ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

あずきあずの魅力

https://www.youtube.com/watch?v=4kscV-_W2Gc

まずは諸君、この動画を見てくれ。
この動画をどう思う?


この動画の冒頭にある、あずきあずの絵日記のメイキング動画、ちょっとかわいすぎんか?
大丈夫? 無料で流していいの?
「しゃーぺん」「めがな゛ーん、ぱさぱさ」などの発話における音声がかわいすぎる。
「しゃーぺん」をこんなにかわいく発音できる人いるの?
「今日は書くことが、決まって、いる!」のあとの笑顔が非常に良い。

完全に心が可愛さで圧倒されている。すごいな、これがアイドルの力か……!
神経がかわいさを摂取しすぎて焼き切れてしまった。


最初、学歴の暴力を知って、やっぱり頭の切れる女の子はかわいいねぇ、と思ってつらつらツイッターを追っていたら、新メンバー加入のお知らせ。
ふーん、新しいメンバー、かぁ、日本国内に現存するすべての旧帝大をそろえられたら面白いねぇ、と思っていた、だけ、だった、と思う。
ただふわふわとたまに流れてくるツイートを見てた。たぶんなつさんのツイートが多かったのかな。バズることが多かったから。
それが、この二つの写真でノックアウトでしたね。
下の方の写真では、写真を保存している旨のリプがありましたが、僕もしている。
https://twitter.com/PP29H9GixlN66UJ/status/1571490632388190214
https://twitter.com/azuki__info/status/1572076521640300551

あと、たぶんこの動画が決定打だった。
ご本人は気づいてないのかもしれないけれど、動画に強いタイプだと思う。動いて話している姿がとてもかわいい。
https://twitter.com/azukinokizuki/status/1568981663463669761/video/1


共感するツイート。

何にも嫌なことはないけど、生きることがプレッシャーだから、早く人生ゲームをクリアして、ポケモン進化させないで愛でるみたいな、闘いも優劣もなく、お金を稼ぐ必要も生活を営むということもしなくていい世界にいきたい
https://twitter.com/azuki__info/status/1575453028811153409


とりあえず、もうちょっと彼女のことが知りたくなった人は、以下の文章でも読むといいよ。


過去について書かれた記事。
>可愛いのピークも、すでに過ぎている気がした。
ここだけは文章に誤りがありますね。今が全盛期でしょ?
https://fumufumunews.jp/articles/-/23203?page=3


あずきちゃんが山にいってやばいなと思って帰った話
「もう僕は死ぬからどうにかしてほしい」という同級生の子と山に行った話……
https://www.youtube.com/watch?v=BvOjN0bvAXM


どうでもいいが、黄色とオレンジがあまり好きな色じゃない、というのは自分も同じ。
病んでるように見えないけれど、人に影響されちゃうから何も考えないようにしてる、夜に病む、というのもわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=WJbVbfNrvss

 


正直、僕はアイドルが好きというわけではないのだが、ないはずなのだが、アイドルさんたちのツイッターみてると楽しい気持ちはある。
かわいさを振りまいてくれるのは、見ている人たちを幸せにするので。
でも、かわいい子だけが勝つゲームをしたいわけではないし、そういうゲームの成立基盤を強化したいわけでもないんだ。
ちなみに以下はなつぴちゃんの分析……合っているかどうかは各自の判断に任せる。
https://twitter.com/natsupikkk/status/1591150735945011200


個人的なお気に入りツイートたち。あずきちゃんの魅力が詰まっている、と思う。
https://twitter.com/azuki__info/status/1574786559601410048
https://twitter.com/azuki__info/status/1544109026656808960
https://twitter.com/azuki__info/status/1541047949194838016
https://twitter.com/azuki__info/status/1541042099692670977

 

