これは、日本だけではないはずだ。

 ドイツ人のトーマス・マンだって、「トニオ・クレーガー」で書いていた。

 金髪のインゲボルクは、そう、主人公を選ばない。

 詩を書く主人公のことを「軽蔑」しているに違いないという「快活」な女の子!

 だけれど、そのインゲのことを主人公は愛している。

 マグダレーナ・フェアメーレンという、主人公を愛してくれる子のことを、詩を書く主人公のことを理解してくれる、その子のことを、主人公は愛することができない。

 インゲが主人公のトニオを愛さないことも不幸にはちがいない。

 だけれど、主人公のトニオが、マグダレーナを愛することができないということだって、おなじくらいに不幸なことだろう?

 ぼくが小説を書くことを、夏子さんは、きっと興味を持ったりしないだろう。

 しないだろう?

 残念ながら、しないのだ。

 しないということを、もうぼくは知っている。

小説を書いているというぼくのセリフに、「すごいね」の一言だけで終わったあの会話をぼくは覚えている。

 だけれど、そう、クラスで一番足が速い彼に対して、夏子さんは、そういう風な会話はしないのだ。

 あんな風に一言で終わったりはしない。

 確信しているが、あいつよりも、ぼくのほうが、先に夏子さんのことを好きだったはずだ。

 

夏子さんがうつくしいのは、小説を読まないからなのか?

詩なんて軽蔑しているからか?

そうかもしれない。

小説や詩を書く能力は、強い人間が持つ能力ではないからだろう。

この能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。

小説や詩を書くことは、生命力あふれる活動というよりは、むしろ死に近い。

生命力あふれる活動は美しい。

死は美しくない。

死に関連する能力を持っている人間が、魅力をまとうというよりは、むしろ、忌避されるのは常識的なことなのかもしれない。

生命力あふれる男性の方が女性に好かれる。

死をまとう男性の方が女性に避けられる。

これは、一見、常識的な帰結のように見える。

小説や詩を書く能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。

小説や詩を書く能力は、「人生に負けない」ための能力だ。

文学は、「勝つための学問」ではなくて、「負けないための学問」だからだ。

高島ざくろが、かつてゲームの中で、そう言っていた。

ぼくは、完全に、賛成する。

夏子さんの、後ろめたさのない快活さ、影のない明るさ。

これは、人がいつか死ぬかもしれないという感覚とは無縁の人だけが持つ快活さだろう。

生命力の強さが、そのような感覚からその人の思考を引き離す。

そして、それは欺瞞だと、ぼくは思ってしまう。

そうだ、欺瞞だ。

でも、あまりにも、美しすぎる欺瞞だ。

惹かれてしまう。

どうしようもなく。

だって、本当は、ぼくも、自分がいつか死ぬかなんて考えずに生きていきたいからだ。

でも、ぼくの機根が、その精神の傾向性を許さない。

自分がいつか死ぬことに、なんらかの納得を、なにかしらの決着をつけずに生きていくことなんてできそうにない。

夏子さんはかわいい。

夏子さんは魅力的だ。

きっと、いつか自分が死ぬことなんて考えてないようなところが好きだ。

ぼくは、自分がいつか死ぬことに怖がりながら生きていたくない。

だから、夏子さんにあこがれる。

でも、夏子さんは、きっと、生き物として、そういうことを考えない。

だからこその夏子さんの明るさだ。

しかし、その明るさに、ぼくは到達することができないだろう。

ぼくは、そういうことを考えてしまうからだ。

だけれど、そんなぼくだって、自分がいつか死ぬことを怖がりながら生きなくても済む方法があるんじゃないか?

