ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

中高年ニート・・・というよりも、社会参加の否定

中高年ニートについてのニュースがやっていた。

バッシングに似たコメントをキャスターがしていたので(おなじみの甘えているとか、信じられないとか)、すぐにチャンネルを変えたか、消したか、その場を離れた。

十年前(や、そのまたさらに前)と同じ過ちを繰り返しているのではないか。引きこもりやニート不登校が問題になったとき、同じように批判して、「できないお前が悪い」と言って、何も対策をせずに精神論でうっちゃらかして、そしてそういう人たちはただ批判するだけで何もしていない。

弱者を批判するだけで何もしないのは、暴力であると思う。

さて、そういう風に批判する人たちのこと、理解できないわけじゃない。でも、その人たちは、たぶん、不登校ニートやひきこもりの人たちのことを、あまりのもふつうの人たちだと考えすぎていると思う。学校に行けることはふつうじゃないし、現代日本の働き方に適応して働けることは別にふつうのことじゃない。こういう観点が、きっと無いんだと思う。でも、普通の事じゃないと思う。だって、現に彼らはできてない。やりたくても体や心が動かない。「つらいけどがんばれる」と「つらくてもう無理」は、似ているけど、違う。

ぼくの「できない」に対して「できるはずだ」というのはやめてくれ。

それはとてもつらい言葉だ。

だれかの「できない」に対して「できるはずだ」というのはやめてくれ。

それはだれかにとって、とてもつらい言葉だ。

あなたはわたしじゃないし、わたしはあなたじゃない。

そういうことは、もうやめにしませんか。できないを、できないまま、受け入れることは、できませんか。

 

不登校やひきこもりは、社会参加の否定、この社会への否である。

その人たちを無視しても、社会参加できている人たちは、最初はそんなに害がないでしょう。生活保護が受けられなくなって、死んでしまうのは、そういう人たち(社会参加できない人たち)でしょうから。そういう社会参加できない人たちを、社会参加できる人たちが、甘えているといって叩くのは、痛快なものかもしれません。自分が絶対に安全な立場から、反撃されるおそれがまずない相手を叩いているのですから。しかし、それには、なにかとても邪悪な、不道徳なものを、ぼくは感じます。

うまく反撃できない相手を叩くのは悪だと思うんだ。

さて、しかし――現実に、そういう働けない人たちが、大量に死に出したら、それはもう、この国がぶっ壊れているということになるんじゃないでしょうか。それでも、彼らはクズだから死んでもいい、なんていうのかなあ。もしそうなら、完全にこの国は日本人としての統一性、日本という国としての一体感というものは、なくなってしまったのだな、と思います。だって、そのときに死ぬのは、同じ日本人でしょうから。

ぼくとしては、社会に適応できない、この社会にノーをつきつけているのは、とても人間らしい行動だと思います。心から敬意を表します。それは、人間の根源的な何かが、否定の声を上げているのだと思うから。だから、この人たちを社会に取り込むために、社会のほうが変わらなければならないと思う。それができないなら、そういう人たちは、自分の命を犠牲にして、この国から、この世から去っていくでしょう。そして、残された人たちだけで、よい国が作れるとは思わないです。なぜなら、ピラミッドの一番下が崩れ去ったなら、今度、押しつぶされるのは、次の人たちだからです。そして、人の数が減ること、そして身近に人が死んでしまうということは、予想以上に、みんなにストレスをかけることだと思います。そして、そもそも――そんなにたくさん人が死ぬのは、狂っているのだと、ぼくは思うのですが。非倫理的状況、不道徳な環境だと思うのですが。どうでしょうか。何か手を打たなくては、批判や否定ではなくて、彼らが彼らのままで、生きていける仕組みを作るべきだと思うのですが。