ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

「共倒れ」社会を超えて

「九十九人のいのちを守るために一人のいのちが犠牲にされてよい社会など、社会を名乗る資格はないと私は考えます」。
はじめに、のこの言葉に共感できる人であれば、楽しめる一冊だと思う。

犠牲がでるのはよくないけど、現実にはそうしなくちゃいけない場合もあるし、その場合はそこでの最善を選ぶべき、という考えが「倫理」ではないという意見が面白かった。
「あなたの言っていることや考えていること」と「あなたの存在」は別で、後者は無条件で肯定されるべきだが、前者は否定してもかまわないし、むしろ民主主義のためには否定する権利も必要、ということが書いてあった、とぼくは読んだ。
これは非常に納得できるのだが、相手の言うことや考えていることを否定して、それでも相手の存在を肯定するというのは、どういう状態なのか、少しイメージしにくい。
が、これは本書の主題ではないらしく、そこまで深く描かれてはいない。
だが、生存は無条件に肯定されるべきという話が、すぐあとに出てくるので、少なくとも、生存を否定しないということは含まれているのだろうとは思います。

倫理には、うしろめたさがつきものである、という話が、心に残った。
以下のような話がある。
ジョディとマリーは双子で、腰あたりが密着している。マリーは心臓が十分に機能していないため、ジョディの心臓に二人分の負担がかかり、このままだと二人とも死ぬ。分離手術をすれば、ジョディは助かる可能性が高いが、マリーは確実に死ぬ。
どっちの選択をするにしろ、両親には後ろめたさというものがつきまとうだろうと筆者は言う。
そして、筆者は、どっちの選択肢も、「正解」じゃないし、こういう状況では「選択」はあっても、「正解」はないという。
こんな極限状況では、どちらかを選ぶしかない。でも、どっちを選んでもうしろめたさが残る。でも、それを引き受けないと駄目だろうと筆者は言う。
倫理学が、たとえば生存者が一人は出るだろうから分離手術をする方が正しいと言ってしまったら、それは「倫理学的ルール」を作ることで、うしろめたさを引き受けない逃げであり、倫理的に生きることから逃げている、という。
さらに、そういう倫理学的ルールに従ったら本当に倫理的なのか?
それは単にルールに盲目的に従っているだけじゃないのか? また、その前提、上の例でいえば「二人とも助ける」という現実を作るという選択肢があらかじめ排除されているのではないか?
そこを排除してしまったら、それは「厳しい現実の中でよりマシな選択をする処世術」であり、倫理学とは言えない、と言います。

根本的な現実を変えて、どういう現実が正義なのかを考えるのが、倫理学なのではないか、というのが、この本の底流に流れる思想だと思うし、ぼくはそれに賛同できる。
「目の前の現実が正義にかなっていない場合、そこでの行為の正しさや良さを問うことができない」。
この筆者の意見、耳を傾ける価値ありと思うなら、ぜひご一読を。

それから、責任(レスポンシビリティ)についてちょっとだけ。
英語で責任はレスポンシビリティで、直訳すれば、応答可能性、返答可能性ということになる。
この本では、不利益をこうむっている人がそれに抗議するだけではなく、そういう(たとえば障害者が不利益をこうむっているなどの)「不正」を目撃した、知ってしまった他者にも応答する責任があるのであり、その意味で、すべての人が「この社会は不正義である」と告発する権利、責任を持つのだ。
そういう話が展開されていると思うのだが(66ページあたり)、こういう考え方ってレスポンシビリティの語源と関係しているのかな~なんて思った。
共に生きて、共倒れにならない(一家心中して周りはそのことに気づかなかったとか、行政は有効な手立てを打てなかったとか)ためには、みんなで責任を負って、みんなで助け合わなくてはならない、みたいな話だと思う。