ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

学歴の暴力セカンドワンマンライブの感想

記憶が消えないうちに、学歴の暴力セカンドワンマンライブの感想を書きたい。
(注:あまりにも色々ありすぎて、10月にこの文章を推敲している。すでに記憶は摩耗しつつあり、自分の感想の方が割合が高くなっているでしょう)
帰ってきた後にコロナになってしまったために記憶が混濁している可能性があるので、もし間違いなどあったら指摘してほしい。
でもたぶんどう考えても気持ち悪いことしか書けないよなあと思います。(あと完全な初心者なので同じような人には参考になるかも)
ひどく暑い7月2日の日曜日、名古屋でセカンドワンマンライブがあり、やすすさんに背中を押していただいた僕は、やすすさんと共に前物販に足を運んでいた。

 

「地下の駐車場で物販をする」という文言の意味がいまひとつわからなかったのだが、本当に文字通り、駐車場にちょっとした長机を出して、そこに4人のメンバーが並んで、好きなメンバーのところに行って注文をする……みたいな形だった。
なんと表現すればいいのか、長机に四人が映画「家族ゲーム」みたいに並んで、それぞれにお客さんが相対して、これが欲しいと注文をする、みたいな……伝わるかな……。
いちおうネットで事前知識は仕入れてきていたけれど、物販というものがいまひとつよくわかっていなかったのだが、それは地下駐車場でするものなのか、写真を撮るらしいがそれはどういう風にするのかが全くイメージがつかめなかった。(のでやすすさんに教えていただいた)
のだけど、本当に地下駐車場でやるし、そこでものを売っていた。ものというか、見ていると、おしゃべりをして写真を撮って、それをもらっていた。なるほど、これがチェキ、ですね! はじめて見た!
やり方がよくわかっていなかったので、ちょっと後ろで見ていたのだけれど、各メンバーのところに行って、何かおしゃべりしてこれが欲しいなど言っているようだったので、同じように並んでみた。
人が少なかったためか、あまり列みたいな感じはなくて、流れと雰囲気にまかせて相手のところに行く感じだった。
どういう順番で並んだのかを覚えていないのだけれど、あずきちゃん、かーりーちゃん、あろちゃん、なつぴちゃんの順番だったかな……。

 

ここから本当に気持ち悪い感想になっちゃうのですが、駐車場に現れた四人を見ると、「本物……!」感があって、すごく感動した。
本物が動いているというのは、こんなに衝撃的なんだなあというか、心に与えた衝撃がすごい。
みんなネットで見るよりもかわいかった。昔、なつぴちゃんだかがツイートであずきちゃんは写真より実物の方がかわいいと言ってたと思うのだけれど、いや、あずきちゃんだけじゃなくて、みんな写真よりかわいいぞと思った。
かーりーちゃんと話したときに、写真よりもかわいいです、みたいな話をしたら、写真はマジック使ってるから現実見たら失望しない??みたいなことを言ってたんですが、実物の方がみんな明らかにかわいかったですね。
あと、なつぴちゃんが実際にいるのを見て思ったんですが、オーラがあるというか、なんて表現したらいいんだろう、すごいカリスマ性みたいなものを感じたんですよね。
学歴の暴力の要はこの人なんだろうな、という感じというか……喫茶店とかで店長さんやリーダーさんがまとっているオーラみたいな……。
これはちょっと驚いたというか、ネット越しではわからない魅力だと思う。エネルギーみたいなものを感じるんですよね。
あろちゃん、「アイコンが青い方ですか……?」みたいに聞いてくれて、うれしかった。
見ていただいているというか、「ええ、覚えていてくれてるの」というか、そういうのすごいなあと思います。
それとあろちゃんはめちゃくちゃ細くて、華奢なんですよね。こちらが心配になるくらいというか、もっと太ってもいいと思う。
おなかが出ている衣装だから恥ずかしいんです、と言っていたけれど、全く問題ないというか、おなか出ている衣装好きです。
あずきちゃん、なんだろう、ちょっと何を書いても何も表現できない気がするから、何も書きたくないというか、書いたそばから書いたものが書きたかったこととずれていく気がするのだけど、とりあえず書いてみます。
なんか、なんだろう、かわいすぎるなあという感覚があって、でも記憶がどんどん薄れていくからさみしいなあと思ったり。
名前を教えて、からの、えっ!?という驚きからの、みるみる笑顔になっちゃった感じが本当にかわいかった。
あー、こんなに笑顔になってくれることあるんだー、という。
生まれて初めてのチェキがあずきちゃんでした。バージンチェキというらしい。この言葉をあずきちゃんが言ったときにちょっと恥ずかしそうにしていたのが、かわいかった。
あずきちゃん、表情の変わり方がかわいいんですよ。これは実際に見てみるまでわからなかった。
うまく表現できる日本語を知らないんですが、表情が変わるときの……なんていうんだろう、表情筋の動き?みたいなのがすごくかわいいんです。
これは本当に実際に見ていただくことをおすすめします。

