ひきこもり生存戦略

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「チェスタトンのフェンス」の出典であるエッセイ「家庭生活から離れて」の翻訳

チェスタトンのフェンス」、インターネットで遭遇したことのある言葉だが、「なぜそのフェンスが建てられたかわかるまでは、そのフェンスを撤去するべきではない」の出典となるエッセイを翻訳してみました。

意訳的なところも多いと思います。記憶が確かなら、どこかの書籍の中で翻訳はすでにあったような気がしますが、それは参照していません。翻訳の正しさを保証することはできません。趣味で訳しました。出典さえ明記してもらえれば無断転載可能です。

個人的な意見ですが、現代日本でも同じような問題意識はあるように感じます。「無限のリソースなど本当はないのに、無限のリソースがあるかのような問題解決の方法が提案される」というような箇所は、約百年前も同じようなことを人間はしていたのか、と驚きました。

以下、翻訳です。

 

 

 

「家庭生活から離れて」

何かを修正しようということになると、奇形化させる場合は別として、ひとつの単純で簡単な原則、パラドックスとよべるかもしれない原則が存在する。この原則は法律や組織において存在する。単純化のために、道を横切るフェンスあるいは門が立てられていると考えてほしい。より現代に近い修正者は陽気にそこに行き、こういうだろう「役に立たないようにみえるね。どかしちゃおう」。

それに対して、もっと知的なタイプの修正者は、こう答えるのがよいだろう。「もし役に立たないと思うのであれば、どかすことを許すわけにはいかない。離れて考えてみたまえ。そして、もし戻ってきてどう役に立つか僕に教えてくれたら、壊してもいいというかもしれないね」。

このパラドックスは最も基本的な常識に基づいている。この門なり柵なりは、そこに生えてきたわけではない。夢遊病者によって眠っている間に準備されたわけではない。通りに何らかの理由で解き放たれた脱走狂人がそこに建てたなんて、とても考えられそうにない。ある人が、だれかの役にたつだろうと思えるだけのなんらかの理由をもっていたのだ。

そして、その理由が何かわかるまで、その理由が道理にかなったものか本当に判断することはできない。

非常にありそうなことだが、もしわれわれ人間の手によって作られた何かが完全に無意味で謎めいたものに見えるとするなら、私たちはこの問題のある全体的な特徴を見過ごすかもしれない。

何人かの修正者は、自分たちの先祖がバカであると仮定する難しさを乗り越えてしまうが、もしそうなら、私たちに言えることは、そのような愚かさは遺伝的な病気に見えますねということだけであろう。

しかし、真実は、歴史的な制度だと本当にわかるまで、社会制度を破壊する筋合いは誰にもない、ということである。もしどのようにできたか、それがどのような目的に奉仕するのかがわかれば、それらがよくない目的であるとか、あるいはある時点で悪い目的になってしまったのだということや、もはや奉仕不可能な目的なのだということを本当に言うことができるかもしれない。

しかし、もし単に物事を、それがどのようにしてか通り道に生えてきた無意味な奇形だとみなすなら、伝統主義者ではなくそうみなす人が、幻想にまどわされている。

私たちは、こういう人物は、悪夢の中で物事を見ているということさえいえるかもしれない。

この原則は、幾千もの物事に適用される、本当の制度と同様つまらないものにも適用されるし、確信と同様に協定にも適用される。

まさにこれはジャンヌダルクのような人物であり、彼女は、女性はスカートをはくと知っていたが、だれよりもそれをはかないことを正当化できる人物だったし、まさにこれはアッシジのフランチェスコのような人物であり、祭りや炉端に共感をもちながら、公道で物乞いをすることにもっともふさわしい人物だった。そして、現代社会の一般的な解放において、ケンブリッジ公爵夫人がなぜ馬飛びをとぶべきではないのかわからないという時、カトリック枢機卿会会長が、なぜ自分の好きなことをしてはいけないのか聖典に認められた明白な理由がわからないという時、私たちはこれらの人たちに、忍耐強い博愛をもって、こう言うかもしれない。

「それならば、あなたが犯そうとしているのがどんな原則や先入観か理解するまでは、あなたがしようと思っている企てを延期しましょう。それから馬飛びをしたり、自分の好きなことをしたりしてください、そして神があなたとともにあらんことを」

 