あずきちゃんに限らずだが、アイドルのかわいい女の子を見ていると、僕は、フィッツジェラルドの文章を思い出す。
アメリカの作家で、グレートギャッツビーが有名だ。
これは、あるエッセイの三部作の第一回目で、いろいろなことを考えることができるエッセイだと思う。
さて、結局、フィッツジェラルドは、ここで「こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった」と言っている。
つまり、この「一般論」をフィッツジェラルドは捨てた、少なくともぴったりくるものではなくなった、と読めるのだが、さて、このエッセイを最後まで読んで、ラストタイクーンが未完に終わったフィッツジェラルドのことを思うと、もうまともに書けないと思いながらもそうはさせるものかと歯を食いしばっていたように思える。
妄想かもしれないが。

 


いうまでもなく人生はみな崩壊の過程だ。
だが、手ひどい打撃――つまり、不意に襲ってくる、というか、外からふりかかってくるように感じられる打撃ならば、思い出しては誰かのせいにしてみたり、落ちこめば友だちに愚痴ったりするものではあっても、影響が一気に現れるようなことはない。ところがそうではないタイプの打撃、言うなれば内側からやられてしまうような打撃は、もはや手の施しようのないところに来るまで気がつかないし、気がついたが最後、自分はある面においては二度と元には戻れないのだ、と悟るほかない。外からの破壊作用は一瞬のうちに終わる――だが、後者はやられた瞬間を気づかせないままに、ある日突然、致命傷となってあらわれる。

 この短い自伝を続ける前に、一般論をひとつあげておこう。人が第一級の知性を備えているか否かは、相反するふたつの考えを同時に頭の中に抱きながら、なおかつ行動できるかどうかによる。事態が絶望的であることは充分に理解しながらも、そうはさせるものかと歯を食いしばる人のように。……こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった。

https://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/1958d36a87b21834646d160c7ed2bd6e

 

 


崩壊していく人生を止めることはできない。
かわいい女の子のツイートにいいねをしたって、リプをしたって、何かが変わるわけではない。
しかし、もしかしたら、吹っ飛びたくなるような精神状態を、ひとつのツイート、ひとつの写真が救うことだってあるかもしれない。
半分以上信じていないことを、心のどこかで信じたいと思っている。
僕に、第一級の知性は備わっているだろうか?
何もかもが終わりだと思いながらも、まだなんとかなるんじゃないかと思うこと……。

 

「なんだろう、色々考慮した結果、最終的に出した結論が正直に話すことで、いつも「正直者はバカを見る」みたいな人生なんだけど、これっていつか治る?」
ここからの連続ツイートが、一番好きかもしれない。僕はこういう人、好きですよ。

こういう人が幸せになれないなら……明日、世界が終わっちゃってもいいんじゃないかな。

https://twitter.com/azuki__info/status/1586896006368858112
https://twitter.com/azuki__info/status/1586896314348236802
https://twitter.com/azuki__info/status/1586898231984029696
https://twitter.com/azuki__info/status/1586899192316067840


北海道のライブに同じ飛行機で行くんだけど、そこからバラバラに行動する「学歴の暴力」、本当に推せる。
いい意味で女の子っぽくない。自立している。歌もみんなうまいよねえ。
三人とも幸せになってほしいと思う。そう、努力して道を切り開いた人たちは報われるべきでしょう。

 

おやすみ。

Christy Anne Jones

Christy Anne Jones という人がいて、この人の動画が好きだ。

 

 

 

小鳥遊るいさんというアイドルさんの配信を聞いていて、三重県で「とっしゃ」という方言があるらしいが意味がわからないという話が出た。

気になる。

グーグルで検索して、少しヒットするが、こういうのはやはり書籍で探索したほうがいい気はしている。

 

島岩さんという学者さんがいて、その人がヴィパッサナー瞑想について書いていたので読んだ。聖者たちのインドに書いてある「ゴエンカとヴィパッサナー瞑想法」という文章だ。ゴエンカ式ヴィパッサナーについて。すごく短い文章だ。

