ひきこもり生存戦略

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園からさまよう

僕はこの翻訳で筆者がいう、変化についての筆者の考えには賛同できない。これに関しては正反対の心性を持つと思う。2013年の11月に高校三年生である筆者は、秋学期が新年度だと考えると、2024年4月現在は、30歳目前ということだろうか。面白い心性と思考回路と文体を持った人だと思う。教養を感じる。犬養毅を知っている(おそらく)英語を母国語とする高校三年生、世界でも限られるのではないか?

以下URLの翻訳です。

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-23-sauntering-from-the-garden.html

 

 

園からさまよう

 

2013年11月23日投稿

 

エデンは昔ながらのおうち

毎日わたしたちは住む

住処をうたがうことなしに

わたしたちが立ち去るその日まで

 

過去を見るとなんて公平

扉をあけてさまよいだした日は

無意識に戻れると

でももはやそれは不可能とわかる

 

エデンの園においては、エデンの園の外という別の状況にさらされるまで、その中に住むという状況をアダムとイヴは理解できなかったし疑いも持てなかった。

 

離別の時、エデンの扉からさまよい出た時は、その時点でのそこを通れるようだと理解できて決断した時だろうが、以前の状態に戻ることができないという、このように予見できないその後の経過を考えると、イヴとアダムにとっては、善悪の知識の木の果実を食べた時だろう。ディキンソンの「さまよう」という言葉が暗示するのは、カジュアルさだが、この情報のなさは、続く次の行の「無意識に戻れると」にあらわれていて、善悪の知識のないイヴとアダムが正しいことと間違っていることの概念をもてないように、このことに責任がない印象をあたえている。

 

わたしの状況、そして高校三年生として私たちのほとんどが、住居をうたがうことなしに毎日住んできた家庭から「立ち去る」ようになっている状況は、非常に異なったものだ。これは、なじみ深い場所からイヴとアダムが二人とも離れることになったおかげでこの状態になったことに対して垂直ではないこと以外は、かなりほとんど直交している。

(訳者注:ここの表現は難解だが、慣れ親しんだ家を離れること以外のことについては、アダムとイヴの状況と自分の状況は重なるところがないと言っているのだと思う。比ゆ的な意味で直交・垂直という言葉を言っていると思うがいまひとつつかみ切れていない)

 

(同様に、アンティステネスと、ああ、犬養毅の二人が、己の人生のある時点で読むことを学んだからだ[1]

 

主題に関して、ディキンソンの詩は、エデンの園の物語を考えると、だいたい三つの点で注釈を書けるだろう、このように、

 

  • 1. アダムとイヴはエデンで暮らしており、この園が自分たちの家であるという自覚がない。彼らにとっては、エデンは世界全体そのものに見えており、エデンとエデンでない場所についての区別が存在しない、エデン以外にいたことがないのだから。よって、イヴとアダムがエデンでエデンのような状態で済むことができるようになるには、善悪の知識の木の実によって授けられた、まさに善と悪についての知識を解釈することにかかっているが、これは二人がエデンから離れてエデンではない状態を学習した時にえられるのだから。
  • 2.イヴとアダムはエデンから立ち退くことを決定する本当の選択肢を持っていなかったし、よって本質的に罪がない。もし善と悪の知識がないなら、イヴが蛇の誘惑に反抗したかもしれないとみなす理由はないし、アダムがイヴの果実を食べようという提案を拒否したかもしれないと思う理由もない。イヴとアダムはおそらく未来を考えてその結果を理解する能力にかけているのだから、同意と有責性の概念は適用できないし、たとえば、これは未成年や新生児に法令によって定義された強姦事件において同意や有責性の概念を適用しないのとほとんど同じことである――イヴとアダムは認知的には未成年や新生児なのだから。確かに、二人は聖なる一つの委任に背いたが、表面的に規則を理解する以上のことを二人は(少なくともイヴは)できないだろう。
  • 3.イヴとアダムはエデンに戻ることができない。

 

わたしの状況はむしろ違う。

 

  • 1.わたしは、わたしの家以外にたくさんの世界があることを知ってきたし、そして、事実、自分の経験の総計よりさえもたくさんの世界があることを知ってきたし、アダムとイヴとは違って、わたしは現に直近の環境の外にいる(事実、「直近の環境」とみなされるものは、歴史的に変わってきている)。もちろん、わたしは、わたしの経験のほかに何の経験もすることはできてきていないので、これは自分の知らない世界の一面を知る助けにはまったくならない。
  • 2.わたしは、ある状況のもとで自分が能力があるとみなすほど、完全に不合理というわけではない。イヴとアダムと違って、おそらく、わたしは過去に、(社会によって)善と悪と考えられるものを教わっている。わたしはこのガイドラインに従うように期待されているだろうし、自分の行動の結果を予見するように期待されているだろう。これが現実に常に妥当するかはともかく、原則としてはこうだ。
  • 3.私はいずれかの時点で家に戻れると望んでいる。もちろん、家を定義することはできていない。

 

もし、ディキンソンの詩に関して、わたし自身の人生と、イヴとアダムの創世記のエデンの園の物語における状況の間に何か平行線(役者注:共通点のことだろう)があるなら、最初の点にあるだろう。アダムとイヴは、そのほかの場所を知ることができなかったので、エデンの園を認識することができないように、それを他の家と区別できないから、私も離れるかもしれない自分の家であるものを認識することができない。

 

この家を離れたあと、後悔と共に思い出すかもしれないということは完全にありえることだが、この瞬間においては、家を認識しないから――わたしは任意に家を定義するという概念を否定することさえしているかもしれない――家に帰る選択を変更することを怖がることができない

 

そして、本当のことをいえば、たとえ、あとに残していくものごとを考えようとしても、わたしは帰ったときにそれが変化しているだろうことをおそれないだろう。あとに残していくだろうほとんどのものは本質的に変わらないし、残ったもののほとんどは代替可能なものだ。代わりに、私は自分自身の中でおこる変化を恐れる――おそらく、あとに残されたものと私の関係性における変化を恐れる。

 

しかし、この努力をするのは難しい、もしかしたらばかばかしい、変化を恐れるということは。変化を否定するということは、変化を防止するということは、変化を受け入れるということは、努力を必要とするだろうが――しかし、変化を恐れることなしに、これらのことはできるはずだ、どっちにしろ、どんな形であれ、徐々に起こることなのだから。いつ起こるかは議論の余地があるが。

 

 

役者注:この記事で使われているrecogniseという綴りからすると、この筆者はアメリカ人ではない可能性が高い(他にもcolourという綴りを使っていた記事があったはず)。高校三年生でこのような文章を書く人間は、今でもどこかで何かを書いている気がするが、話してみたいものだ。

 

[1] もっと重要なことだが、二人とも犬に関係している。(訳者注:犬養毅は日本語話者には言わずもがなだが、アンティステネスはキュニコス派の始祖とされる。これは犬儒派とも訳され、キュニコスという単語自体が犬を語源とする。)