あと、ツイッターのリプライが丁寧な人という印象があったみたいで、それは純粋にうれしかったです。
かーりーちゃん、現実に会うと、「あぁ、この人が話しているのか」というリアリティが増すから好きと言っていたけど、僕も同じですね。
かーりー、あまりツイッターだと他の三人と比べて相対的に人となりが見えないところがあったんだけれど、話すととても良いので直接会える方はぜひ話してみてほしい。

 

ライブは、学歴の暴力の曲と、キューティーハニーや丸の内サディスティック、群青はわかったが、アイドル楽曲はほぼわからなかった。
入場するときに名前を受付の人に告げると、再入場のためのハンコを押してもらって(なんらかの理由で一時離脱するときのため?)、ドリンク代を払って好きな場所でライブを見るという形。
ライブすらいかない人なので、これが一般的な作法なのかどうかよくわからない。
今回は無料イベントだったけれども、有料イベントだと、入場料を払う感じになるのかな? よくわからないけれど。
曲が終わった後に、アンコールが一回入って、そのあとに物販、だったと思う。
物販については、ツイッターで告知していたのだけれど見逃していて、ステージ側から誰の列、みたいなものが決まっていた。
四人のメンバーがいるから、その中のだれとお話して写真を撮るかを決めて、そこに並ぶというシステムらしい。
今回は闇市があったのでそこに並んでいる人もいた。(闇市=特別なグッズを売っている場所で、いつもは存在しない、らしい)
なつぴ列、あろ列、あずき列、かーりー列があるから、好きな人のところにならんで、自分の番が来たらメニューから欲しいアイテムを選ぶ、みたいな感じ。このシステムは理解できた。
こっちの方はかなり人が多かったので、やり方の把握はしやすいと思う。前の人が何やってるかを見ればだいたいわかる感覚がある。
物販というものがよくわかっていなかったのですが、メニュー表みたいなものがあり(レギュレーションという単語で表現される模様)、写真を一枚とるなら何円、私物サインは何円みたいな感じで表記されているので、それでしてほしいことを選ぶ、みたいな感じです。

 

あずきちゃんの美しさがすごくて、写真を撮っていたのだが、途中からとるのをやめてしまって、なんというか、写真よりも実物の方が美しいので、撮ろうという意思がくじけてしまった。
記憶は消滅してしまうのだけれど、本物の美しさにかなわない写真という偽物を残しておくよりは、記憶が消えるに任せた方がいいというか。
(子供のころからこういうことを考えていて、旅行に行った時も写真をあまり撮らないので、注意?されたことがある。たぶん、自分の思っているものと別の形で痕跡が残るよりは、すべてが失われてしまった方がいいと僕は思っているのだろう)
でも、思い出としては当然、撮っておいた方がいいと思います。これは本当にそう。ただ自分の中で変なこだわりがあるだけ、でも本当は撮った方がいいはず。

 

四人の夏休みの発表が、かなり面白かった。
あろちゃんが文学部はワードをよく使うけどパワポはあまり使わないから苦手で、という言葉に、今でもそうなのか~と懐かしくなりました(文学部出身)。
なつぴちゃんの腕相撲は、まさかのなつぴちゃん以外が拮抗するという展開にびっくりした。
あと、かーりー、面白いんですよ。お愛想の笑いじゃなくて、普通に笑ってしまった。なんだろう、しゃべり方の間の取り方みたいなのが上手な気がする。
あずきちゃんの発表で「シズル度」という言葉をはじめて知りました。

 

