ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

「ジャスミンの残り香」感想

 いい本だ、名著だ、と思った。
 チュニジアから始まったジャスミン革命とその余波を、中東情勢を説明しつつ語った本。
 すごく読みやすいし、わかりやすい。そして何より面白い。
 エジプトでは、ムバーラク政権から同胞団へ、そして軍のクーデターが起こりスィースィーが最高権力者になったよー、という基本的な流れを抑えつつ、たとえば、同胞団は経済政策
的には新自由主義の信奉者が多い(35ページ)など、知らなかったことがいっぱい書いてある。同胞団は蛇のように狡猾なイメージというのも意外だった。もっとまじめかと思ったが
、したたかなタイプの団体らしい。
 面白かったのは、エジプトやトルコに新左翼がいるとか(たとえば28-29ページ)、ムスリム同胞団支持だけどジーンズもはくしシーシャ(水タバコ)も吸う青年の話とか(40
ページ)、酒好きの不良ムスリムの話とか(109ページ)そういう現実に生きている人の話がたくさん書いてあることだ。イスラム教徒については、コーランにこう書いてあるから、
こう生きているはず、みたいな話が先行しがちで、実際にどうやって生きているのかがあまり見えてこないことが多い。
 昔、イスラム教徒の人に聞いたことがあるが、コーランを全部読んだことがある人は少ないらしい。確かに、古事記を全部読んだ人や、南伝大蔵経を全部読んだ人はあまりいないだろ
う。別の本だが、聖書を最初から最後まで読んだことがあるアメリカ人もあまりいないという。
 だから、これは本当にぼくが読みたかった話で、だって、ネットとか新聞とかテレビでは、そういう生きた人間の話は出てこない。また、同胞団が政権にあった当時、エジプトのリベ
ラルの話はあまり聞かなかったし今も聞いたことがあまりないし、権力を握っていた同胞団ではなく、実際にエジプトの多数派の人はどう考えているのかという話は聞かなかった。
 エジプトの多数派は、同胞団は蛇のように狡猾で信用できないところがあるとしながらも、ムバーラク政権崩壊後は、それなりに支持していたらしい。しかし、ジハード(武装闘争)
主義者との結託や、自分たちの身内に甘い汁を吸わせ、権力をにぎる政策(公立学校の校長を同胞団系にすげかえる)、などの行いが、どんどん共感を失わせた。
 結果、クーデターが起こり、同胞団は政権を追われるわけだが、筆者は、これを、非寛容(同胞団)と寛容(市民)の対立とみる。
 エジプト人イスラム教徒は一日五回の礼拝を欠かさない人も珍しくないが、同時にイスラームの教えに抵触する偶像をまつったピラミッドを誇り、イスラーム主義者が忌み嫌うベリー
ダンスを許容し、マイノリティのコプト教徒との共存に気を配っている、と筆者は言う。敬虔であることと、政治イスラームイスラーム主義)の活動家になることは次元が違う話なの
だ、というのだ。また、敬虔な信徒の大半は、コプト教徒への攻撃に本心から起こっていたし、筆者が取材したある人物は、同胞団は小さな違いを見つけて他人を背教者(カーフィル)
扱いする、と批判する。そこが、多数派市民と、同胞団との違いなのだ、と。
 ぼくは、この件においては、同胞団を支持しない。まったく支持できない。

 ムハンマド・ハーシムという、非暴力、非宗教、反軍政、という人がいるのも初めて知った。そうか、やっぱりエジプトにも非宗教の人はいるんだ、と思った。
 また、アル・イシュティラキユーン・アル・サウリユーン(革命的社会主義者たち)というグループがあったり(彼らは新左翼)、ブラックブロック(こちらはアナキスト)があった
りするのも初めて知った。ぼくはアナキストには親近感を持っているのだけど、ブラックブロックはヨーロッパやアメリカでは聞いたことがあったが、まさかエジプトにもいたとは。筆
者は、エジプトに新左翼がいたことに驚いていたが……。
 ちなみに、前述のハーシムは、国を破壊するという点では新左翼も同胞団も同じとして、嫌悪感をあらわにしたと書いてあるが、そのあとの筆者の、市民運動と革命家はエジプトでも
そりがあわないらしい、というセリフは思わず笑いそうになった。確かにそうかも、と思ってしまったので。

