ひきこもり生存戦略

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英雄を必要とする土地は不幸である

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-09-20-ungluecklich-das-land-das-helden-noetig-hat.html

上記URLの記事の翻訳。

翻訳者である僕は、この記事ではじめて、このブログの存在を知った。

ブレヒトの戯曲の言葉であるこの記事のタイトルを検索していてひっかかったので、思い出深い記事だ。

<<Unglücklich das Land, das Helden nötig hat>>英雄を必要とする土地は不幸である、英雄が必要とされている状況は、不幸な状況であろうから、というような意味である。この記事内でも説明されているように、これは<<Unglücklich das Land, das keine Helden hat>>英雄を持たない土地は不幸であるという台詞に対する返答である。僕は前者の考え方に共感する。

前置きが長くなりました。以下翻訳。

 

 

「英雄を必要とする土地は不幸である」(直訳すると英雄の必要を持つ「不幸(不運)な土地」[1])は、ベルトルト・ブレヒトの戯曲「ガリレイの生涯」に出てくるのは確かだが、以下のことを指摘するのは必要なことだろう、この劇の中で、アンドレア・サーティの「英雄のいない土地は不幸だ」という台詞へのガリレオガリレイの否定の言葉として出てくるということは。

まとめると、この含意は、英雄を必要とする土地は、英雄が不在だから不幸なのではない――英雄の不在は不幸の原因ではない――そうではなく、英雄が必要とされるというまさに同じ理由によって不幸なのだ。

 

特に、「英雄」という単語は、人々によって意味するものが違うが、英雄的だと考えられる行為は、典型的には、何か恐ろしかったり不快であったりする状況を修正するものである。不幸な状態にある土地が、不幸な土地である可能性はあるかもしれないというのは、もし同語反復ではないなら、もちろん、少なくとも信じるのが難しくはない。大まかにいって、英雄は間違いを正す。間違いを正すことは、英雄をその他の種類の人々と区別する共通の特徴だ。人が試みて失敗するという場合には不明瞭な点が存在する――英雄的な努力は英雄的だと考えられる傾向にあるが[2]、何が間違っていてどのようにそれを正すかは、判定者の道徳的または倫理的感覚による。(私たちは英雄的だと考えられる行動が人によって違うと考えるかもしれない)

 

英雄的な旅路[3]は、英雄それ自身のように、闘争と対立によって定義されると私は言うだろう。

すでに存在する問題がある。より長大なフィクションの働きにより、一般的に、たくさんの部分からなる複雑な問題は、継続性と進歩の感覚が、その部分の解決に存在する。反対に、人生においては、英雄であろうとする行為は、結合されていない、別々の存在になりがちdし、単に、たまたま同じ人物や人々をまきこむだけにおわる。(もちろん、変種も存在して、たとえば、サラリーリョ[4]のような記念碑的な作品が、後者のモデルを求め、まあ、長期的、広範囲な政治的枠組みがしばしば前者のモデルを求めることはある)

 

余談だが、英雄の闘争の下部基盤は、女性に英雄がいないことにもしかしたら貢献している。

家父長的な社会は、戦うだけではなく、男性性と共に、戦うことに言及する決意とそれに続く重要性を結びつけることもする。

わたしは、男性と女性がそれによって判別されるような行儀作法の間にある区別を認めることはしない――原則的に、私はジェンダーを区別するためのもっともな理由であると一般的には認めない――ほとんどの社会、歴史的であれ現に存在するものであれ、(多様な度合いがあるとはいえ)家父長的である

 

そしてもし、社会として、英雄の特質が男性にとってふさわしいものであり、女性にとってはそうでないと考えられるなら、当然英雄は女性ではありえない。英雄としての女性の物語は、さすれば悪い物語になり、英雄的な特質を持つ女性は、間違った人物となるだろうし、社会の価値に立ち向かう人となるだろうし、よって英雄よりは悪役の方がよりふさわしくなる。英雄主義は、美のように、それを見る人の目の中にある。女性の英雄は、数えてみると、希少では実際ない。だが女性の英雄は重要性と共感を持っていない。もし、むしろ私たちが英雄を存在さしめる特質がすべてのジェンダーに存在すると認めるなら――そして逆に判断するなら――そうすればわたしたちは、女性および男性を英雄と認められるだろう。

 

しかし、私は、原則的に英雄主義が持つ根本的な問題が闘争であることを強調したいと思う。英雄は闘争を称賛する、理想とその真逆の状況の間の苦闘を。もし英雄が、人々が尊敬し模倣するような、価値の体現者であるなら、ならば英雄は、理想と苦闘における、潜在的な信念の源泉でもあるだろう。そして、理想における前者の信念は非常に高価に価値がある一方で、それは後者より重みをもつことはない。英雄主義の本性は、所与の陰鬱な状態を要求する。英雄を称賛することは、陰鬱とその反対、不運と不幸、不快と恐怖を仮定する。英雄の勝利をたたえることは、それが正しさを輝かせるように、間違いにも光を当てる。

 

よりよい世界では、英雄は必要ではないだろう。おそらくこの不幸で不運な世界は英雄を必要とする。しかし、そうであっても、英雄主義の害は続いている。英雄は現状に満足してしまう状態を長続きさせる。英雄が存在する限り、英雄は世界をよりよくするための責任を持つ。だから、確かに、英雄のない世界は絶望に沈むかもしれないが、英雄のいる世界は、その絶望を取り除くことも絶対にできない。

 

 

[1] 私はしばしば引用、題名、その他をこのように公平かつ保守的に翻訳する(あるいはこの場合のように再翻訳する)。これはしばしば、滑稽に見えるが、私は情報を失う翻訳は嫌いだ。

【翻訳者注:筆者はここでドイツ語の原文をそのまま引いたあとで、それを英語で直訳している。ドイツ語の語順にしたがってそのまま翻訳しているので英語の文法にかんがみるとかなり奇異にうつるはずだ】

[2] この感覚は、成功よりも努力を同等かそれ以上に価値あるとする文化に独特のものかもしれない。努力をそこまで重要視しない文化は単にその思考を失敗とみなすかもしれないと考えることはできる。

[3] 私はキャンベルの単一親和論に賛成しない、それは民族中心的だが、その少ない意味にくらべて広まっている。

[4] 完全な題名はLa vida de Lazarillo de Tormes y de sus fortunas y adversidadesラサリーリョ・デ・トルメスの生涯、およびその幸運と不運