このように攻撃されている伝統の中で、知性的というよりは、もっとも反知性的に攻撃されているのは、家族や家庭と呼ばれる最も基礎的な人間制度である。これは典型的なことだが、人が攻撃するのは、それを見通すことができるからではなく、全然見ることができないからなのである。ひとは盲目的にそれを攻撃するが、完全にいきあたりばったりで出来心による様子で、攻撃者の多くはなぜそれが出来上がったのかを立ち止まって尋ねることさえなく、破壊しようとする。

彼らのひとにぎりのものたちだけが、この目的をさまざまな言葉で素直に認めるだろうというのは真実だ。

このことはいかに彼らがとても盲目で不注意であるかを示すにすぎない。

しかし、人々は徐々に家族生活から離れて、徐々に切り離されている流れの中にある。

しばしば単に偶発的で、しっかりした理論をまったく欠いているのだが。

しかし、それが偶発的であろうと、無政府主義的でないということにはまったくならない。

無政府主義者であるというよりは、むしろ無政府主義的である。

それは、個人的なイライラの上に広く構築されているように見える。このイライラは個人間でも違いがある。

私たちは、いろいろな場合において、ある特定の気質を持つものは、ある特定の環境によって、苦しめられるというにとどめよう。

しかし、だれも、どのように悪が生まれるかを説明することはなく、悪が本当に自由になるのを放置しておくだけだ。

わたしたちは、そこここの家庭で、それが本当か神のみぞ知る無意味なたわごとをおばあちゃんが話したのを聞いた。あるいは、ジョージおじさんがバカだということを本人に伝えることなく、彼と親しく知的な関係を築くことは難しいが、これはまさに現実だ。

しかし、だれも真剣に、救済策を考えていないどころか、問題自体も考えていない。あるいは、現に存在する個人主義的な崩壊が救済策かどうかも考えていない。

これらの問題の多くは、イプセンの影響の共に始まった。非常に強力な劇作家であり、極めて脆弱な哲学者である。

「人形の家」のノラは、論理的ではない人物を意図したと私は思う。

しかし、確かに彼女の最も論理的ではない行動は、彼女の結末である。

ノラは自分が子供の面倒を見るようなタイプではまだないと不平を言って、続けて、そうでなければ、もっと近くで子供を知ることができるかもしれないのに。子供からできるだけ距離を取ろうとする。

 

ひとつの単純なテストだが、科学的思考と社会規範を無視するタイプが存在する。

例外という混乱以外は何もない状態にいまや私たちを取り残す無視だ。

何百回も何千回も読んできたが、わたしたちの時代のすべての小説と新聞の中では、若い人が自由を求めるのは正しく、年寄が指導するのが正しくない、すべての魂は自由でなくてはならないし、すべての市民は平等でなくてはならず、権威はおろかで、権威への服従はよくないことだとする文言がある。

この瞬間、この問題について直接議論するつもりはない。

しかし、論理的な意味で、わたしをびっくりさせるのは、これら無数の小説家や新聞記者のだれ一人として、次なるもっとも明らかな疑問をたずねようとさえしていないことだ。

だれ一人として彼らは逆の義務がどうなるのかについて尋ねようともしていないように見える。

もし、はじめから子供が自由で親を無視するなら、なぜはじめから親が自由で子供を無視することにならないのか?

もし父ジョーンズと息子ジョーンズが単なる二人の自由で平等な市民であるなら、なぜ一方の市民がもう一方を、人生の最初の十五年のために、食い物にしてもいいのか?

なぜ、年上のジョーンズ氏の方が、完全になんの義務もないもう一方に対して、自分のポケットからお金を出してごはんを食べさせ、服を用意して、守ってやることを期待されるべきなのか?

もし、賢い若者が、自分の祖母(だんだん退屈な人になっていく)に対して寛容であれと言われることが不可能なら、なぜ祖母や母は、人生においてその子が決して賢くないときに、その子に寛容であるべきだったとされるのか?

その子ができる会話が、かたことで、あまり理解できないようなとき、なぜ彼らは苦労してその子の面倒を見るのか?

特に未熟な時期に、なぜ父ジョーンズは、子ジョーンズのように不快な誰かに、飲み物や無料の食べ物を与えることを我慢するのか?

なぜその赤ちゃんを窓から捨てるか、あるいはいずれにせよ、ドアからその少年を蹴りださないのか?