自分がいつか死ぬことを考えないからこそ明るい、という種類の明るさじゃない。

自分がいつか死ぬことをわかっていながらも、それにもかかわらず、明るく前向きに生きられる、そういう種類の明るさだ。

そういうものが欲しいと思う。

夏子さんの持っている明るさを、ぼくは今生では手にすることはありえないだろう。

それはぼくの機根が許さない。

でも、そうじゃない、別の種類の明るさなら、ぼくにだって。

それが、ぼくの、ちょっとした希望だった。

 

 トーマス・マンが「この地上ではそんなことは起こらないのだ」といったように、ぼくがどこかにふらりといなくなっても、夏子さんは追いかけてはくれないだろう。

 ぼくのような文弱な人間では、夏子にはふさわしくないのだろう。

 この非対称性。

 ぼくのような種族が夏子さんを愛することがあるのに、夏子さんのような種族は、ぼくのような種族を愛さない。

 片思いが命づけられた種族がいるとして、そういう人たちには、救済が存在するのか?

 それとも、そういう種族は、「天国には行くことができない」のか?

 (ぼくは、ここでひとつの反例をおもいつく。とても美人な黒髪のKさん。彼女はとても本が好きだが、たくさんの男の子から愛されている。文弱な女の子は、愛されることができるだろう。だが、文弱な男の子は愛されることができない。なぜなら、女の子にとって弱いというのは武器になりうるが、男の子にとって弱いというのは武器になりえないからである。少なくともこの現代日本社会では)

 

 二葉亭四迷の平凡で、雪江さんの「にっこり」を楽しみに、自分も「にっこり」する主人公の気持ちが、百パーセントわかる。

 わかるよな?

 ぼくだって、夏子さんの「おはよう」を楽しみに毎日、学校に通っていたんだ。

 

 天使が通ったので、みんなの話が、そこで止まった。

 複数人で話しているとき、ふと会話が途切れることがある。

 それを、天使が通った、と表現する。

 フランス語の表現らしい。

 天使が通ったという言葉は、二葉亭四迷の平凡にも出てくる。

 でも、そんな言葉が出てきそうになったとして、みんなの前で、そんなことを言ったとしても、お前は何を突然にそんな言葉を言うんだ、と言われるだけかもしれない。

 知識がいくらたくさんあったところで、それは好きな女の子を魅了する力にはならない。

 クラスで一番足が速い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番力が強い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番顔がいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番話が面白い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番ダンスがうまい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番サッカーがうまく男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番権力、パワーがある男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番頭のいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できない。

 そんなこと、ずっと前から、みんな知ってた事実だろう?

 ぼくだって知ってるさ。

 だけど、だからこそ、許せない。

 こういう世界の在り方が、許せない。

 全員ぶっ殺してやる。

 いつか見てろよ。

 

 所詮、いつか見てろよ、としか吠えることができないから、何もできないのだ。

 プロシュート兄貴もいっていた、ぶっ殺すというのは弱虫の言葉だって。

 言葉で言う前にすでにやっちまってる、弱虫じゃないなら。

 ああ、そうだよ、ぼくは弱虫だ。

 弱虫だから愛されない。

 そうだよね、わかるわかる。

 弱い男の子を愛する女の子はいない。

 弱い女の子を愛する男の子はいるのに。

 なんでこんな不公平。

 女の子は妊娠するから、その間男の子に守ってもらわなくてはならないから、強い男の子を求めるんだって誰かが言っていた。

 男の子が、守ってもらいたくないなんて、だれが言ったんだ?

 ぼくだって、守ってもらってほしいのに。

 

 だれも、守ってくれない。

 

 ボロボロのナイフを研ぎ澄ますような感覚で、おのれの神経の細さに集中する。

 繊細さが何かの武器になることはあるのか。

 所詮、自分の不幸をもたらす才能なんじゃないか。

 この精神のもろさ、繊細さが、女の子から愛されることから遠ざけ、世間のさまざまなことに痛みを感じる原因なら、こんなものは、ない方がいいんじゃないか?

