ひきこもり生存戦略

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そのやり方じゃない

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2014-01-09-this-is-not-the-way.html

上記URLの翻訳

 

 

そのやり方じゃない

2014年1月9日投稿

 

自分自身について知ることは、その人の自己についての知識を持つことである。

 

この説明は少し、それ自身でそれ自身を説明しているが、この「自分自身」についてこじ開けて考えてみることは重要だと思う。自己とは何か? 段階的に接近してみよう。ある人にとっての自己とは、その人が何者かということである。その人の自己とはその人の本質的な性質である。その人の自己とは、おそらく、周りの環境の特殊性を除いたその人の潜在能力と価値観の性質により成り立つ。

 

ならば、自己知識とは、「自己」についての知識である。自分に何ができて何ができないかについての知識、自分がなにをしたくて何をしたくないかについての知識、何をするだろうか何をしないだろうかについての知識。[1]

 

これは有用な未来予見の道具だ。わたしはこの文脈において価値(下記も参照)について議論することを拒否するが、自己知識は有用性を持つし、自己がうまく成し遂げることができることが何かを判断することを助けるし、効率性を高め、適用できる場所で分業を強化し、おそらく幸福か何かを推進する、望ましい目標のように見えるなら。一般的に、自己知識は人に、もしより多く達成することをしないなら、少なくとも、より少なく達成することを失敗させるように見える。

 

まさに少なくとも、おのれの欠点に自覚的である人は、そちらのほうにはまりこむ代わりに、よけたり回避したりする方法を見つけるようになるはずだ。

 

わたしは、自分の原則的弱点を、意味の否定として捉えているようだ。自分なりの観点からすると、これはかなり複雑な問題だ――しかし、自分が偏った見方をしている可能性はある、もちろん、原則的な属性と自己奉仕する偏った見方の両方はここで有効化されているとして――なぜならばわたしはおそらくわずかに相反する信念を維持しているからだ。意味があるべきであるが、同時に意味のある何物も認識できない、自分には意味が存在する原因を何も認識しないからだ。物事のこの状態は、不条理の一種として特徴づけられるかもしれない。前に書いたように、わたしは存在が観測されるときまたその時に限り、存在が存在を生むなら存在はありえるために、そこに存在の意味はないと信じている。

 

意味を認識することがないということは意味と目的と方向性とやる気がないという感覚をもたらすけれども、自分がやることのほとんどを、わたしはただ自分がやるだけのこととして考えているし、変化が特に意味のあることだとも思えないなら自分が何かをして変化させることもない。

 

このような意味欠乏症に対してなんとかしようとしていると言いたいが、このことに考えることがそんなに努力のいることなのかどうか、望ましいことなのかどうか判別するのはちょっと難しいと思ってもいる。「何も意味がない」主義は確かにやる気を大幅にくじくし、慢性的な先延ばし癖の主な原因であろう一方で、実際に意味を見つけようとすることは、実際に意味の源泉がないことをあらためてわかったりする結果になる傾向がり、やる気を出す助けにならない。

 

 もし、わたしが、人間によって作られた物語の中の登場人物で、私の長所がだいたい「心配ごとから自由で、本当にやらなければならないことに集中できる」的な何かであるなら、しかしわたしは自分がそうだとは思わないのだけどそうであるとして、わたしの物語を語る人は、違う文学伝統に寄与することになりそうだ、わたしはそんなにやらなくてはならないと思えることに出会ったことがない。

 

かわりに、わたしの長所は期待していることに気づくことだと主張したい。わたしの主張は検証しにくいが、確かに確証バイアスの影響下にあるだろう。他人とくらべて、わたしは自分がたまたましたいこと、たまたまするだろうこと、そしてその両者がどんな風に曲がった方向にいくかの、よりはっきりした自覚があると思うし――ある程度、平均以上の自己知識があると主張したいと思う。

 

思うのだが、わたしがこの種の自己知識を持っているのは、自分がプログラミングをすこししたことがあり、数学の照明をいくぶん書いたことがあって、自分には下手なことがたくさんある一方で、これらは一般的にだいたい上手にできた。他人は、出来事が予見できず予測不可能なときに混乱するのをわたしは知っているが、これは私が経験を思い出す問題ではなくて、もしわたしが知っているとするなら、それを修正してきた、もしかしたら過剰に修正してきたからだ。

 

しかし、短所と長所について主張することさえ、それらがあまり自分を描写しているとは感じない。広く、長所と短所はしばしば自分が披露する特徴であり、全体的におそらく自分を作るのに大事な特徴だろうが、それによってわたしの真の姿をつかむことはできない。おそらくこのことについて考えると、議論すると、自分の短所と長所は、自分として認められる自分の概念を必要とするところが難しいが、全体的に心の中にもたらすことができる。つまり、自分についてすべてを知ることさえ十分ではなく、任意の外部環境にどう反応するかを予測することができることさえ十分ではない。このようなモデルが完全な自己知識のタイプであろう一方で、それは役に立つ自己概念とはいえない、なぜなら、それはわたしたちが合理化するにはあまりにも複雑すぎるので、わたしたちは自分の特徴を考えるときにこの自己概念という仮定を単純化しなくてはならないからだ。

 

しかしながら、自己概念を単純化することは難しい、なぜならば、自分がどちらの属性にあるかによって見る側と見られる側には非対称性があるからだ。見られる側としては、自分の行動を固有の要素というよりも状況的要因によるものとしがちである。そのため、自分を一般化することをあまりわたしたちはしないが、自分の短所と長所をはっきりさせることは一般化をともなうため、なぜならわたしたちの行動の特別に特殊な状況的側面はあまりのも状況依存で特殊なためにわたしたちについておおざっぱにしか全体的に意味のある情報を提供できないので――そしておおざっぱなまとまりは単純化を必要とするし、状況に応じた善悪の判断を捨てないといけなくなるので、わたしたちはしたいとは思わないのだ。

 

わたしは、少なくとも、自分について一般化をしたいとは思わない。ふたつの特徴をわたしはもつわけではなくて、実際に、決定的であるかもしれないしないかもしれない相互作用の複雑なシステムなのだ。自分自身であるすべてを失いことなしに、いくつかの概略をどのように書きつけるべきかわたしはわからないでいる。単純なことは美しいが、悪魔は細部に宿り、ファウストの契約[2]とおなじくらい多い提案を美しさはしてくれない。

 

[1] “mightn’t”という短縮形はここで使われているほかの二つの短縮形よりも全然使われることがないだけだろうか、それともそれ自身あまり使われない“might not”が違う効果を持つ? “I might not be able to”はちゃんとよくある表現に見えるが、自分は”I mightn’t be able to”という表現を今まで聞いたことがない。

[2] ……暗喩を混ぜるのは自分の長所のひとつではない、ということも記録しておこう。