 シリアの話で、情報操作が政府系にも反政府系にも、どちらのメディアにも影を落としていて、何を信じていいのかわからない状態になっている、というのは、日本と少し似ていると
思った。この本は、日本の情勢にも射程を広げていて、脱原発デモが権力におとなしくしたがっているというところに疑問を感じていたり、社会に責任のない人はいないわけだから、原
発を温存している自分たちへの反省が必要という視点(「自分や家族に害が及ばないにしても、人柱を不可欠とする原発という存在自体が倫理的に許されない」、一部の犠牲は電力の安
定供給のためにはしかたないという考えに対抗するよりどころは、ないがしろにされてきた少数派の無念)には共感できた。
 多数派を取ることが目標になるあまり、警察におとなしくしたがって(つまり権力に屈して)しまうなら、原発に反対する根拠がゆがみかねないのでは、という指摘は、もっともだと
思う。
 それからもうひとつ。
 ぼくは、この本ではじめて知ったのだが、警察庁の発表資料によれば、2012年の脱原発デモが波及していったこの年の五月と六月は、前年比で約四分の一も減っていたそうだ。
 筆者の言葉を引用させてほしい。
「でもと自殺者の相関関係の有無を証明するすべなどないが、私なりの解釈ではこの時期の脱原発デモの最大の成果は原発の再稼働を阻止できたか否かよりも、この社会で息を詰まらせ
ている人びとの絶望感を多少なりとも和らげたことにあったように思う。」(96-97ページ)

 アルジェリアのプラント襲撃事件にも少し触れていた。その中で、過激化して民衆に牙を向けていく運動についても書かれていて、印象に残った。
 イスラーム主義だけでなく、クメール・ルージュセンデロ・ルミノソ、日本の新左翼の大学キャンパスでの恐怖支配も同様だし、孤立と自壊も一緒だと言った。

 202ページからは、かなりの読みどころだと思う。
 革命青年達とイスラーム主義者との似ている点と違う点。決定的なのは、後者が権力を取って世界を変えようというのにたいし、前者が、革命権力でさえ腐敗すると思っているところ
だ。ぼくも、筆者と同じく、革命青年たちと同じ気持ちである。
 筆者が、長年の知り合いのサラフィー・ジハード主義者から、改宗を受けたときに断った回答が、すごくよい(ちなみに筆者はこの人になぜ改宗をすすめないのか聞いたそうだが、ご
りごりの無神論者だから回収しても無駄だと言われたらしい。そういうこともあるんだ、人間的だなあと思った)。
 ちょっと長いので、要約して引用する。

イスラームは神という絶対的な他への完全な服従によって我執からの解放をめざし、そのための環境として初期のイスラム共同体を再現しようとするが、それは平凡な人間の手で作ら
れる。そのために信徒の集団が必要となるが、それは他(神)の啓示を解釈する権威や、服従しない異物の排除、権威ある人間からの承認願望を生み出し、理想と真逆の性格を帯びる。
その先に真の解放はないのではないか。イスラーム国で発生している粛清はこの限界を示していると思うし、個人の殉教願望も組織により制約されている。それに対し、タハリール広場
に集まった革命青年たちはある意味もっとドライで、国家も、悠久の歴史も、神を信奉する共同体も信じていなかったし、絶対的な真理の後ろだてをもって他人に講釈を垂れるような我
執をともなう人間くささはなく、どこまでも不服従を貫く生き方を大切にしているようだった」

 最終章が本当によい。
 革命を後悔しているか?という質問への、圧倒的大多数の「ノー」の声。
 変わるエジプト。エジプトのIBMが変化しているということ。
 憔悴しているとはいえ、大統領を二人も獄につないだ民衆。
 ぜひ、読んでほしい。