 それとも、何かあるのか。

 この精神特性が、何か意味のある条件が。

 

 このある種の内向性のせいか、わからないが、文章がうまく読めなくなったことがある。

 高校のころだったろうか。

 現代文を読むのが本当にきつかった。

 英語は、日本語ではないから、まだ読めた。

 そのときの状況において、数学はよかった。

 あの学問は、感情が入らないで解答を得ることができる。

 でも、あのときサリンジャーだけは読めた。

 荒地出版のサリンジャー全集。

 あれだけは読めた。

 サリンジャーの作品は、たぶん特殊なのだ。

 人が死なないわけではない。

 そういうわけではなくて、あまりにも間接的な表現なので、心に直接痛みを撃ち込まれることがないのだと思う。

 

 夏子さんは、どこかの運動部の男の子と付き合った。

 夏休み、コンビニですれちがったことがある。

 トイレの男女共用の個室から、夏子さんは出てきた。

 ぼくは会釈した。

 少しおどろいて、恥ずかしそうな顔をして、夏子さんはすれちがった。

 いいにおいがした。

 男のそばにいった。

 知っている男だった。

 ぼくは軽く会釈した。

 男も少し恥ずかしそうにして会釈を返した。

 飲み物を早々に買って、二人は店を出た。

 ぼくがいたから、恥ずかしかったのかもしれない。

 なにもかもがどうでもよくなったようないたみがやってきて、少しだけ呼吸困難になった。

 心臓のあたりの鼓動がおかしくなったような感覚があって、たぶん動悸がした。

 ぼくは男女共用の個室に入った。

 そのまま便座にキスをした。

 頼むから、これくらいの幸福は、ぼくに分けてほしかった。

 両手の指の数をあわせても数えられないくらいのキスを便座して、その日は、数時間、水も飲まなかった。

 親に心配をかけたくなかったから、食事はした。

 せめて祈りにもにた敬虔さで、ぼくは一枚のルーズリーフにキスをした。

 ここにすべてを閉じ込めるつもりだった。

 そして、普通に食事をした。

 丁寧にそのルーズリーフを封筒にいれて、封をした。

 フレイザー感染呪術を思わせるような確信さでもって、この封筒の中に、ぼくが現在の能力で手に入れることができる幸福のすべてがつまっていると信じた。

 

 

 

 それから十年以上経って、夏子さんが結婚したという話を聞いた。

 相手は、ぼくが知っている運動部の男だった。

 心の痛みがほとんどおこらなくなったことを確認して、ぼくは封筒と、そこに入っているルーズリーフを、ごみ箱にいれた。

絶叫

But at three o'clock in the morning, a forgotten package has the same tragic importance as a death sentence, and the cure doesn't work—and in a real dark night of the soul it is always three o'clock in the morning, day after day.

 

 

幸福になると良い創作はできない、みたいなポストがタイムラインを流れていくのを見たが、それはそうだろうという気がする。もちろん、すべての創作がそうではないだろうが、いくつかの創作は「たすけて」という耳をつんざくばかりの絶叫を変形させたものだと思うから。

https://x.com/PP29H9GixlN66UJ/status/1778413667195015536

 

 

 

 秋が一番好きな季節なのは、それが死に向かう季節だからかもしれない。

実際にすべてのものは終わりに向かって動いている。

すべてのものは終わりに向かって動いているのだというのに、まるで終わりに向かって動いていないかのようにふるまうのは、欺瞞だと思う。だから、すべてのものが終わりに向かっていると思わせてくれる秋という季節のことを、僕は好きなのだろう。

 

僕は、しぬのがこわかった。

 これが、ぼくの精神が不安定になった理由かもしれない。

 因果関係が逆で、ぼくの精神が不安定であったから、しぬのがこわくなったのかもしれない。

 まわりをみまわしてみて、まわりの人がみんなしんでしまうことをしる。

 これは、絶叫するくらいに、こわいことだった。

 みんな、このことに、気がついていますか?

 気がついているのに、みんな正気をたもっているようにみえるのが、とてもしんじられない。

 みんなどこかで、目をそらしているのでしょう?