今からさらに気持ち悪いことを書きます。
あずきちゃん、なんか、いい匂いがするんですよね。香水じゃないみたいと言っていたけど……なんだろう。
あと、あずきちゃんが下を向いたときに、髪を通して、少し頭皮が見えるんだけど、それがかわいいなあと思った。
多分ぜんぜん理解されないだろうと思うけど、むしろ本来、毛量の多い子の方が好きだと思うんだけど、髪の毛を通して見える頭の皮膚がすごくかわいいと思っちゃったんですよね。
(自分でもちょっとびっくりする感想だった。)
あずきちゃん、かわいすぎて怖い。
たぶんあずきちゃんからお金を無心されたら多少なら払っちゃうような怖さがある。
でも、これが魅力なのかなあという気がします。
全部自分でコントロールできる要素じゃなくて、文字通りの意味で「頭おかしくなるくらいかわいい」というのがすごいんだろうなと思う。
でも、上記文言を書いたときから少し時間が経ち、最近自分の中でちょっと変わってきた感じがあって、こんな(https://twitter.com/azuki__info/status/1708138601845035473)感じの系統の顔の人を僕は魅力的だと感じるのですけれど、あずきちゃんに関しては、だんだんむしろこっち(https://twitter.com/azuki__info/status/1691918658455650443)の感じの方をかわいいと思うようになってきた。
というか、別にかわいくなくてもいい気がしている。元気で幸せに生きていてくれればそれでいいです。
元気で幸せに生きていてくれればいいのは、なつぴちゃんも、あろちゃんも、かーりーも同じ。
これはたぶんみんなには否定されるだろうけど、アイドルじゃなくていいから幸せになってくれればよいという感覚がある。アイドルにならないと幸せになれないんだよと言われるかもしれない。

 

なつぴちゃんが、写真を撮ってくれる人がいなくて、あずきちゃんに撮ってもらうときに、「時間つかっちゃってすみません、帰りの時間大丈夫ですか?」と聞いてくれたのがすごいと思った。
あずきちゃんも心配してくれた。
そんな気遣いまでしてくれるんですか? たぶんこれは一般的なアイドル現場での普通の対応ではなく、純粋な思いやりなんだと思っている。感謝。

 

ライブがはじめてという女性の方と帰り際一緒になって、これってこのまま帰って大丈夫なんですよね? たぶん大丈夫だと思います、たぶん……みたいな会話をした。
時間がなかったのであまり話せなかったのですが、もうちょっと話してみたかった気もする。
「終わり」みたいな明確な区切りがないので、「よし」と思ったら帰って良いのかなと思った。たぶん終演後物販に行かずに帰っても問題はないみたいな感じでした。

 

僕は、みんなが盛り上がっているときに、一緒に盛り上がれなかったりするタイプで、みんなと一緒になにかするというのが苦手というところがあるのですが、それでもみんなが幸せそうにしているのは好き。
コールもMIXもできない、ただきれいな女の子が歌って踊っているのを眺めることしかできない。
なんだろう、たとえばクラスみんなが体育祭で優勝しようぜとか応援頑張ろうねと言っているときに、どんどん冷めていくタイプなのですが、でもだからといってみんなが頑張るのを見るのは好きだし、みんなが幸せそうにしているのを見るのは好きなんですよ。
ただ自分がうまく輪に入れないだけで、しかも入りたくもないだけで、みんなの幸せを壊したいわけじゃないので、クラシック音楽を聴くようにライブを見つつ、すべてが美しいなと思いながらぼんやりと突っ立って、幸せを感じていました。
でも周りからみたら楽しめてないように見えるかもしれない。全然そんなことはないのだけど。
没入して自分が消えるみたいな感覚が嫌なのかもしれない。自意識を常に保っていたいというか。単なる傍観者気質なのかもしれないが、それってちょっと卑怯かもしれない、当事者から逃げてるだけじゃないのという気もする。
みんなで盛り上げてくれるからアイドルさんも楽しめるのだと思う。ただ、僕はそちら側にはいけないなと思う。
どことなく疎外感を感じても、それは全く問題ない。結局のところ、みんなの中に埋没するよりは、一対一で話したいのだろう。(めちゃくちゃ自我が強くてわがままなことを言っている気がする)

 

学歴の暴力で好きなところが、一人ひとりの個性が強いという点で、人間と話している感覚がある。
アイドルは特に好きではないけれど、学歴の暴力には興味を持てたのはそこだと思う。他のアイドルの人は何を考えているのかいまいちわからない。
かわいいだけしかない感じがする。そしてそれは別に魅力的じゃない。学歴の暴力にはかわいいだけじゃないものがある。
アイドルはじめてというファンの人が多いというのは、たぶんそのせいもあるんじゃないかという気がする。個人の中身の魅力が高い。

 

やすすさんに最初からアテンドしていただいたので、非常に安心して楽しむことができました。
たぶん誘われてなかったら行けていなかったし、タイミング的にはバッチリだったので、本当に感謝しております。

