フィッツジェラルドの崩壊というエッセイがある。
原題はクラックアップ(The Crack-Up)。
パキンといく、ぽっきりと折れる、みたいな意味合いの言葉だ。
現在、ぼくの私生活は崩壊している。
ストレスに負けて買った読めていない本たち。乱雑な机。浸食してくる仕事の書類。
喉を痛めないように買った加湿器の音の中で眠る。一日も休めない。壊れるわけにはいかない。
思い出と、助言を書きたい。
たぶん、それだけが、今のぼくに書けて、しかも書き残す価値のあるものだと思うから。
記憶というものは、儚いものだ。
いつか書こうと、ずっと思っていた、いろいろなことがある。
しかし、最近のぼくは、怖いと思っている。
そういう風に、何かを書こうと思っていても、このままだと、何を書こうと思ったのかすら、わからなくなってしまうのではないだろうか。
それくらいに、最近のぼくは、摩耗している。
まるで、ライティングセラピーのように、自動筆記のように、そんな感じでかまわないから、とりあえず書いてしまわないと、すべてが雲散霧消してしまいそうだ。
大学では、本当に失敗した。
自分の人生の中で、一番つらかった。
おそらく、学科の専攻を間違えた。就職のことを重点的に選んだが、心を病んでしまっては、就職活動も満足にできないことに気がつくべきだった。
自分の精神が一番に安定するような専攻を選ぶべきだったし、自分が研究室紹介で合わないかなと思ったところはやめるべきであった。
そこで行われている研究ではなく、そこがどのような場所であるのか、どんな雰囲気の場所であるのか、それを重要視するべきだった。
たぶん、どんな学科にいっても、それなりに楽しめなかったであろう(ぼくは勉強が好きだが研究は別に好きではなかったのだから)。
ならば、それなりに精神状態が安定する環境に身を置こうと努めるべきであったのだ。
ただ、この教訓には、ひとつ、不思議な補遺がつく。
ぼくがあの頃に戻れたなら、人生を変えられると思う分岐点がある。大学の専攻を決める、あの時だ。
あの時に、あの選択肢を選ばなかったら、あんなに大学が辛くなることもなかっただろうという確信がある。
今の知識のまま、時を巻き戻せるなら、大学生活をそこそこ「うまくやる」自信もある。
だけれど、大学を卒業したあと、自分が今ほど幸せかどうかについては、実は、まったく自信がない。
これは、本当に驚くべきことだ。
ここまで、自分の人生のターニングポイントがわかっているのに、それでも、大学を出た後のことは、まったくうまくやれる自信がないのである。
大学時代の失敗の原因は、はっきりと言語化できないにしても、それなりに「うまく立ち回る」ことは、今の知識をもってすれば、可能だと思う。
しかし、それでも、大学を出たあとの幸福を保証するほどの何かを、ぼくは手にしていない。今でさえ手にしていない。
たぶん、過去に巻き戻っても、大学生活だけはそれなりにうまくやれても、そこから先については、幸福になる自信がない理由は、いくつかある。
第一に、人生の幸福には、外部環境の影響というものがあって、それを制御しきることは不可能であるし、どのような外部環境がやってきても幸福であるだけの力をぼくはまだ持っていない。
入った会社で死ぬほど嫌な奴に出会ったときに、はたして幸福でいられるかという自信はない。
第二に、今現在のぼくの人生、ぼくが出会った人、失敗したあとに出会った人々は、そこまで悪い人たちではなかったし、家族とも仲が良い、むしろ昔よりも絆が強くなっているように感じられることがある。
これは、ぼくがこういう人生を歩んでいなかったら、たぶんこんな形にはなっていないだろうという形の人間関係の形成が行われていて、そしてそれは、「もしかしたらあったかもしれない別の人生における人間関係」と、うまく比較することができない。
別の話をする。
死ぬのが怖かった。
最初に死ぬことについて考えたのは、三才のころだったと思う。
この世界は夢のようなもので、死んだら、本当の世界が始まるのだと思っていた。
しばらくすると、たぶんそれは十才くらいのことで、いつの間にか、ぼくは断滅論者になっていた。
魂があるとは信じられないし、死後の生も信じられないし、それは父が無神論者であることに起因するのかもしれない。
しかし、自分の記憶、感情、感覚、思考、そういうものが失われて、二度と戻ってこないと考えることは、想像することさえ、おぞけをふるうことだった。
自分が完全になくなってしまって、自分のことすらわからなくなるという事態が、自分に必ず訪れて避けることができない。
こういう風に考えるということは、自分が死刑宣告を受けているのに等しい。
しかし、この考えが頭を離れず、まとわりつく時期が、散発的に訪れる。特に長期休暇のときに多かった。だからぼくは夏休みが嫌いだ。
こういう状態になると、思考能力は低下して、非常にエネルギーを消耗する。何もしていないのに、ありえないくらいに疲れて、何も考えることができないようになる。
これは本当にしんどいことで、大学時代に、精神科を受診したことがあったが、精神病ではないとのことだった。
神経症の境界例。
あえて名前をつけるならそういう感じで、芸術家などにこういう症状はあるとのことだったが、ぼくは作家でも画家でも音楽家でもない。
この病(あえて「やまい」というが)をどうすればいいのか、本当に悩んだ。
いろんな解決策があるだろうが、ぼくは仏教と瞑想が一番の最適解だと判断した。なので呼吸瞑想と手動瞑想をやっている。
いろいろ試した中で、これが自分に一番しっくりきたからだ。
催眠療法も含めた心理療法や、死ぬことを考えないようにする、などなどもあったが、ぼくの抱えている問題に一番真正面から向き合って、しかもその問題に解決策を与えていると感じられたのは仏教だった。
また別の話をする。
学校で話すと楽しい友だちと、学校の外で遊んでも楽しくない。
こういうことが、ぼくにはそこそこの頻度で起こった。これは本当にしんどいことだ。
原因はよくわからないが、おそらく、学校という環境が、ぼくに楽しさを与えていたのだろう。
ある個人が、ぼくと交流をすることで、ぼくは幸せになる、という構造には、おそらくなっていない。
ある個人が、ぼくと交流をする、その場所、環境も、同じくらい重要だということだろう。
最後に。
青井えうさんのブログのエントリで、「なすびあんは終わりました」というものがある。
これは本当に秀逸なエントリで、フィッツジェラルドの崩壊にも負けない名文である。そもそも、ご本人は文才のある書き手の方だが。
言いたいことをうまくまとめることができない。適切な教訓を引き出せない。
この文章は要約することができない。