 だけれど、ぼくは、うまく目をそらすことができない。

 目をうまくそらすことができていても、たまに、いつか自分が死んでしまうことに、意識が向いてしまい、一気に心がおかしくなってしまう。

 

 ホールデン・コールフィールド式の自己紹介ではなく、むしろデイヴィッド・カッパーフィールド的な自己紹介から始めよう。

岡田淳さんという作家がいて、ぼくはけっこう好きだった。

「選ばなかった冒険」が好き。

ゲームの世界に入ってしまうのだけど、これが面白かった。

「選ばなかった冒険」は、小学校のとき、友達と話しながら帰った記憶がある。あまり本を読む友達がいなかったから、同じ話題を共有できてうれしかった。

「雨やどりはすべり台の下で」「びりっかすの神さま」「扉のむこうの物語」「ふしぎの時間割」「ようこそおまけの時間に」などなど。

作者本人が絵を描いているのも好きだった。

高校三年生くらいの時に、文章を読むのが苦痛になって、本を読めなくなった時期があった。小学校のときが一番本を読んでいたと思う。中学校のときはノベルゲームや小説を作ろうとしていて、高校のときは勉強していた。どれも楽しかった。

高校三年生のときに文章が読めなくなったのは、あれはなんだったんだろう。たぶん、文章を読む、文字を扱う能力を酷使しすぎたのかな、あるいは飽きたのか。

現代文の文章量くらいなら大丈夫だけど、継続して読むことができなくて、小説が読めなくなった。

なぜかそのころ、古典を読みたくなって、でも挫折した。結局、古典を読み切ったことはない。

外国語は好きだけれど、古典語に関しては、あまり相性はよくないらしくて、たぶん現実の人間と話すことができない言語については興味がわかないのだと思う。本当はだれかと話すのが好きなのかもしれない。

高校のとき、長い文章を読むのが苦痛だったときでも、なぜかサリンジャーは読めて、あれはなんだったんだろう、と思う。読んでもあまり感情が悪いように動かない特性がある。

普通の本は感情を揺さぶるから、かなりきつかった。サリンジャーの本は優しい感じがする。

シーモア序章、とか、ハプワースとか、手紙形式の文章というのも読みやすかったのかもしれない。

でも、荒地出版社の全集を読んでいたから、他の普通の形式の小説も読めた。

サリンジャーの小説は、起こっていることはわかるけれど、それが直截的に書かれているというよりは、なにか抽象的に、象徴的に書かれているようなところが好きなのかもしれない。

読みたい本がもう読めない。精神的に集中できない。

ここ数年、かなり厳しくなってきた。労働環境が変われば、それも改善するのかもしれないが、読みたいという気持ちすらなくなってきた。そしてそれがつらいことだとも思わない。(たぶんこれは悪いことではないと思う……もっと僕は外に出るべき)

トーマス・マン魔の山、全部は読み切れなかったけれど、拾い読みでも楽しかった。

原文はドイツ語で、中にフランス語で書かれた章があるのだけれど、読み手はそれを理解できるという前提で書かれていることを考えると、「読み手を選ぶ」本だと思うが……労働者階級が読むことを想定していない?

英語圏ではない外国文学にあこがれがあるのだけれど、自分にしっくりくる外国人作家、というと、やはりサリンジャーになる。結局大国の文学になるのか。あのひとの世界の切り取り方は、本当に独特というか、類似性を持つ作家をあまり知らない。

第二外国語を学ぶとき、植民地主義の遺産である英語を義務教育で勉強するのはかまわないが、植民地を拡張したフランスの言葉ではなく、敗北したドイツの言葉を勉強したいみたいなことを考えていた。勝っていない側につきたい欲望があるのだろう。

でも、実は、そもそも、発音が一番好きな外国語はドイツ語。文法構成など見ても、かなり好き。結果論だけれど、勉強してよかった。

村山早紀さんという小説家がいて、「はるかな空の東」という作品がとても好き。岡田淳さんの小説と同じように、この作品では、作者本人が絵を描いている。とても上手。

続編の構想はあったみたいだけれど、おそらく形にはならなかったのか、文庫本のときに補遺、みたいな形で構想が語られていた気がする。

英語の原文を読んだときに、「高慢と偏見」や「ジェーン・エア」は手も足もでない感じだったから、「月と6ペンス」や「清潔でとても明るい場所」を読んだときはびっくりした。簡潔な英語で小説が書けるんだ!という驚き。