思想や方法は伝統的な仏教のものだが、それを一般市民にも開放しているところが新しい、と言っていた。僧侶だけのものでなくなっている、のだそうだ。

以下のウィキペディアヴィパッサナー瞑想の説明は、本の要約としてかなりまとまっていると思う。

「島岩は、ゴエンカの瞑想コースの過程には伝統的な上座仏教とは異なる特徴があると述べ、「涅槃寂静に達する技法というよりむしろ日常生活をよりよく生きる技法だとされている点」と、「心身と宇宙をすべて振動(ヴァイブレーション)ととらえている点」を指摘している[8]。彼の独自性は、これまで伝統的に行われてきた出家の比丘が森林にこもって瞑想して涅槃寂静を目指すという形ではなく、人間仏陀の説いた合理的な技法であり、在家の一般人が日常生活をよりよく送るための実用的な「生き方の技法」としてヴィパッサナー瞑想をおもに広めているという点であろうと述べている[8]。また現代のゴエンカの系統では、パーリ大蔵経の出版を熱心に行っており、仏教近代改革運動で提示された仏教観が色濃く認められるという。」

 

「雪沼とその周辺」も読んだ。まだ、スタンス・ドットだけだが。

寂しい感じ。悪くはない。

 

ドイツ語の言語機能のリスト。面白そう。

https://home.hiroshima-u.ac.jp/katsuiwa/communication/com.html

 

 

昔と比べて、本に興味が薄くなっているな、と思う。

なにかをつみあげたとしても、それが崩れ去ることがわかっているので、むなしくなってしまうのだろう。そのこと自体を楽しむ必要がある。

ドイツ語を勉強しても忘れてしまう、ではなくて、ドイツ語を勉強するのが楽しい。こうしたいね。

瞑想はその点、他のものとは違う。

蓄積、とは少し違う。

知性、崩壊、計名さや香

didhe.github.io/hatfree/

 

好きな文章、にじみでる知性がすばらしい。

犬養毅とアンティステネスが、どちらも犬に関係した名前だと知っている英語話者がいったい現在、世界で何人いるんだろう。

知性を感じる文章に、僕はノックアウトされやすいみたいだ。

 

体力がないんだ、と言ったら、だったら鍛えればいいんじゃない?と言ってくれた他校の女の子のことを今でも尊敬している。「それ」を変える能力を君は持っているんじゃない?と肯定的に言われた気がして。

 

 

気がついたら精神が崩壊していた。 この経験があったので、後年になってフィッツジェラルドのエッセイの二つの崩壊について完全に同意できた。 致命的な崩壊は気づいたら起こっていて、気づいたら手遅れなのだ。

なんでそうなったのか分からないが、突然、何もかもがやる気がなくなってしまった。退学したくなったし、勉強に情熱を注げなくなった。 本当に崩壊という感じだった。友達がいなかったのも危険因子だったのかもしれない。

死にたいとは思わなかったが、自分が何をしたいのか分からなかった。何もかもが終わってしまった感じがあった。
このせいで人生は確実に「レール」から外れてしまったと思う。
もし、ぼくが時を巻き戻すことができたら、この「崩壊」を止めることはできただろうか、とたまに思う。
百パーセントの確信は持てないが、おそらくこの「崩壊」を、あの時点で引き起こすことだけは、止めることができる。
あれがおこった原因は、正確にはわからないが、あの専攻を選ばなければ、違う選択肢をもっと早い段階でとっていれば、あの頃には思いつかなかった行動をとることができていれば、あの「崩壊」の発現をとめることはできるだろうと思う。
でも、ここで二つの事実を指摘したい。
ひとつめ。現時点では、過去に戻ってあの「崩壊」を止めることができたとしても、幸福になれる自信はない。過去に戻れたら、「もっとうまくやる」自信はある。だが、幸福になれるかはわからない。これは、本当に大事な点だ。今は、それなりに幸福でいるから、そう思えるのかもしれない。「崩壊」が起こったあとでも幸福にはなれる。
そして、「崩壊」が起こらなかったとしても、それは幸福になれることを意味しない。
ふたつめ。過去に戻って「崩壊」をとめられたとしても、そこからさらに生きていくときに、別の形で「崩壊」が発現する可能性はある。これは当然、この今の人生でも同様だ。「崩壊」を引き起こす要因を特定しきれたわけではないのであれば、同じ現象が起こることはありうる。ここを防ぐには、瞑想が有効なのではないかと思っているが……。
 