明らかなこととして、私たちは本当の関係を持っているのだが、その関係は平等かもしれないが、同質ではない。

 

私は知っているが、ある社会改良家は、親の機能を削除する教育と呼ばれる抽象的なものや国についてのぼんやりとした概念によって、この困難を避けようとする。

しかし、これは、しっかりした科学的人間のたくさんの概念とおなじように、単なる月の光という自然によって引き起こされた野生の幻想である。これは、奇妙な新しい迷信の上に成り立っていて、その迷信とは、組織には無限のリソースが存在するという観念である。

これはまるで公務員が草のように生え、兎のように繁殖するようなものだ。

給料を払われる人間が無限に供給され、その給料も無限に供給されることになっていて、子供のケアも含めて、すべての人間が本来自分たちのためにすることを、彼らは引き受けることになっている。

しかし、お互いの幼児服をとって生きることはできない。親子がお互いの教師になることはできない。だれが先生の先生になりうるか?

機械によって人間は教育することはできない。ロボットのレンガ職人や清掃人はでてくるかもしれないが、ロボットの校長や住み込みの女性家庭教師(ガヴァネス)はでてこないだろう。この理論の実際的な結果は、ひとりの普通の人間が普通の数の人間を見る代わりに、ひとりのいじめられた人間が百人もの子供をみなくてならないということにある。通常、普通の人間は自然の欲求に従うが、これは何のコストもかからないし、給与も要求しない。この欲求は、若い人に対する自然な愛情の力であり、これは動物の間にさえ存在する。

もしこの自然の欲求を断絶して、有料の官僚制に置き換えるとしたら、自分の水車の車を回すのに、人にお金を払う愚か者のようであるだろう、風や水のように無料のものを使うのを拒否しているのだから。水から守るために傘をさしつつ、じょうろで自分の庭に水を丁寧にやろうとする狂人のようだ。

 

今や必要なのは、わかりきったことを物語ることだ。そうすることによってのみ、私たちは家族の存在「意義」の兆候を認識し始めることができるし、それを求めて、私は、このエッセイをはじめたのだ。これらは私たちの父祖にはすべてなじみ深いものだったし、彼らは親族の中台を信じていたし、理性の結合も信じていた。今日、我々の理性は、ほとんどその結合を失っている、私たちの家族はその構成員を大半失っている。しかし、なんにせよ、このような調査をはじめるのに正しい目標はこれである。ディックが不満をもつとか、スーザンが彼女自身に腹をたてるとかの、ある個人的ごたごたの結末や結果ではない。

その利点がわからず、もしディックあるいはスーザンが家族を破壊しようとしたら、わたしは、はじめに言ったようなことを言うだろう。もしそれが役に立つとわからないなら、それをそのままにしておくほうがいい。その利点がわからないうちは、それを破壊することを考えることはやめた方がいい。

しかし、さらに他の利点もあり、もしお金によってあがなわれなくても、社会的に必要な仕事は愛によってあがなわれるという明らかな事実がある。そして(ほとんど暗示しかかっているかもしれないが)、おそらくお金であがなわれることが絶対になくとも愛によってあがなわれることは多い。

この事態の単純な側面について、一般的な状況を記録するのはたやすい。

社会に存在する一般的なシステム、これはわれわれ自身の時代そして工業文化において非常に気持ちの悪い虐待と痛々しい問題の支配下にあるのだが、それにもかかわらず、普通のものとなってしまっている。

コモンウェルスはたくさんの小さな王国から成り立っている、この王国の中で男性と女性は王と王女になり、この中で彼らは理性的に権威を行使し、コモンウェルスの常識に従い、その子供たちがその庇護下から成長し、似たような王国を打ち立て、似たような権威を行使する、これはこういう考え方だ。

これは人間の社会的な構築物であり、あらゆる記録より古く、あらゆる宗教より普遍的であり、そしてこれを変えようとするすべての試みは、単なる空論でありくだらない話である。

 

しかし、この小集団の他の利点は、今や、単に現実化していないからといって無視されるべきものではない。

ここには、また、この時代の文学とジャーナリズムに蔓延している極端な幻想が存在する。

あらゆる実際的な目的のために、何千回と明らかな真実として言及されるものは、ほとんど明らかな誤りである、と私たちが言えるくらいに、これらの幻想はいまや存在している。

