ひきこもり生存戦略

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だけど何人かは反対の側にいる

だけど何人かは反対の側にいる

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-12-17-but-some-of-them-are-on-opposite-sides.html

 

2013年12月17日投稿

 

なぜ善が報いられるべきであり、なぜ悪が罰を受けるべきなのかを、そしてなぜそれが逆ではないのか(あるいは、なぜ逆であるのか)[1]についておそらく考えることができるようになる前には、最初に善と悪が何であるかを考えるべきだし、とにかくそれらが何であるのか、ものごとが善い、悪いというのはどういう意味なのか考えるべきだ。もしわたしたちが、人間の本性というものが、善は報われるべきであり、悪が罰を受けるべきだと信じさせるのだということを受け入れるのなら、それは以下の運用上の定義を許可する。善とは報われるべきもので、悪とは罰を受けるべきものである。

 

このような定義はとても単純化したものであり、簡単になぜ人が善くあるべきかについて説明する(良い報いがあるから)し、なぜ人が悪いことをしてはいけないのか説明する(罰があるから)が、富める者や力のあるもの栄光をたたえ(報われている、食料を得てきているはずだ)、犠牲者を非難する(罰をうけているから、悪いやつに違いない)。

 

なぜ罰を受けてさえ倫理的にふるまうべきなのかの説明は、ならば、おそらくほとんど満足のいくものにはならないだろう。ふるまうべきないなら倫理は善ではない。罰を受けるときでさえそれをしなくてはならないような固有の性質をもつから倫理的にふるまうべきではない。このような考えはまったく無意味だ。罰に報酬があるとでも仮定しない限りは。しかし、これは仮定された嘘と同じくらい間違っている。

 

このモデルにおける複雑化は、みっつの点で立ち現れてくる。最初に、なぜ人間の本性はそのようであるのかという点。第二に、公道に対する結果が報いあるいは罰あるいは他のものあるいはなんでもないものとして知覚されるかどうかという点。三つ目は罰よりも報酬を大事に思う点。                                                                                    

 

最初の点は人類のバイアスによってもっとも簡単に説明できる。これは私たちが観察したことだ、なぜならもしそうでないなら、観察することができないからだ。このようであるべきかそうでないべきかをわたしたちが定義しないなら、十分な人間がまわりにあまりいないことになるだろう、一人で充分な時間を確保して倫理と道徳性の源泉について考えさせればよい。そうであるいいわけはあまり存在しない。このように考える人もいるようだが、このように考える人は考えるのを止める確かな傾向があるようだし、ちがったように考えたり、そのようにある間違いに陥らないようになっている。

 

第二の点と第三の点はもっと面白くて、お互いに幾分かかわりあっている。

 

報酬と罰の任意のペアを比べることが実際に可能かどうかを言うのは難しいが、確かに私たちは二つの極端を仮定する。究極の報酬を生む最大の報酬が同時に起こる可能性のあるすべての罰の総数と比べられるとき、そして究極の罰を生む最大の罰が同時に起こる可能性のあるすべての報酬の総数と比べられるとき(このふたつは、もちろん、同時には不可能だが、繰り返すことのできないすべての組み合わせを含む組み合わせは、繰り返すだろうか?)。これは、絶対善と絶対悪の親しみある概念を、最大の顛末を結果するすべての行動という観点から、提供する。

 

しかしながら、善と悪をその結果という観点から定義することにおいて、わたしたちは未来性、そしてしたがって不確定性という要素を付け加えるが、これは行動の結果を判断するという問題を呼び起こす。ある程度は、私たちは似たような行動の後に過去起こったことに基づいた結果への期待を形成するのは自然なことだし、もし他の哺乳類の心理学がなんらかの指針になるのなら、機体が外れたときのみしばしば一般化と差別化が起こる。

 

そして、依然私たちは、その結果が望ましい(善い)か望ましくない(悪い)を評価しなくてはならないし、結果が完全に不合理あるいは最低でも部分的に識別不可能なことは完全にありそうなことだ――その理由は情報の不足のためか情報が矛盾しているためなのだが。さらに、報酬と罰の両方がありえそうな結果であるなら、それぞれの価値と可能性はおたがいに相殺しあうし、結果に割り当てられたそれぞれの価値と可能性にわりあてられた相殺分は実質的に違う人間の状況評価に寄与する加えて、不可知であり予見不可能な要素があり、それは理解可能だろうが、割合を占めるのは難しい。

 

しかしながら、未来は、我々の視点からすると、決定されているようではないから、行動の是非を問うのは、決定的な時間の終わりがきて、すべての可能な結果が明らかになるまで不可能であり、因果法則を考慮に入れると、動作主が動作したあとに得られた行動についての情報はその行動に影響を及ぼさないので、その行動を起こした時点での動作主にとって利用可能なすべての情報に照らしてその行動が善か悪かを判別することのみが役立つことである。

 

これらすべて、わたしたちをヨブ記のヨブへと呼び戻す。ヨブは悪い結果を受けたが、ヨブが得た情報で、ヨブは自分が正しいという結論を得る。ヨブは自分が罰にえらばれたかを知ることはできないなぜなら、ヨブはもっとも正しいものだからだ。

 

しかしながら、予想されたことが実際に起こるという保証はまったくない。そして神の持つ情報はヨブの持つ情報と同じではない。それゆえ、ヨブや他の人間が持っている善と悪についての信念を、神が原因であるとすることはできない。実に、全能の存在にとって、結果による道徳性はあまり意味深いものではない。神は何かに理由を必要としない。それはそのようにあるだけだ。そしてちょうど同様に、もし神が何にも理由を必要としないなら、神がだれかの行動にどのように反応するかを心配するのは無意味なことだ。神はいずれにせよ反応することができるし、神の行動を予想することはできないのだから。人はかわりに、理由をまさに必要として、限界の存在のすることに注意を払うべきであろう――つまり、たとえば世界のように。

 

[1] 役者注:筆者のこういう書き方が僕はとても好きだ。ここで筆者は、世界が善は報われず悪が報われる可能性について言及している。話の前提は、なぜ勧善懲悪であるべきなのかという話だが、そうじゃない可能性にも言及する「しつこさ」がたまらなく好きである。