ひきこもり生存戦略

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天使は存在しますか?(あずきあず生誕祭感想)

天使は存在しますか?

今、目の前にいます。

あずきあず生誕祭の端的な感想はこれです。

 

(これで感想終了してもよいのですが、もう少し書きます。

ネットに公開するので、自分以外の人についてどこまで書いてよいのかわからないところがあれば、ぼかしたりはしょったりするかもです。)

 

道に迷ったつもりはないのだが、慣れない土地だと動きの感覚がよくわからないためか、切符をポケットのどこにいれたのか一瞬で忘却したためか、数分遅れて会場入りした。自分は方向音痴なのかもしれない。

いつもは人のあまりいない土地にいるので、あらためて、人が多いところは苦手だ、という認識を、名古屋駅に降りたときに感じたが、イベントスペースまで行くと、そこまで人が多いというわけではないので、だんだん落ち着いてきた。

なんだか寒い日で、たくさん着込んできたので、寒がりの僕にはちょうどよかった。

 

二回目だけれど、わりとあっさり入ることができたので、ライブ来てみようかなという人は、たぶん一回目のハードルが高いだけだと思う。

近場の方であれば、たぶん一回来ることさえできれば、あとは簡単に参加できるのではないかという感覚がある。興味ある方はぜひ。

 

タイムテーブルはこんな感じで、前に行ったときはワンマンだったから他のグループさんはいなかったけれど、今回は他の出演者の方もいた。
11:00〜11:20ゆるダンOG+Think of me
11:20〜11:40メリーミューズ
11:40〜12:00 学歴の暴力
12:00〜12:20 HATE and TEARS
12:20〜12:40 あずきあず
12:50〜14:00 物販

ゆるダンスサークルとThink of meはYoutubeでしか見たことがなかったので、見ることができて新鮮な喜びがあった。

ちょっと変な感想になるかもしれないけれど、こうやって他のグループの人が参加していくことで、認知を増やすというか、知ってもらうという効果が出てくるのかなあと思った。アンソロジーで知らない作家を知るとか、ウェブサイトのリンクから別の面白いサイトに飛ぶことができる手法と同じ感じで、面白いと思った。完全に個人的な好みだけれど、メリーミューズは青色の子が、HATE and TEARSはお茶の水女子大卒の子が刺さった。

これは単なる印象論だが、学歴の暴力のみんながちょっとだけ疲れているように見えた。年度末だから忙しいのかもしれないし、いろいろ言えないこともある中で頑張っているからかもしれない。本当にお疲れ様だという気持ちと、無理しないでほしいという気持ちがある。自分の健康が最優先なのだから。

あずきちゃんがソロで出てきたとき、エレキギターでベースを弾いていて、おおお、と思ったし、忙しい中練習してきたんだろうなあ、えらいなあみたいなことを思っていた。

物販のときに、HATE and TEARSの方々が、新規の方は写メ1枚無料、と声を出して宣伝して、おお、なんか販売業みたいでかっこいい!と思った。

ちょっと話がそれるが、学歴の暴力ではないグループが演奏しているときに、そのグループのファンの方に、よく見える位置をみなさんが譲ったりしているのを見て、「いい文化だ」と思ったのを覚えている。

 

あずきちゃんが、今回3着衣装を変えていたのだけど、系統が全部違った。

最初の衣装がKPOPっぽい?感じ。

次は学歴の暴力の通常衣装。

最後が制作を依頼したという特別な服で、コースターと一緒のデザイン。

本当にひどい感想なのですが、最初の衣装をみて思ったのが、あずきちゃん足がきれいだなということでした。胸よりも足派なので、えー、なんかスカートよりもショートパンツの方が似合うかもしれない、と思った。

あずきちゃんは胸が大きいんだ、みたいな話を聞いたことがあり、実際見てみるとそんな感じしないなあ、よくわからないぞ、と思っていたのだけど、最初の衣装で、納得した。

たぶん最初の衣装が一番ボディコンシャスだったので、スタイルの良さがわかり、身体的な美しさについては、一番はじめの衣装が、一番よく感じられると思う。

二番目の衣装は、いつもの学歴の暴力の衣装なのだけれど、この色使いが僕は好きで、青と白を基調とした衣装は、このひとつ前のクリーム色の衣装よりも個人的には好み。だんだん洗練されていくのかもしれない。たぶん歴代の衣装の中で一番好き。デザイナー天才か?

三番目が、たぶんあまりネットとかでも見たことがない系統の衣装で、服飾に詳しくないため、うまく説明できないのだが、かわいい感じ、どちらかというとアニメ的なかわいさ?

