ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

同じくらい重要だ

It matters just as much — The Cat in no Hat

上記エントリの冒頭訳。なんの推敲もしていないし、たぶん誤訳もある。勢いにまかせて書いた。自分でも意味のわからない箇所もある。また時間を見つけて直します。

Please please contact me if the aunther read this.  I really really love your writings.

 

 

 

この世界における永遠の不在は、少なくとも、議論するのが難しい。

反例が存在しない。

この宇宙自身は、永遠という観念に反対するように見える。

熱力学の法則は、平衡での終焉の状態を保証しているようだし、確かめられない過去--つまり真のこの世界における永遠は、本質的に単位に限られている。

 

永遠は概念としては、非常に想定可能だし、とても魅力的だ。

しかし、人間の努力のなにもかもがそこに到達することができない。

だから、我々の文学と神話は、とてもしばしば、永遠を厳しく神の範疇に、少なくとも神秘の範疇においたのも、おそらく当然と言えるだろう。

ギルガメッシュ叙事詩の中においても、古典やアブラハムの神話においてと同様に、このことは真実だ。

永久、永遠の生命は、ウトナピシュティムとその妻に、善神エンリルの寛大さによってのみ、与えられる。

若さを保存する秘密の植物は神々の謎だ。人間は死を割り振られ、しかし生命は神自身が保管したままでいる。

 

しかし、この世界では、神の側から見てさえも、永遠はないように見えるから、もしとにかく無意味の制服を着たすべてのものが時の流れの中で終わりを迎えるのならば、究極的には、当然、あらゆるものになんの意味もないという風になるかもしれない。

 

しかし、人々はまさしく、「起きて、仕事をする」。もし何の意味もないのなら、少なくともなにかしらの原動力が、続ける理由がなければならないだろう?

 

何人かの人は、おそらく、この世界の根本的な非永遠性を、本当に信じたことが一度もないだろう。結局、来世(特に人生での行為が審判されることでその人の分担が決定されるというタイプの来世)は、世界の神話における繰り返されてきたテーマだ。意味を測定する独立した基準が導入されれば、この人生のはかなさは、関係のないものになり、この次の人生が重要なのと同じくらいの重要さを持つことになる。ダルマ的な伝統におけるような輪廻転生のシステムであれ、アブラハムの伝統におけるような永遠の来世のシステムであれ、今生の仕事は、これから来るべき人生の期待の中にある。

 

しかし、そのほかの人は――たとえ他の理由がなくても、たとえ本当に人生に意味がなくても――まさに起きて働くことを、実際にするし、長い間続けていくだろう。自然選択の残虐さがそれを確かめている。なぜなら、結局のところ、非永遠性とは、みんな死ぬということだからだ。

 

たとえ、非永遠性のために、すべてのものに意味がないということになったとしても、行動することは、行動しないことよりも意味がないということにはならないし、行動しないことも同様に行動することよりも意味があるということにも、意味がないということにもならない。だから、おそらく、みんな死ぬときだって、何人かは子孫を残したかもしれない。そのほかの持続可能な自己複製するシステムでと同様に、その子孫は、親から形質を受け継ぎ、子孫を残す傾向をやはり継承している傾向にあるだろう。ひとたび、最初の世代が死に絶えたとして、子孫のみが残るだけだし、子孫を残せなかったか、残そうとしなかった個体は、世界の非永遠性に永遠に失われるだろう。

 

よって、意味の量が仮にまったく同じだとしても、すべての可能世界において、私たちが行動するか否かに関係なく、自分の人生を続けない人と比べると、とてもすくない人びとが自分の人生を続けることになるだろう。私たちが世界を観察する能力は、世界の中に存在していることに基礎をおいているので、ほとんどの人間が実際にベッドから朝起き上がる世界を好むような人類的な偏りがその結果として存在することになる。

 

しかし、私たちはみんないつか死んでしまう。私たちは重要になってしまうだろう。

 

(君は重要だ(You mattered)と書かれた画像が挿入されている)

 

だんだん、私たちは重要ではなくなる。私たちが永遠に到達することができないのとちょうど同じように、私たちの影響力も永遠に到達することができないのとちょうど同じように、時がたつにつれ、私たちは忘れ去られ、私たちの行動も、重要ではなくなる。

 

しかし、それらのことが永遠ではないのと同じくらい、きちんと定義された限界のない持続性を行動は持つ。たとえば、特に、自己複製の効果は、永久に拡張して、明瞭にすべての生命に内在する。たとえ仮に意味がないとしても、少なくとも持続はする。各個体はすべての世代において、再生産する命の流れの中に生まれ行く。

 

(もしそれをそう呼べればだが)単一の原動力となる生命は、それ自身の伝播を持つ、あるいは必要とする。生命には意味などないかもしれないが、逆に意味など必要ないのだ。私たちのほとんどすべては、どっちにしろ朝目覚めて仕事に行くのだから。

 

何人かはいかないだろう。それも同じくらい重要なことだ。