ひきこもり生存戦略

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どこかから、だれかからの助言

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-02-advice-from-somewhere-someone.html

上記URLの翻訳。

 

どこかから、だれかからの助言

 

2013年11月2日

 

私は、助言してもらえるとは、習慣的には、考えていない。

何が善で正義かについての言明として、助言というのは、何が善で正義かについての枠組みから、当然現れてくるはずだ。

このようなモデルにおいては、まさに最高の助言――助言はいつだって正しいのだが――とはトートロジー(同語反復)である。すでに受け入れられたある価値体系に固着する助言は、助言してもらうことができない。なぜならばその助言はすでに、そのような価値観に内在しているからである。この種類の助言はもはやすでに知られている。人は単にそれを完全な程度実行したことがないのだ――助言を受け取ることはたぶん助けになるが、意味深い啓示というよりはむしろ口やかましいリマインダーとして助けになるだろう。

 

私は、意味深い啓示について高い評価をすることができない。それはおそらく(しかし必ずしも高い評価をしないわけでもないのだが)、私がそのような啓示に至ったことがない、あるいはそのような啓示を覚えていないし認識していないからだろう。

しかし、もし比較的程度が小さいならば、助言することができると考えられている助言はかなり終末論的だし、その助言は、ある人の優先事項とあらゆる点で一致しているわけではない。

提供される助言は、何が善で正義かについての人の判断に新しい面をもたらすものでなくてはならない(あるいは完全にひっくり返すか、単なる助言がこのようなことを引き起こすのはなおさらあまりないことのように思えるが)。

 

さて、もし、19世紀のスティーヴン・クレインという人が(戦争はやさし、そしてその他詩集)という全集の中で、たまたま書いて公刊した短い詩を下に模写するとしたら、

 

ある男が宇宙に尋ねた

「宇宙さん、私は存在しています!」

「しかし」宇宙は返事をした

「その事実は私の中に

義務感を生み出しはしなかった」

 

――ならば、われわれは、この助言、あるいは少なくとも感想は、スティーヴン・クレイン自身から私にむかってなされた、というべきだろうか?

 

この話の中には、かなりはっきりと区別できる要素が少なくとも三つあり、大部分は連続性の中に分割されているが、全体にわたるテーマによって合体している。

 

前者のうち、第一のものは、私たちの三番目の要素と三年前に交わっていて、それはその時の学校の先生とその布告にある。

前者はトマスジェイコブスで、後者は、さまざまな、「君が何を感じているかどうもでもいい」、「私は君の感情なんてどうでもいい」、「生徒のことなんてどうでもいい(原文ママ)」

(この後者は、「私は生徒のことを大切に思っています」という言葉と共にやってくるし、前者を前後関係から同様に含意する傾向にある)

 

二番目は、上記で引用したスティーヴン・クレインへの導入であり、ほぼ二年前マリッサ・スミスによってハンドアウトの形で配られた、アメリカ文学のかけらだ。

 

三番目は、アルベール・カミュの「レエトランゼ」(異邦人)の二つの異なる翻訳の終わりの文章としてやってきて、マシュー・ワードとスチュアート・ギルバート、世界文学の授業で同じ先生から配られた。

 

おのおの、このようになっている

 

盲目的な怒りが私をきれいにしたであろうように、私から希望を取り去ってほしい。はじめて、予兆と星とによって夜がいきいきとしている中で、世界の優しい無関心に、私は自分自身をあけはなしている。

 

まるで巨大な怒りの波が私をきれいにし、希望をうばったようだった。そして、兆候と星とがちりばめられた暗い夜を見上げて、はじめて、この宇宙の親切な無関心へと私は自分のこころを開いた。

 

わたしたちはこれを、三つの助言と考えるべきだろうか? それとも、ひとつの助言と考えるべきだろうか?――そしてそれならば、もしあるとして、どちらからそれは来たのだろうか?

 

わたしはこれをまるごとひとつの良い助言だと考える。少なくとも、三つの道筋を通って私にもたらされたこの感情は、ひとつの全体を構成していて、自分の価値観、何が正しく何が善かに大きく一致する。これは、自分の世界観の定義的要素であってきた、あるいはなってきた、もしくは組み込まれてきた。

 

わたしは、このことで自分が何らかの行動の連鎖を引き起こしたとは言わない。おそらくまったく逆だ。しかし、現実世界に適応させる枠組みを私に提供してきた。優しくない現象によって駆動される優しくない他者による優しくない世界は、好ましいことに対する余白をたくさん残している世界だ。それ自体で快適に単純な世界である。