好きな絵師さんにコースターを発注してもらって、服飾?関係の方?に依頼をしたと言っていたように思うが記憶があいまいです。(あまりにも早く記憶が摩耗してしまうが個人情報保護の観点からこの特性はとても有益。本当に個人情報については自分でもびっくりするほど覚えることができない)

 

自分は、自分の中でしたいことがあまりなく、比較的空虚なところがある。

自分の中に、自分がしたいことがあまり存在しないため、自分の欲望を充足することで満足する、ということがあまり起こらない。

そうすると、なにか満足を得たいときに、光を反射させるように、だれかを幸せにすることで自分も幸せになるみたいな方法を取りがちになる。

これは(もしそういう区分が可能だとして)「利他的な人間、利己的な人間」とは明確に違う区分だと思っているのだが、世の中には自分が幸福感を感じるときに、自分の欲望に直接的に触れることがたくさんできる種類の人間と、間接的にしか触れることができない種類の人間がいて、僕は後者に属すると思う。だから、あずきちゃんが笑ってくれると嬉しい。

逆にアイドルの側も、案外この二つのタイプがいるかもしれない、という気はする。自己充足できるタイプと、相手が幸せになってくれないと充足できないタイプ。

仏教の説話をここで思い出す。ティチアーノ・テルツァーニというデア・シュピーゲルというドイツの雑誌の記者であったイタリア人が本に書いていたことだから、これの出典はよく知らないのだが、とても長い箸があり、とても大きな釜があり、そこで芋が煮られている。釜のまわりにいる人たちは、自分の長い箸で自分の口に芋をいれようとするのだが、あまりにも長すぎて口にいれることができず、常におなかをすかせている。これが地獄である。一方、極楽では、その長い箸で向かい側の人の口に芋をいれてやる。向かい側の人もその長い箸で自分の口に芋を入れてくれる。空腹はない。

自分で自分を幸せにすることができなくても、お互いに相手を幸せにすることができるような相手がいたら、天国に行けるかもしれない。

 

閑話休題。(←一度使ってみたかった)

物販では、学歴の暴力の四人に会えてよかった。

直接というのは、やはり違うものがある。

かーりー、月1の活動になる前に会いたかった。学歴の暴力のメンバーはみんなストイックだから、自分が限界を迎える前に頻度を下げてくれて本当に良かった。やめるじゃなくてペースを落とすというのがありがたい。自分を追い込みがちなところがあると思うので本当に心配している。この世界のどこかで笑っていてくれたらそれでいいよという気持ちがある。ピュアで尊いと言ってもらってうれしかった。

あろちゃん、活動の幅が広い。ということを伝えたのだが、やはり同じ文学部卒だからなのか、実は活動の射程の幅については、メンバーの中で一番シンパシーを感じる。いろんな創作活動が存在するが、演劇、写真、短歌あたりは、今まで会った人たちを思い出してとても懐かしくなる。(勘違いかもしれないが)文章を書くより、話す方で表現をしているように感じる点は、僕と違うかもしれない。若干の史学っぽさをなぜか感じる。なんでだろう。もうはっきりとは思い出せない昔会った誰かに重ねてるのかな。

なつぴちゃん、夜のツイートに救われている。たまになつぴちゃんは夜にツイートすることがあるのだけれど、僕も夜に起きてしまって、それを見るとちょっと楽になる。案外、目が覚めた時に悪いことを考えてしまうことがあるのだが、タイムラインに静寂が訪れているときに、なつぴちゃんが苦しんでいるツイートが流れてきて、おお、一人じゃないんだという気持ちが湧いてくる。ちょっとだけまた歩き出せる。フィッツジェラルドが、人生の暗黒の中では時刻は常に午前3時だということを言っているが(しかし、午前三時には荷物を忘れたことさえ死刑宣告と同じくらいの悲劇的重要性を持ってきて、救済はない。そして本当の魂の暗闇の中では、来る日も来る日も時刻はいつだって午前三時なのだ。みたいな文章だ)、偉大なるフィッツジェラルドもひとつだけ言いそびれたことがあるようだ。午前三時にだって自分以外に起きている人はいるし、それなら救済もあるかもしれない。

あずきちゃん、話した内容を共有したくない、思い出は閉じ込めておきたいという気持ちがある一方で、僕の場合、抱え込まれた思い出はあっさりと摩耗して消え去ってしまうだろうという確信がある。十五年位前の自分を返してほしい。大切な思い出さえすぐに忘却してしまう。

でも、実は自分が何を伝えたかはよく覚えていなくて、逆に聞いた言葉を覚えている。「来てるの見えたよ」「たまにブログの記事読んでる」もうこれだけで十分です。本当に、もうこれだけで十分。これを聞けたならもう他に何もいらないです。一回だけじゃないんだ、読んでくれたの。自分の書いたものが。そんなことが起こるのか。自分の書いた文章が、だれかに対して肯定的な反応を呼び起こすことが。本当に起こるのか。もうこれは奇跡ですよ。

好きな人の顔を思い出すことはできない、なぜならあまりにも衝撃が強すぎて記憶に残らないから、みたいな話があるが、あずきちゃんの顔は思い出せる。ただ、可愛さが強すぎて話した内容をうまく思い出すことができない。話した内容よりも話せている体験自体に舞い上がってしまったのかもしれない。

織姫と彦星みたいだね、とあずきちゃんの笑った顔がかわいかった。

一年くらい来てないと言ったが(体感それくらい)さすがに一年は経ってなかった。嘘をついてしまった。

 