簡潔な英語、という観点からいうと、「アルジャーノンに花束を」は、文体から言って原文で読めるなら一度読んでみてほしい。

僕が生まれてから初めて原文で通読した洋書。こんな書き方があるんだ、と思った。部分的に読むんじゃない達成感があったな。すごく暗い部屋で読んでた。

あの頃、ごはんと、ほうれんそうに醤油と七味かけたのを夜ご飯にしてた。一日二食で、暇な時間ほぼすべてを勉強にあてていたが、それが精神のバランスを崩した原因かもしれない。勉強を思いっきりやれば、どこかにたどり着けると信じていたのだが、かえって心を病んだ。

結局、あの頃、どこにもたどり着けなかったが、行きたいと思っていた道のすべてが袋小路だとわかったのはよかった。自分の能力では、このままでは、その道は歩けないとわかったのは、本当に良かった。もっとひどいことになっていた可能性だって十分にあった。やはりバランスは大事だ。

月並みな言い方だけれど、死ななくてよかったと思う。それは本当に思う。本当に、もっとひどいことになっていた可能性だってある。体感的には、あの頃が一番しんどかった。肉体的には今の方がはるかに過酷なのに。

結局、何事もやりすぎはよくないという教訓が得られた。いくら好きで得意なことでも、それをやりすぎるなら、(少なくとも自分の場合は)バランスを崩す。たぶん、人にはそれぞれ許容量があって、僕はそれを超えてしまったのだろう。

大学の卒業証書はビリビリに破いて捨てたが、いくつかの本だけは捨てなかった。洋書のすべて、「日本語音声学入門」「組織戦略の考え方」。あの時の自分の選択眼は、あの精神状態でもかなり正常だったなと思う。最悪の状況でも、死んでいないなら、まだすべてが失われたわけではない。

松原秀行さんのパスワードシリーズが好きで、よく読んでいた。続き、もう出ないのかなあ。パソコン通信の時代から書いてあって、とても雰囲気があってよかった。なんらかの形で完結してほしいが、いちおう一冊で完結する話なので、それでいいのかなあ。

パスワードシリーズは、未来編みたいなものは見てみたい。四つ葉学園の「将来の学園長」になるかもしれない彼は倒してほしいね。

WindowsME時代に、Caravanというゲームがあって、それもよかったな。ファレスというハンドルネームでプレイしていて、プレイ歴だけは長かったけれど、能力は全然低かった。

みんなが出すようなハイスコアは出せなかった。でも楽しかった。

基本的に、勉強以外の能力値は低い気がするし、勉強についても、基本的に他に興味があることが少なかったため、可処分時間をほぼすべてつぎ込んだためにそれなりにできただけなのかもしれない。だけど、他人と比べても仕方ない気がする。自分が好きなことをできていれば、他人より劣っていてもいい。

楽しいことはいっぱいあった、友達と遊ぶことは少なかったけれど、それでもないわけではなかったし、一人でやっても楽しいことがいっぱいあったから、それは本当によかった。だれかと一緒にいても話が合わなかったりしてちょっとさみしくなったりする。誰も僕の読んだ本の話を知らなかったりして。

無理に他人に合わせるよりも、自分が楽しいと思うことをやってきたから、たぶんいろいろ取りこぼしたものもあるんだろうと思うけれど、無理に合わせなくてよかったなとも思っている。楽しめるものがなくなった今から、合わせられるところは合わせればいいと思っている。

楽しいと思う気持ちがなくなってきたことが、必ずしも不幸ではないと思えるのは、仏教の影響かもしれない。仏教の考えは、知っておいてよかった。仏陀さん、法を説いていただきありがとうございますの気持ちだ。

最悪の状況でも、死んでいないなら、まだすべてが失われたわけではない。何もかもが失われたとしてもまだ未来だけは残っている。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。