この「崩壊」は、ぼくの人生の方向性を、かなり大きく変えてしまった。
前と同じような人生、子供のころに描いていた人生が二度と手に入らないように思う。(いや、でも、子供のころから、みんなと同じようには生きられないような気もしていたかな)
昔と同じような人間にさえなれないだろうと思う。
しかし、これは必然だった気もするのだ。つみあがっていた歪みが発現しただけで、兆候は昔からあったんじゃないだろうか。
高校のころ、現代文が読めなくなって、サリンジャーしか読めなくなったころから、死ぬのが怖くなって頭の働きがとても悪くなっていたころから、周りの環境がよくてたまたまそろわずにすんでいたカードがすべてそろってしまったために、最悪なロイヤルストレートフラッシュが完成してしまったんじゃないだろうか。
 
この「崩壊」は、自分が何もしたくなくなってしまって、完全に人生の方向性を失ってしまったことにある。「あんまりにも自分のことばかり考えていた、あたりはほらあなのように暗い」、若山牧水の詩だ。中学校のころに読んでからずっと頭の中にある。僕のことだと思った。
ぼくには、他人が必要だと思う。
 
 
昔、計名さや香さんに会ったことがある。とても若く見える人だった。実年齢から20歳くらいは若く見えた。幸福に生きていてほしいと思う。もっといろいろ話してみたかった。
 
 
 
何かを手に入れたいと思っている。
まだ、そう思っている。
だが、時間と能力とエネルギーが、もうあまり残っていない。
本当に慎重に考えないと、また失敗するだろう。
今度は失敗してたまるかという気持ちがある。
結局、ぼくは、少し怒っているのだろう。あの頃に、「崩壊」してしまった自分自身に。失敗とか成功とか関係ない境地に行きたいと思いつつも、あの頃の失敗を絶対に挽回してやるという気持ちがある。こんなところで終わってたまるかという気持ちがある。自分の中にある攻撃性、貪瞋痴のうち瞋を強く感じる。
もう少し、自分を信じてあげたい。
 
 

「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。


いつか死ぬことが確定している世界におけるハッピーエンドとは何か?
最後には全て失うことになるのにハッピーエンドは存在するのか?
これを子供の頃から考えている。滝本竜彦のネガティブハッピーチェーンソーエッヂはこの問題意識を共有していると思っている。

全ての努力が無駄に終わるとしても戦いながら死にたい。勝てないまでも負けたくない。せめて一太刀、一矢報いたい。

 

滝本竜彦さんの、「安倍吉俊さんと私」という文章について。
これは、ユリイカの「安倍吉俊」特集で出てきた文章だ。
安倍さんの描く女の子では、オナニーしたくならないのだ、と書いてある。
それは、つまり、性的なまなざしを受け付けないような絵なのだという。確かに、オナニーしたくなる絵ではないとぼくも思う。
滝本さんの洞察ですごいなあと思ったのは、ここからで、「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」というところ。
これは、まったくそのとおりかもしれない。
(実は、性的な目線が、イコールで、奪うべき価値があるという錯覚「だけ」にもとづくのかには、ちょっと疑問があるのだが)


