ひきこもり生存戦略

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ウィリアムジェイムズ「道徳哲学者と道徳生活」

アーシュラ・K・ル・グウィンの「オメラスから歩み去る人々」において、言及されていた文章、ウィリアム・ジェイムズの「道徳哲学者と道徳生活」の、「オメラス」にて言及されている部分の抜粋訳。

訳者の力不足により意味が取れていない箇所があると思います。

【】は訳者の意見です。

 

改行は原文と一致していません。

 

 

***以下より翻訳***

 

 

道徳哲学者と道徳生活

(1891年2月9日イェール大学の哲学クラブの前で読まれた)

 

この論文の主な目的というのは、あらかじめ独断的に倫理哲学を作るということはまったく不可能であるということを示すことにある。

人類の道徳生活に貢献する限りにおいて、我々はみんな、倫理哲学の内容を決めようとしている。

別の言葉でいえば、物理学でそうであるように、人類最後の人間が自分の経験から自分の言い分を言い終わるまでは、最終的な真実は、倫理においては存在しない。

しかしながら、この場合においては、別の場合と同じように、とりあえずの仮説と、この仮説が思いつかせた行為は、その「言い分」が何であるか決定する必須の条件に含まれる。

まず第一に、倫理哲学を求める人間の立場というのは、どのようなものだろうか?

はじめに、その人は倫理的懐疑主義者であることに満足しているすべての人間と区別されなければならない。

その人は懐疑主義者ではないだろう。

 

それゆえに、倫理的懐疑主義は倫理哲学の実りにはなりえず、その結果、すべての哲学にとって、倫理的懐疑主義は最初から、落胆した哲学志望者がその探求をあきらめ、もともとの目標を断念するようにおどかす、あまりものの代替案としかみなせないでしょう。

【倫理について懐疑的な見解を持つものは、そもそも倫理哲学者ではないという話】

 

その目標とは、道徳関係の説明を求めるとういことであり、これらの中には、倫理的関係性を安定したシステムへと作成することや、倫理的観点から真正なる宇宙と人が呼ぶかもしれない世界を作ることも含まれる。

【正しい倫理に関する理論や、正しい世界とは何かについての見解を述べるということ】

 

世界が、統一の形式の減少に抵抗する限り、倫理的な提案が不安定に見える限り、哲学者はその理想を達成できない。研究の題目は、世界に存在することを哲学者が発見した理想である。彼を導く目的は彼自身の理想であり、その理想をちゃんとした形に変えることだ。

 

よって、この理想は、真正なる存在は絶対に見過ごされてはならないという倫理哲学の世界では、あるひとつの要素となる。

これは、倫理哲学者自身が必然的にその問題に対して可能な、肯定的な貢献だ。

しかし、これのみが肯定的な貢献である。

倫理哲学者の探求はその最初から、他の理想を持つべきではない。

 

もし倫理哲学者が特に、なんらかの種類の善の勝利に興味があるならば、彼はその程度までは、裁判官のような調査官であることをやめるだろう、そしてこの件に関しては、ある限定された要素の代弁者になるだろう。

【あらかじめ何らかの善に価値があるとすると、結論ありきの議論を展開するために、その善に関しては不公平な態度をとることになる(いつもその善に味方する)ということだと思う】

 

なんにせよこれらの言説にくっついているかもしれない不明瞭さというものは、我々が具体的な適用をしていき、観察するにつれ、なくなっていくだろう。

 

 

 

 倫理学には、別々に考えなくてはならない問題が三つある。

 これらをそれぞれ、「心理学的問題」、「形而上学的問題」、「詭弁家的問題」と呼ぼう。

 心理学的問題は、我々の道徳概念と判断の歴史的「起源」を問う。

 形而上学的問題は、善、悪、義務などの言葉のまさにその「意味」が何であるかを問う。

 詭弁家的問題は、人間が認識する、さまざまな善と悪の「基準」が何であるかを問う、それにより、哲学者は人間の義務についての真なる秩序を構築するかもしれない。



I

 

 

 心理学的問題は、ほとんどの論争者にとって、唯一の問題である。

 もし、一般的な神学博士が、何が正しくて何が間違っているかを、良心と呼ばれるまったく固有の能力が我々に教えてくれることになっているはずなのだということを、自分の満足いくように証明できたとしたら、あるいは、通俗科学の熱狂的信者が、「先天主義」は打破された迷信であり、我々の道徳判断は徐々に環境の影響によって決定されてくると明白に示したら、これらおのおのの人々は、倫理とは確定されたもので、もはやいうべきことは何もないと思うだろう。

なじみ深いふたつの名前、直感論者と進化論者、今や倫理的問題における全てのありうる違いに言外に意味するのに共通に使われるこの二つの名前は、心理学的質問のみを本当は参照する。

この質問に関する議論は、特定の細かい点に大きく依存するため、この論文の限界により、この点から話をはじめることは不可能である。

 

それゆえ、私は自分の教条的な信念を述べるにとどめるが、それはこのようなものだ――ベンサムや、ミルや、ベインの賛同者たちは、人間の理想をあまりにもたくさん取り上げて、その理想がいかに単純な身体的快と痛みからの逃避という行為の連合から生まれてくるに違いないというこをを示してきた。

【ペインは、文脈からおそらく連合心理学の人物だと思われる】

 

多数あるそれぞれの快感と連合が、疑いようもなく我々の心の中の善というような重要なことがらを作り出すのだが、心の中の善があいまいになればなるほど、善の起源はどんどん神秘的なものになっていくようだ。