あるひとつの言明をここで特別に引用しよう。

家庭生活に反対するため、そしてホテルやクラブや大学や地域社会の集まりなどなどに賛成するために、疑いようもなく何かが言われることになり、これはつまり、社会生活がわれらの時代の偉大な経済機構のために組織されているということなのだ。

しかし、真に驚くべきことは、家庭からの逃避が、しばしば、大いなる自由への逃走であるというように示唆されるということだ。

この変化は実際、自由というものに親和的であるかのように、提案される。

 

ものを考えることができる人ならだれでも、もちろん、正反対の結論になる。

人間社会の家庭分断は、完全ではなく、人間は人間である。

この家庭の分断は、完全なる自由に到達はしない。この概念はいくぶん実行が難しく、定義しにくすらある。

しかし、しかし、これは単に計算能力の問題である。

これらのシステムが合法、経済的、あるいは単に社会的なものであるかどうかであろうと、たくさんの人間が何かに対して最高の支配権を得ることができ、それを自分好みに変えることができ、外の社会を支配する広大な機構よりもそれをなしえる。

もしわれわれが、ただ親のことだけを考えるとしても、警察や政治家や大会社の社長たちやホテルの経営者よりも親の数が多いのは当たり前のことだろう。

今、私が示すように、この議論は、親に対して直接的に示したように、直接的ではない形で、子供にも適用される。

しかし、ここでの主な論点は、家庭の「外」の世界は、今や確固とした規律とルーティーンのもとにあり、家の中だけが、その人自身でいられることと自由のために残された場所になっているということだ。

玄関を出ると誰もが、行列の中に巻き込まれて、同じ道を歩いて、はなはだしいくらい同じ服を着る羽目になる。

ビジネス、特に大きなビジネス、はいまや軍隊のように組織されている。

これは、何人かが言うように、流血のない柔らかな軍事主義の一種であり、私自身の言葉でいうなら、軍隊的な価値のない軍事主義だ。

しかし、とにかく、明らかなのは、自分の住まいや住居に戻った時に、お気に入りの絵を掛け、お気に入りの安いたばこの良い香りをまとっているときよりも、銀行ではたくさんの行員が、喫茶店ではたくさんのウェイトレスが、軍隊のように訓練されて、規則の管理下にあるということだ。

しかしこれは、経済の分野の場合はこんなにも明らかであるが、社会の分野の場合でも同様に真実なのだ。

実際、快楽の追求は単に流行の追求である。

流行の追求は単にしきたりの追求である。これは単に新しいしきたりを呼び起こすだけだ。

ジャズダンス、ジョイライド、大規模な楽しいパーティ、ホテルのエンターテイメントは、本当に独自の味を出すことはしないし、過去のどんな流行も本当に独自の味を出すことをしなかった。

もし、裕福な若いレディが、他の若いレディがしているすべてのことをしたいと思ったら、彼女はそれをとても楽しいと思うだろうが、それは単に若さとは楽しみであり、社会とは楽しみだからだ。

彼女のヴィクトリア朝時代の祖母がヴィクトリア朝を楽しんだのとまったく同じように、彼女は現代を楽しむだろう。

そして、かなり正しくもあるのだが、これはしきたりを受け入れるということであり、自由を受け入れるということではない。

あらゆる歴史の時代のすべての若い人々にとって、理性ある度合いの範囲まで一緒に集まって、熱心にお互いをまねしあうのは、完全に健康的なことだ。

しかし、ここにおいては、特別に新鮮なものや特別に自由なものは存在しない。自分の頭を剃って、化粧をして、短いスカートを履くような女の子は、世界が自分のために組織されているように思うだろうし、この世界の進行に歩を同じくし幸福に行進するだろう。

しかし、自分の髪をかかとまでのばしたり、野蛮なつまらない品物とひきずるような衣装でごてごて飾ったり、(この中で一番ひどいが)化粧をせず、もともとの状態のままにおいておくことが好きになってしまったような女の子は、これらのことを自分自身の敷地でやるように、しっかり注意されるだろう。

社会構造のせいだが、もしケンブリッジ公爵夫人が馬飛びを本当にしたいなら、最新のダンスをプロのように踊る50人ものベストカップルたちでいっぱいのバビロンホテルのバスルームで突然馬のように飛んではならない。

