ひきこもり生存戦略

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「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」宗教的な感想

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」について。
あまり、ネットの書評では書かれていない観点からの感想を書きたい。
SFが好きな人と宗教に興味がある人は、もしかしたらあんまりかぶらないかもしれない。
だが、僕はSFが好きだし、宗教も好きだ。
ネタばれありで、少し語る。
これは僕の解釈なので、そう思わない人もいると思う。
文学部的な言い方になるが、僕なりのテクストの「読み」だ。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」についてだが、僕の見るところ、これはアンドロイドものによくある、人間の心を持つアンドロイド、的な話にはならない。
アンドロイドは基本的に、人間とは決定的に違う要素を持つ存在として語られる。
僕の見るところ、もっとも人間に近いアンドロイドとして描かれているように見える、ルーバルフト(LubaLuft)も、最初の尋問の際に、アンドロイドが劇団の中にいるなら捜査に協力する、と言って、仲間を売るのをいとわないようなそぶりを見せる。
主人公のリックには、自分以外のアンドロイドがどうなろうと気にしないのがアンドロイドの特徴のひとつだ、と指摘されてしまう。
このエンパシー(共感)能力を、アンドロイドはもたない、というのが、この小説での大前提である。
他者に対して共感することができない、そういう能力を欠如している存在、これをこの小説でアンドロイドと呼んでいて、そしてそれは「処理(リタイア)」させるべき対象とされている。
ここらへんはフィリップ・K・ディックはあまり煮詰めて書いていないと思うが、「共感能力を持たないやつは人間ではない」ということがひとつの前提で、この前提があったうえで、書きたいトピックをいろいろ書いていったのではないかという感じがする。

 

マーサー教という宗教が作中で出てくる。
これは共感ボックスという、その取っ手をにぎると、その宗祖マーサーの受難を体験できるという道具を使う宗教らしいのだが、詳しいことはあまり語られない。
実際に共感ボックスで投石されたら現実の体にも傷がついたりする。
これは一般的な「共感」とは異なると思う。もう少し射程の広い話をディックは展開しているように思う。
ディックがここで言っているのは、共感というよりも、ある種の宗教体験である。

マーサーは、時間を巻き戻すような能力を持っていた、とされている。
死んだ生き物をよみがえらせたりできたらしい。

物語の終盤で、マーサー教はインチキだということがあばかれる。
役者がやっていた偽物の舞台で、受難の歴史を捏造したのだということなのだが、ここで、この本は面白い展開を見せる。
物語の設定上でも、たしかにマーサーの受難映像はインチキであるというのは「正しい」ことだとされている。
しかし、そのあと、物語の登場人物であるイジドアはマーサーに会い、救われる。
ここでの描写はすごくて、イジドアの周りの物質が時間を加速して崩壊していくような描写がある。
共感能力を持たないアンドロイドが足を切り落としたクモも、足が復活して息を吹き返す。
これはマーサーの祝福として描写されているように見える。
バウンティハンターであるリックも、自分が好きになってしまった女性アンドロイドと同型のアンドロイドに殺されそうになる時に、マーサーに助けてもらう。
It will be the hard one of the three and you must retire it first.
残っている三人のアンドロイドの中でもっとも難しい相手だから、最初にそれをリタイアさせなくてはならない。
という助言のみならず、背後にいることまでも指摘する。
もう、ここでは現実世界に干渉している。

 

マーサーは、リックがこの三人のアンドロイドと戦う前に、自分の本質とは違うことをするのが人間のさだめだし、それが呪いなんだ、そして救済はないんだ、しかし、それでも「間違ったことでもしなくちゃならない」みたいなことを言う。
インチキだとわかったマーサー教だが、それでもその力は失われないことが物語では示唆されている。そしてなぜそうなるのかをアンドロイドは理解できないであろう、とも語られる。

キリスト教の高等批評にしろ、仏教学の成果にしろ、実際に聖書に書かれていることが本当ではないとか、聖書に書かれていることが相互矛盾するとか、ある仏典が釈迦の死後数百年後に作られたものだとか、相互矛盾する記述があるとか、そういうことがわかってきている。
地球が平らだったり、須弥山を信じている現代日本人はいないだろう。
しかし、それでも、キリスト教や仏教には、ある種の力--こういっていいのかわからないが、救済力が存在する。
聖書が歴史的事実であるかどうか、仏典で語られる話が本当かどうか、とは違うレベルで、人を救う力がある。
マーサー教のところでディックが言いたかったことはこういうことだろう。

 

それが歴史的事実として、客観的事実として真実かどうかはあまり問題ではなくて――たとえそれが嘘でも、それでも何かそこには意味があるのだということを言いたかったのではないか。
もともと、純文学を志向していた作家らしいし、ヴァリスなどはもっと宗教的な著作らしいから、そこらへん読むとよくわかるのかもしれない。