蹴りたい背中について、20年越しの書評

偉大な小説とは何か、という質問には、いくつかの回答が可能だと僕は考えるが、そのうちのひとつの回答として、「要約できないものを要約しないままに表現する」、「要約するという行為からはみでてしまうものをとらえる」というものがある、と思っている。
蹴りたい背中」というのは、この意味では、まさしく偉大な小説である。
少なくとも、僕がはじめて読んでから、もう一度読んで、書評を書いてみようと思うほどには、何かしらの波紋を僕の心の中に投げかけた小説である。

この作品は、僕が見る限り、要約できないものを書いた小説だと思っているので、もちろん書評を書いてみたところで、そこから抜け出てしまうもの、回収しきれないものは当然に存在する。
それでもあえて、少し書いてみたい。

主人公の女性の置かれている状況は、クラスで孤立していて、「他のグループが本当にまれに面白いことを言ったときに笑いをこらえないといけない」レベル。
完全に外野という感じだ。
同じクラスにも、にな川という男の子がいて、彼も孤立している。
ただ、この孤独に対しての向き合い方が全然違っていて、主人公は、みんなと仲良くなりたい気持ちもあるが、みんなに合わせることはどうしてもできないという形に対して、そもそも、にな川はみんなに合わせようとも思っていない(おそらくそれは佐々木オリビアというモデルの熱烈なファンだから)点が違う。

このクラス内での一種の浮遊状態に対する描写も上手だと思うが、この小説の面白いところは、主人公の性欲が書かれているところだと思う。
これは、たぶん、性欲といっていいと思うのだが、断言してもいいかは、正直、若干、自信がない。
あえて以下は断定調で書くが、実際に読んだ感想、感触は、人によって異なる可能性は十分ある。
サディズムに近い性欲を、にな川に対して、主人公は持っている。
これは恋や愛ではない、と主人公は独白でも、友人の絹代(この人はいい人だなあと思う、賛美両論あるだろうが。でも善性はあるだろう)に対しても言っている。
これを単なる虚勢、ポーズ、強がりと見る人もいるだろうが、僕はこれは純粋に受け取っていいと思っている。
性欲は感じるが、恋心は感じない異性というのは、(人によるだろうが)存在するでしょう。
にな川を傷つけたい、という気持ち。
その気持ちが、憎しみや復讐心でなく、性欲から出ていることを書いた小説だ、と解釈している。


陸上部の顧問の先生に関する描写も好き。
先生は先輩たちに丸め込まれている、と主人公は描写するし、一回は飼いならされてるだけ、と先輩に直接言ってしまう。
でも先輩は、あんたよりもわたしたちの方が先生のこと好きだ、と言い返す。
これは先輩の虚勢だ、と主人公は言う。
最初に読んだときも思ったが、ここは僕も主人公に賛成だ。(いや、先輩の言うことが正しい、という人もいるだろう)
そのあと、先生から、がんばって練習しているからお前は伸びる、と言われてうれしくて泣きそうになる主人公もいい。
その直後の文章がいいので、引用する。

「認めてほしい。許してほしい。櫛にからまった髪の毛を一本一本取り除くように、私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。
 人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに。」

やはり要約すると陳腐になってしまう。
きっとこれは、読む人によっていろいろ感じ方が違うと思うので(これも優れた小説の特徴のひとつかもしれない)、短い話でもあるし、興味があったら読んでみてほしい。
それから、この小説の最後に、にな川が、佐々木オリビアのライブに行ったが、今までで一番遠くに感じた、と言っていることは注目されるべきだろうと思っている。にな川の「推し方」では、現実と接触した時に、断絶を感じてしまったのだろう。


補足1
偉大な小説の定義のひとつとして、未来を予言する、ということがあると思うが(ウェルベックの闘争領域の拡大はそれにあたると思っている)、「推し活」という言葉が流行るずっと前にこの小説を書いた綿谷りさのすごさと僕は感じてしまう。