好きな人はいつか離れ、自分の頭も体も衰えて、以前できたことができなくなってゆく、本当に自分のものとして永遠に手に入れることができるものは何一つない、だから戒を守って瞑想しなくては救われないと言う気持ちがある。
今年度は、絶対ぶっ殺してやるという気持ちがわいてきた。
絶対ぶっ殺してやるという気持ちがあるが、特定の誰かに向けた気持ちではない。殺意みたいな憎しみがあり、たぶん何かスイッチが入るとそちらに向かうような気配がある。貪瞋痴、あまり今まで感じていなかった瞋を強く感じる。憎悪、怒り、これを心の自然現象として、ただ見るだけ、観察するだけ。


自分が幸せになれないゲームに強制参加させられているなら、当然ゲームごと自分をぶっ壊してやると思ってもまったく不思議じゃない。
闘争領域の拡大とは最終的にはそういうことでしょう。ウェルベックの問いは正しい。問題は解法の行方だ。

ミシェル・ウェルベックというフランスの作家がいる。
彼の処女作が、「闘争領域の拡大」だ。
資本主義が経済の自由化をもたらしたように、性愛の自由化、自由恋愛の進展が、「闘争領域」の拡大をもたらすという話だ。

経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。―『闘争領域の拡大』より。


闘争領域が拡大する中で、敗北者になったものには何が残るのだろう。きっと何も残らない。そして勝利者になったものには、得たものを失う恐怖が常に付きまとう。安息はない。闘争領域の縮少が求められている。
みんながご飯が食べられるくらいにお金を稼げるべきだと思う。
みんなが結婚できるのがいいと思う。(しかし――それはみんなを幸せにするとは限らない――それは新しい犠牲者を出すだけなのでは?)


自分には、あとどれだけのチャンスが残されているかと考える。自分には、あとどのようなチャンスが残されているかと考える。たぶんあまりないだろうと考える。それでも実際にどうかは、可能性を叩き潰してみるまで厳密にはわからないだろう。

美しくない人にも救済が訪れますように。

僕が本当に興味があったのは、「僕自身の救済」だったんだろう。
たまに青井えうさんのブログの最後のエントリ「なすびあんは終わりました」とか、kentz1さんの「会社を辞めた」とかを読みたくなる。
すべてが終わったと思ってからが、その人間の真価が出ると思っているからだ。何もかもが失われてもまだ未来だけは残っているし、たぶんまだ未来以外にも残っている。
とりあえず、このままでは終われないな。

今までできていたことが、どんどんできなくなっていく感覚がある。老いというよりは、これは、摩耗という感覚に近い。
しかし、完全に駄目になる前に、やれることはあるはずだと、まだ信じている。
まだ、何もかもが手遅れだというわけではないのだと、心のどこかでは信じている。
思い返せば、幸せになることをあきらめたことだけは、物心ついてから一度もない。
絶対に決着をつけてやるという気持ちで生きている。
勝つことはできないにしても、負けないことはできるはずだという確信めいた信仰を僕は持っているのかもしれない。

叫び出したくなるような孤独を経験したことがない人間にとって文学は必要ない。(必要ないがあっても問題ない)
やはり文学はかつて語られたように勝つための学問ではなく負けないための学問だ。