しかし、すべての気持ちと好みをこの単純な方法で説明することは確実に不可能だ。

ひっきりなしに人間の本性について心理学が研究すればするほど、二次的な感情の痕跡を人間の本性の中にますます明らかに見つけるだけになり、純粋な経験主義が受け入れることができる共存と連続の単なる連合とはかなり違ったやり方で、環境の印象それぞれと私たちの衝動が関連付けられている。

酩酊への愛をとりあげてみよう。はじらいや、高所恐怖症、船酔いになりやすい傾向、血を見て失神すること、音楽の音に対する感受性、喜劇の感情、詩や数学、形而上学への情熱を取り上げてみよう。これらの事柄のどれも、それぞれの連合あるいは効用によって完全に説明することはできない。

そのように説明されるあれこれに、連合や効用は疑いなく付き物だが、何の役にも立たないことなんて我々の中には見つからないから、だいたいは未来の効用の予言になる。

 

しかし、連合や効用の起源は我々の大脳構造――その構造は、その元からの特徴がこれらの不協和音と調和の認識になんの関係もなく出てくるのだが――に対して偶発的で厄介な問題の中に存在する。

【ちょっと何を言っているかわからない】

 

ああ、我々の多くの道徳認識は、この二次的で脳に由来する種類のものからも確かにできている。道徳認識は、感じられた感覚に直接とりくもうとし、しばしば習慣という先入観と効用という仮定をしばしば無視する。

 

粗悪でありふれた道徳格言の枠を超えるとき(たとえばモーセ十戒や、貧しきリチャードの暦)、あなたは、常識的な目には風変りで過剰に緊張したように見える形式と立場の中に落ち込む。

 

何人かの人が持つ抽象的正義の感覚は、博物学の視点からすれば、音楽への情熱か他所の魂を破壊する高次の哲学的一貫性と同じくらい異様な変異種である。

 

ある霊的な態度に対する内的な遡源の感覚、つまり平安、平静、簡素さ、誠実さ、あるいは他者に対する本質的な品性のなさ、つまり愚痴っぽさ、不安、わがままなうるささ、など、これらはほぼ説明できない――純粋にそれ自身のためのより理想的な態度を好むという先天的な好みを除いては。

【人類には先天的に向上心があると言いたいのだと思う】

 

高貴な物事は、より「良い」味がする、そしてこれが我々に言いうるすべてだ。

 

継起するものごとに対する「経験」は、我々に、何が奇妙なことなのかを確かに教えてくれるかもしれないが、何が意地悪で下品かということについては何の関係があるのか?

【一般的な時間の流れの中で普通にする経験から常識というものは作られるし、それによって何が普通でそうではないかはわかるだろうが、何が意地悪で下品かということを説明することはできないだろうと言いたいのだと思う】

 

もしある男が、妻の愛人を撃ったとして、我々は 夫婦が仲直りして、ふたたび一緒に仲良く暮らしていると聞いたときに我々がとても気持ち悪くなるのは、いったいどんな言葉にできない嫌悪感によるのだろうか?

 

あるいは、フーリエ、ベラミー、モリスたちのユートピアがすべてに勝る世界において、すべての人が永遠に幸福になっており、ある失われた魂が、物事の遠いはじっこで、孤独な拷問の人生を歩むということのみを条件としてそれが成立するという仮定を提案されたら、特別で独立した種類の感情以外に、何が我々を以下のように感じさせるのだろう、そのように提案された幸福を自分たちが手にしようという衝動があろうとも、そのような取引の結果と知りながら受け取ることはおぞましいことであると感じさせるのは。

【この箇所がオメラスのインスピレーションとなった箇所】

 

もうひとつ言うと、いったい何が、因果応報を求める正義のまったき民族的伝統に対する最近のこれら、繊細な脳に由来する抗議的不協和音感情の原因なのだろうか?

【ここの訳は自信がない】

 

私は、トルストイの無抵抗の考えに言及する、ベラミーの後悔の忘却の代理(ハイデンハインのプロセスという小説の中にある)について言及する、ギュイヨーの刑罰の理想に対する急進的な避難について言及する。社交形式のマニュアルに印字されている「婚約期間に観察されるエチケット」の教訓を、若い恋人たちの間にうまれうる感情のきめこまやかさが乗り越えるのと同様に、「連合法則」によって明らかにされるものをこれらすべての道徳的感性の微妙さは乗り越える。

 

いや! 純粋に内的な力がここでは確かに働いている。

理想が高くなるだけいっそう、理想はより透徹し、革命的になる。

その理想は過去の経験の装いというよりは、未来の体験の可能的な原因としてあらわれてきて、環境と教訓が私たちに服従しなければならないと教えてきた要素だ。

【おそらくこの文は意味をよく取れていない】

 

これは、私が心理学的質問について今や言えることのすべてだ。

最新の研究の最後の章で、一般的な方法において、私は、関係性についての考えの中にある存在は経験の単なる反復だけではないということを証明しようとしてきた。私たちの理想は確かにたくさんの起源をもっている。この理想は、重要な肉体的な得たい喜びと、避けたい苦痛とですべて説明できるわけではない。そして、この心理学的事実をしげしげと観察すると、直感学派を我々は称賛するしかない。この称賛を、この学派の人物にまで拡大しなければならないかどうかは、次なる質問をみていく上であきらかになるだろう。

 順番からして、次の質問は、形而上学的質問であり、私たちは義務、善、悪といった言葉で何を意味するのかという質問である。

功利主義者の考えだけでは、人間の精神を理解することはできないということを言いたいのだと思う】