フィッツドラゴン城の古いオーク材でおおわれたホールで気心の知れた友人たちに認められながら馬飛びするほうがよほど簡単に思うだろう。

もし、枢機卿会会長が、自分にできることを何でもしようと思うなら、すでに慈善事業のために組織されたなんらかの社会的エンターテイメントのプラグラムを邪魔しようとするよりは、自分の管区のおちついた雰囲気の中でそれをする方が、よほど楽で品位をたもちつつできるだろう。

 

もし、日個人的なルーティーンが経済的、さらには社会的なことの中にも存在するなら、それは政治的、法的なものの中にも存在するし、いつも必ず存在することは言うまでもない。

たとえば、国の罰は、雑な一般化をせざるをえない。

家庭での罰のみが、個人的な事例に対応できるのは、審判者がその個人のことを何でも知っているからに過ぎない。

トミーが銀の指抜きを仕事用のバスケットからくすねたら、彼の母親は、彼がいたずらのためか、腹いせのためか、だれかに売るためか、だれかを困らせるためか、何のためにしたかによって、全然違う態度をとるだろう。

しかし、もしも、トムキンスが銀の指抜きを店からとったら、万引き犯に対して定めたルールに従って法の処罰を受けることになるし、また受けなくてはならない。

家庭的な規範のみが、なんらかの共感や特になんらかのユーモアを示すことができる。

家族がいつもこういうことができるとは言わないが、国家がこのようなことを絶対にしようとしてはいけない。

もし、私たちが親のみを独立した王子で子供がその単なる従属物だと考えるとしても、家族の相対的な自由は、これら従属物に対して、有利に働きうるし、実際にしばしば有利に働く。

しかし、子供が子供である限り、子供はいつだって、だれかの従属物であるだろう。

問題は、子供たちが、古い言い伝えの言うように、他のだれも感じないような感情、自然な愛情を感じる彼らの自然の王子さま(親)のところに、当然分配されるかどうかということなのだ。

わたしにとっては、この分配が、もっとも多くの人に、もっともたくさんの自由を与えるのは明らかなことのように思われる。

 

反家庭的な潮流に対するわたしの不満は、知的なものではない。

人々は、自分が何をしているかわかっていない。彼らは何をしていないかわかっていないからだ。

一番大きなものから小さなものまで、離婚からピクニックパーティまで、多数の現代的な兆候が存在する。

しかし、ひとつひとつは、ばらばらの逃避や回避だし、特にこの問題の要点に対する回避だ。

人々は、哲学的なやり方で、伝統的な社会秩序を望むかどうか、決断すべきである――もし何か特に代替案が望まれる状況なら。

ところが実際は、公的な問題を人々は、単に個人的問題をごちゃまぜにしたものや寄せ集めにしてものとして扱っている。

反家庭的な状況にあっても、家庭主義のテストをするなら、人々は家庭的すぎるだろう。

それぞれの家族は、自分たちの場合だけを考え、その結果は単に偏狭で否定的なものになる。

それぞれの場合は、存在しない規則に対する例外である。

家族、特に現代国家におけるそれは、思慮深い訂正と再生の必要があるし、現代国家のほとんどのものがそうである。

しかし、家族という邸宅は、保存されるべきか、破壊されるべきか、再建されるべきか――レンガ一つ一つバラバラになるべきではないだろう、なぜならだれもレンガが積まれた目的に対して、歴史的意味を見いだせていないのだから。

たとえば、復元のための建築家は、古代のホスピタリティ(暮らしやすさ)という徳のため、広く簡単に開くドアがつけられるように、家を再建するべきなのだ。

別の言葉でいえば、個人的な資産は祝祭の交換の余地を残すように、満足がいくほど適正に平等な形で分配されるべきだろう。

しかし、家のホスピタリティはいつだって、ホテルのホスピタリティとは違うものだろう。

そして、ホテルのホスピタリティよりも、家のホスピタリティの方が、いつだって、もっと個人的で、もっと独立していて、もっと興味深いものだろう。

若いブラウンと若いロビンソンが、創造主の計画に従い、出会って、付き合って、踊って、自分たちをバカにするのは、完璧に正しい。

しかし、ブラウンがロビンソンを楽しませることと、ロビンソンがブラウンを楽しませることの間には、いつだってなんらかの違いがあるだろう。

そして、この違いは、人の心の多様性や人間性、潜在能力にとって有利だろうし、別の言葉でいえば、生活、自由、そして幸福の追求にとって有利になるだろう。