小鳥遊るいというアイドルがいる。その知性は本当に美しい。もっとその頭の良さを見せて欲しい。頭のいい女の子は、頭の切れる女の子は、本当に本当に魅力的です。
そしてもちろんアイドルに愛されることはできない。
好きな女の子に一生好きだと言われることのない人生だとしても小鳥遊るいを愛することはできる。これは得られなかった感情や思い出の代替品なのかもしれないし、一種の補償作用なのかもしれないが、いずれにせよ救済であることに違いはない。(本当に? 本当にそれは救済か?)
小鳥遊るいちゃんはみんなに救済と幸福を与えていて偉い。叫び出したくなるような孤独に安らぎを与えている。キリエエレイソン。
たぶん子供の頃からずっと考えていることのひとつとして、「『闘争領域の拡大』のティスランが人生を肯定するにはどうすればいいのか」という問題がある。
カラマーゾフのイワンも言っているように、ティスランが救われないままなら天国行きのチケットは謹んでお返しするべきだ。
救われたいけど救われないような人間が一人でもいるならそれはそんな人間を生み出すこの世界が間違っているし、それを神様が作ったのなら、そんな天国行きのチケットなんて倫理的に汚れている。
神様が世界を作ったくせに、その世界でもがいている人が死んだ後に天国に行くか地獄に行くか決めるだけならそんなのはただの暴君だし、そんな存在が作った天国なんて高が知れている。
全知全能なら全員救って見せろ。
それができないなら無能だろ?
仏教の好きなところは、梵天も死ぬところだ。ブラフマンも万能じゃない。最高神も不完全なところだ。戒、定、慧の三学を修めて涅槃に至らない限り、この苦痛に満ちた現世から解放されることはない。
結局、絶対に救われない人がいるという状態がたまらなく納得できないのだろう。どこかに救済がないと嘘だと思ってしまう。
そういう意味だと大乗仏教徒っぽいな。


このまま何もやる気がなくなって人生が終わるのは納得できない。
闘争領域の拡大ではないが、戦って死にたい。抗って死にたい。勝てないとしてもそれなら負けたことにはならないという信仰がある。誰が言ったか(「素晴らしき日々」という美少女ゲームだったはず)、「文学は負けないための学問」ですよね。何もしたくない欲が増えていって、自分を蔑ろにしつつあり、可愛い女の子を可愛いというだけで人生を終わるのは、それは、嫌だな。好きな詩を書き留めたノートも、もうどこにいったのかわからないな。
自分の人生の勝利条件は自分で決めないとな。

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。

思い出と助言

 フィッツジェラルドの崩壊というエッセイがある。
 原題はクラックアップ(The Crack-Up)。
 パキンといく、ぽっきりと折れる、みたいな意味合いの言葉だ。
 現在、ぼくの私生活は崩壊している。
 ストレスに負けて買った読めていない本たち。乱雑な机。浸食してくる仕事の書類。
 喉を痛めないように買った加湿器の音の中で眠る。一日も休めない。壊れるわけにはいかない。
 思い出と、助言を書きたい。
 たぶん、それだけが、今のぼくに書けて、しかも書き残す価値のあるものだと思うから。
 
 
 
 記憶というものは、儚いものだ。
 いつか書こうと、ずっと思っていた、いろいろなことがある。
 しかし、最近のぼくは、怖いと思っている。
 そういう風に、何かを書こうと思っていても、このままだと、何を書こうと思ったのかすら、わからなくなってしまうのではないだろうか。
 それくらいに、最近のぼくは、摩耗している。
 まるで、ライティングセラピーのように、自動筆記のように、そんな感じでかまわないから、とりあえず書いてしまわないと、すべてが雲散霧消してしまいそうだ。
 