補足2
この小説は、容姿に優れた人が書けるようなものじゃない(のに書けているのはすごい)というコメントをどこかで見た。だれだったろうか。角田光代か、林真理子だったと思うが、検索をかけても出てこない。
これは今の時代にはあまりピンとこないかもしれないが、本当にこの時代は、作者の綿谷りさが美人だというのは、一種の共通認識として存在していたと思う。
あまり作家の容姿など取り上げられることはないかもしれないが、そしてそれは不幸なことだったかもしれないが、一種の「スター性」を付与されてしまった作家だと思う。
もちろん、それは当時最年少で芥川賞を受賞したこととも関係したかもしれない。「きことわ」の作者が美人、という話もその後出たが、綿谷りさのスター性は、やはり突出していたと思う。

ブログの「About」や小さな記事について

About

https://didhe.github.io/hatfree/about.html

 

このブログは、主に、あるマイケルによって維持されている。(役者注:綴りからすると男性名であり、ブログ主は男性のようだ)無理のない努力によっておそらく苗字を明らかにできるだろうが、もはやそれについてあまり心配していない。公然の秘密(意味としては自由に利用できる情報だが広くは知られていない)と公然の秘密(意味としては広く知られている情報だが広くは受け入れられていない)の間のどこかで、探したいとおもうかもしれない誰かに、このことをずっと考えてきたが、魔女の1×1だ。もしこのブログを理由として人が私を見つけだしたいなら、それなりにめんどうだろうが、他の人が私を見つけるのとそこまでめんどうすぎるということもないだろう、とりあえずそう思う。

 

このブログはHakyll上で動作する、部分的には、Hakyllが素晴らしいからだが、ほとんどはいろいろいじるのが楽しいからだ。いずれにせよ、たとえばBloggerや Edublogs Wordpress blogよりもずっともっと構造化できるし、その構造化はしばしば、わたしにとっては不快な障害というよりは面白い問題だ。

 

これは静的なブログで、その不幸な帰結はコメント機能が元々ないことだ。しかし、ブログという媒体にとってコメントというのはとても重要なので、外部サポートを搭載して向上させたが、コメントは(おそらく不幸にも)Disqusによって提供されている。おそらく、もちろんより効果的に統合されうるだろう。

 

もし他の批判的に重要な側面が失われているとするなら、実装したいと思う。わたしは自分がブログにとって重要だと思った側面を実装したにすぎない。

 

 

 

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-03-another-perspective-.html

別の視点?

2013年11月3日投稿

 

この画像は少し大きい。  https://www.smbc-comics.com/?id=3164

 

台本

 

 「永遠に生きる呪いをお前にかけてやる」「それはどんな呪いですか?」

 

 「社会は変化し、変化し、変化し、そしてお前はいつかどこにも属すことができなくなる」「あぁ、でも、でもどんな時代でも、一番年取った人として有名になるんじゃ」

 

 「お前の不死はおまえを死すべき同胞から孤立させるだろう」「あぁ、その人たちよりも優れた存在になるわけだからね」

 

「お前の愛した人が死ぬのも見ることになる」「克服する。永遠がある」

 

 「好きな映画が終わりなくリメイクされるのを見なくてはいけないかもしれない」「慈悲を! 慈悲を!」

 

(これはちょっと真面目なだけだ)

 

 

"He who uses elbows is not helped."

Posted on 31 October 2013 by en

タイトルのみのエントリ。

肘を使うものは助けられない。

(役者注:意味はよくわからない)

 

 

 

吾輩は猫ではない

2013年9月12日投稿

 

名前はある。どこで生まれたかだいたい見当はついている。

 

(注意。これは、吾輩は猫である (I am a Cat)[1]への言及である。このブログタイトルは The Cat in the Hatに言及している。たぶんわかりにくいよね)

 

(訳者注:最初のエントリ。原文リンクを確認してもらえばわかるが、吾輩は猫である、は日本語原文で書いてある。まさか、多少は読めていたのか? 単なるコピーアンドペーストかもしれないが、引用元の文献を原語で表記するのは、ある程度の学術訓練を受けたか論文のようなものを読んだことがある経験があるのではないか)

 

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/I_Am_a_Cat

原文ではリンクが貼ってある。