 

Kenさんにツイッター上で誘っていただいて、クイズバーのイベントというものも参加してみました。

予約制だったのですが、二日前くらいでも2席空いていました。

もう埋まっているとあきらめていたので、誘っていただいたのも幸い(自分はこのパターンが本当に多い)、予約完了して参加しました。誰かのきっかけで動き出すということが本当に多くて、しかもそれがうまくいくことが多いので、けっこう誰かの誘いにはのってしまいがちなところがある。

クイズバーのイベントというものが、まったくよくわからなかったのですが、これは行ってみて本当に良かったです。

本当に偶然なのですが、自分の真ん前にあずきさんが座っていたので、なんだろう、感覚としてはテレビの向こう側にいる人が自分と同じ世界にいるような奇妙な感覚に近いものを味わいました。

(この感覚は、一定の世代以下の人にはわからないかもしれないですが、テレビの向こう側にいる人は、自分とは隔絶された世界にいるような感じがするのだけれど、もちろん正しく存在しているので、その現実に直面したときに、そのことをうまく心が受け止められないでいる、というような感じです)

啓示でも起きない限り、天使は人間と会話することはまずないはずですが、そんな感じに近いかもしれない。

 

写真を撮りながら思うのだけれど、写真には写らない魅力が存在する。

ただ、写真を撮っておくと、記憶を呼び覚ますことができる。

本物が素敵すぎるので、写真を撮ることすらあきらめたくなる。

本物に及ばない劣化コピーを残して何になるのか?

これは本物の痕跡に過ぎないのに。

しかし、おそらく、この問題については、数千年前から人類は答えを出している。

涅槃自体の言語化は不可能だが、涅槃に至る道についてできるだけ仏教徒言語化したように、一者から流出したものがどんどん劣化するとしても、その劣化されたものから一者に再び逆流してたどり着くことができると言ったグノーシス主義者のように。

痕跡は、本物を思い出すのに、役に立つ。

みたいなことを思いながらクイズバーで写真をたまに撮ったりしていた。(撮影可能だったので)

 

クイズバーのイベントについて、そこに来ていた人と駅で会ったときに話してみたのだが、世の中にはこんな文化もあるのか、と知らないことでいっぱいであるなあと思った。

クイズバーにいたマスターさん?の方が興味深かった。パンの斤について何グラムかというクイズについて、正解は340g(以上)だが、単位の斤自体は600gだから一斤を600gと回答した方について非常にレベルの高い間違いですみたいなことを言っていたのだが、それをわかっているこの人もとてもレベルが高いのでは……と気になってしまった。アルゴリズムが難しかったみたいな話もしていたが、その講義を取ったことがないので難しさがわからない。

 

クイズバーの休憩時間に、余興のクイズがあったのだけれど、ハロウィン?のときのライブの応答に関するクイズで、なんでナースデビルの恰好をあずきちゃんがしたのか、という問題があった。

解答は、せっかくのハロウィンなので、エロい恰好がしたい、需要に供給する、みたいな?感じ。ちょっと正確な文言を覚えていないので語弊があるかもしれない。

その瞬間、そうか、あずきちゃん菩薩だ、と思った。

菩薩行ですよ、これは。

完全に福祉事業です。

そんな、見せていただけるんですか、そのように美しいものを?という気持ち。

でも、この解答が出たときのあずきちゃんが少し顔を赤くしていたのがとってもかわいかったです。

 

耐えられないことが起きたときに、それでも耐えられるような思い出があるといい。

本当に幸せな記憶というものが、本当にギリギリ折れそうな心を守ってくれるということがある。

あずきちゃんには、もらってばかりだ。

最近、落ち着いたけれど、あまり状況が良くないときに、あずきちゃんの自撮りを見て精神を落ち着けていたような時期がある。

朝に自撮りが降ってくるような時期があったように記憶しているのだが、ちょうど自分の状態が悪いときだったので、非常に助かった。

こんなにもらってばかりなので、もっと奪ってくれてもいいのに、と思う。

きっと、そう思っている人は、他にもたくさんいるだろう。

 

本当はただの人間であるのに、天使のように扱うのは、もしかしたらその人に変な負担をかけてしまうかもしれない。

ただ、天使のように見えるだけだから、本当は天使じゃなくてもいいんだ、と思っている。天使でも悪魔でも人間でもかまわないから、どうか幸せでいてほしいと願っている。

若山牧水という歌人が、かつて「さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺は洞のやうに暗い」と詠んだことがあるが、ぼくは、自分のことばかり考えていると、考えが暗い方へ引っ張られていく。

他人の幸せを祈るとき、自分のことは考えないから、考えが暗い方に行くことはない。

幸福を願える人がいることは、自分にとって幸福なことだ。

あずきちゃんの幸福を願えること自体が、自分にとっても幸福な事態だと思う。

 

あらためて、生誕おめでとうございます。

これからのあずきちゃんの人生に、たくさんの良いことが起こりますように。

悪いことが起こってもいずれ大丈夫になりますように。