 大学では、本当に失敗した。
 自分の人生の中で、一番つらかった。
 おそらく、学科の専攻を間違えた。就職のことを重点的に選んだが、心を病んでしまっては、就職活動も満足にできないことに気がつくべきだった。
 自分の精神が一番に安定するような専攻を選ぶべきだったし、自分が研究室紹介で合わないかなと思ったところはやめるべきであった。
 そこで行われている研究ではなく、そこがどのような場所であるのか、どんな雰囲気の場所であるのか、それを重要視するべきだった。
 たぶん、どんな学科にいっても、それなりに楽しめなかったであろう(ぼくは勉強が好きだが研究は別に好きではなかったのだから)。
 ならば、それなりに精神状態が安定する環境に身を置こうと努めるべきであったのだ。
 ただ、この教訓には、ひとつ、不思議な補遺がつく。
 ぼくがあの頃に戻れたなら、人生を変えられると思う分岐点がある。大学の専攻を決める、あの時だ。
 あの時に、あの選択肢を選ばなかったら、あんなに大学が辛くなることもなかっただろうという確信がある。
 今の知識のまま、時を巻き戻せるなら、大学生活をそこそこ「うまくやる」自信もある。
 だけれど、大学を卒業したあと、自分が今ほど幸せかどうかについては、実は、まったく自信がない。
 これは、本当に驚くべきことだ。
 ここまで、自分の人生のターニングポイントがわかっているのに、それでも、大学を出た後のことは、まったくうまくやれる自信がないのである。
 大学時代の失敗の原因は、はっきりと言語化できないにしても、それなりに「うまく立ち回る」ことは、今の知識をもってすれば、可能だと思う。
 しかし、それでも、大学を出たあとの幸福を保証するほどの何かを、ぼくは手にしていない。今でさえ手にしていない。
 たぶん、過去に巻き戻っても、大学生活だけはそれなりにうまくやれても、そこから先については、幸福になる自信がない理由は、いくつかある。
 第一に、人生の幸福には、外部環境の影響というものがあって、それを制御しきることは不可能であるし、どのような外部環境がやってきても幸福であるだけの力をぼくはまだ持っていない。
 入った会社で死ぬほど嫌な奴に出会ったときに、はたして幸福でいられるかという自信はない。
 第二に、今現在のぼくの人生、ぼくが出会った人、失敗したあとに出会った人々は、そこまで悪い人たちではなかったし、家族とも仲が良い、むしろ昔よりも絆が強くなっているように感じられることがある。
 これは、ぼくがこういう人生を歩んでいなかったら、たぶんこんな形にはなっていないだろうという形の人間関係の形成が行われていて、そしてそれは、「もしかしたらあったかもしれない別の人生における人間関係」と、うまく比較することができない。
 
 
 別の話をする。
 死ぬのが怖かった。
 最初に死ぬことについて考えたのは、三才のころだったと思う。
 この世界は夢のようなもので、死んだら、本当の世界が始まるのだと思っていた。
 しばらくすると、たぶんそれは十才くらいのことで、いつの間にか、ぼくは断滅論者になっていた。
 魂があるとは信じられないし、死後の生も信じられないし、それは父が無神論者であることに起因するのかもしれない。
 しかし、自分の記憶、感情、感覚、思考、そういうものが失われて、二度と戻ってこないと考えることは、想像することさえ、おぞけをふるうことだった。
 自分が完全になくなってしまって、自分のことすらわからなくなるという事態が、自分に必ず訪れて避けることができない。
 こういう風に考えるということは、自分が死刑宣告を受けているのに等しい。
 しかし、この考えが頭を離れず、まとわりつく時期が、散発的に訪れる。特に長期休暇のときに多かった。だからぼくは夏休みが嫌いだ。
 こういう状態になると、思考能力は低下して、非常にエネルギーを消耗する。何もしていないのに、ありえないくらいに疲れて、何も考えることができないようになる。
 これは本当にしんどいことで、大学時代に、精神科を受診したことがあったが、精神病ではないとのことだった。
 神経症境界例
 あえて名前をつけるならそういう感じで、芸術家などにこういう症状はあるとのことだったが、ぼくは作家でも画家でも音楽家でもない。
 この病(あえて「やまい」というが)をどうすればいいのか、本当に悩んだ。
 いろんな解決策があるだろうが、ぼくは仏教と瞑想が一番の最適解だと判断した。なので呼吸瞑想と手動瞑想をやっている。
 いろいろ試した中で、これが自分に一番しっくりきたからだ。
 催眠療法も含めた心理療法や、死ぬことを考えないようにする、などなどもあったが、ぼくの抱えている問題に一番真正面から向き合って、しかもその問題に解決策を与えていると感じられたのは仏教だった。
 
 
 また別の話をする。
 学校で話すと楽しい友だちと、学校の外で遊んでも楽しくない。
 こういうことが、ぼくにはそこそこの頻度で起こった。これは本当にしんどいことだ。
 原因はよくわからないが、おそらく、学校という環境が、ぼくに楽しさを与えていたのだろう。
 ある個人が、ぼくと交流をすることで、ぼくは幸せになる、という構造には、おそらくなっていない。
 ある個人が、ぼくと交流をする、その場所、環境も、同じくらい重要だということだろう。
 
 
 最後に。
 青井えうさんのブログのエントリで、「なすびあんは終わりました」というものがある。
 これは本当に秀逸なエントリで、フィッツジェラルドの崩壊にも負けない名文である。そもそも、ご本人は文才のある書き手の方だが。
 
 
 言いたいことをうまくまとめることができない。適切な教訓を引き出せない。
 この文章は要約することができない。

エスキモー戦争の前夜

ナインストーリーズで一番好きな話は、テディだった。

今読んだら、違う感想かもしれない。

もしかしたら、今は、エスキモー戦争の前夜が一番好きな話かもしれない。

僕が読んだときは、エリックはもっと「いいやつ」な感じだったが、この映像だと、エリックはちょっと鼻もちならない感じに見える。ほかの配役は完璧。

ただ、この映像を見た人は原作も読んでほしい。

この短編小説の中で、ぼくがうなった英文の表現は、

"You wouldn't have to go, anyway," Ginnie said, without meaning anything but the truth, yet knowing before the statement was completely out that she was saying the wrong thing.

この文章表現は、本当に美しいと思う。

「どっちにしろ行かなくていいじゃないですか」本当のこと以外を言うつもりなどなくジニーは発言したが、その言葉を完全に言い終わる前に、間違ったことを言っていることが分かった。

この小説の最後で、捨てようと思ったサンドイッチをポケットに戻すところが好きだ。この小説は、本当につかみどころがない、雰囲気の小説に見えるのだけど、ぼくはこの雰囲気がかなり好きなのだ。高校のとき、精神状態が悪く、ほぼすべての小説が読めなくなったとき、なぜかサリンジャーは読めた。

The Licameli Brothers presents で a film by Goddamn Fools  Creative Collective

 

www.youtube.com

サンダルテレフォンの「かくれんぼ」良い! 勇者刑に処す、面白い!

サンダルテレフォンの「かくれんぼ」、はじめて聞いたのだけど、これはかなり良い曲なのでは!

ぼくの中では、「コーリング」がナンバーワンなのだけど、これはナンバーツーくらいにまで良い曲だと思いますね。なんていうか、詞も良いよね……。

もはや公開停止してしまっているネット小説だけど「さよならスレドニ・ヴァシュター」の雰囲気と似ている。 

そして藤井エリカさん、ますますパフォーマンスに磨きがかかってますね。踊りながらいつも笑顔なのがすばらしい。アイドルの中で一番かわいいまである。

 

www.youtube.com

 

勇者刑に処す、というカクヨムの小説がとても面白い。現在、絶賛連載集。

kakuyomu.jp

ひさしぶりに時間を忘れて読んだ。

これ、無料で読めていいのか?

どんどん自分の語彙力がなくなっているのがわかる。昔は、どこがどう面白いか、ことこまかに言うことができていたのに。それだけの体力がもう残っていないのかもしれない。

キャラクターだと「タツヤ」が非常に気になる。とりあえず、読んでみてほしい。面白くて眠りたくなくなるので休日に読むのがおススメ。最初の刑罰の顛末まで読んで、はまればあとは一直線だよ……! 対イブリス戦までいったらもう止まらないと思います。

タツヤ」のリミッターを解除する言葉、ノルガユ陛下の生誕の秘密、ライノーの正体、「この剣に滅ぼせないものは存在しません」。最高です。どんな結末を迎えるのか楽しみ。清く正しくエンターテイメントです。