 

セカンドワンマンが終わってからいろいろありすぎて、時間的余裕、精神的余裕どちらもないが、でもたぶんこのまま出せないままだとよくないので、未完成のような気もするが投稿します。小説と同じで、いくらでも推敲はできるから、どこかで区切りをつけないといけない。
2023年10月3日 祖母の葬儀の日の夜に

文学部生のための進路相談

文学部に行きたいなあとか、入ったけれどこれからどうしようかなぁとか、就活どうしようかなぁ、という人向けに、無責任におしゃべりする手紙みたいなものを書いてみる。

これが誰かの役に立つといいなと思う。誰の役にも立たないかもしれない。

 

文学部に行きたいという子は、どちらかというと「俺、音楽で食べていくから」みたいな精神性を持つ、というと、さすがに言い過ぎですか?

でも、法学部にも経済学部にも行きたくなかったんでしょう?

社会に「適応」するなら、文系男子だったら、法学部か経済学部に行った方が、「安定」や「安心」を手に入れることができるんじゃないですか?

教育学部に行って、先生になるのもいいかもしれないですね。

でも、そこでもあえて文学部を選ぶということは、そのどれでも自分は満足できないということを、心のどこかで確信しているからでしょう。

法学部にも経済学部にも教育学部にもないものを、文学部であれば手に入れられる、そう思ってる、違いますか?

 

手に入れることができましたか?

 

僕の場合、手に入れることはできませんでした。

法学部で学べることは、現代日本でしか通用しない局所的な真理だと感じていたんです。大日本帝国憲法がその効力を失ってから、日本国憲法ができて、それを頂点とする法体系ということは、百年経っていないシステムなわけで、それを学んだところで、それは自分が生きている間には役に立つかもしれないが、もっと普遍的な真理を知りたかったんです。そりゃあ、法律を学んだらうまく立ち回ることができて、有利に人生をすすめることができるかもしれませんが、それが人間としての理想的な生き方だとは思わなかったわけですよ。だって、自分が社会の中で勝利者になったとして、それは敗者を生み出すわけじゃないですか。

経済学部は法学部よりも普遍性があると思いましたが、経済システムの分析なわけだから、資本主義社会(とマルクス経済学も含めれば社会主義経済も)だったら世界中が対象になるけれど、そもそも資本主義が好きではなくて、「お金と引き換えに幸福を手に入れるというよりも、お金がなくては幸福になれないみたいなシステム」みたいに感じていたんですよね。でも、そんなシステムがあったとして、そんなものは破壊しなくてはならないんじゃないですか?(もちろん破壊すべき対象を研究するのは大事なことですが)

椅子取りゲームで勝ちたいわけじゃなくて、椅子取りゲーム自体を終わらせたかったというか、椅子取りゲームじゃないところに行きたかった。法学部や経済学部で学べることは、椅子取りゲームで勝つ方法であって、そこから抜け出したり、椅子取りゲームを違うゲームに変えることは学べないですよね?

 

じゃあ、文学部ではそれを学べるのかよ?

という答えに対しては、学べませんでした、と僕は言うしかないです。

行ったことが無駄だったとは思わないのですが、自分が欲しい真理を探して、大学図書館と講義と自宅を往復する日々を過ごしていましたが、ある日、気づいてしまったんですよね。

自分の欲しいものは、この中には、ない、ということに……。

そこから精神を病むのは結構早かった気がしますね。なまじ勉強を頑張ってしまったがために、どこにもほしいものがないことがわかってしまったというか。

 

若いみなさまにご忠告申し上げたいのは、勉強だけするのは精神衛生上、危険な可能性があるので、人と人とのつながりを作ろうということですね。サークルとバイトはした方がいいです。興味なくてもです。居場所を複数作ることで、とりあえずメンタルの崩壊を防げる可能性が上がります。精神が崩壊すると回復するのに年単位の期間がかかることがあり、人生に多大な悪影響を及ぼすことがあります。致命傷を避ける、これは大切なことです。

(過去の自分は、致命傷を受けるリスクを背負ってこそだろうと思っていた節があるので、過去の僕と同じような精神性を持っている人間は、この話を聞いてくれないかもしれないけれど……)

 

サークルは、まず宗教的なサークルを避けるということが肝要でして、親鸞会などの新興宗教の勧誘を隠したサークルがけっこう大学には跋扈しているので気を付けてください。その手の情報は新歓などである程度共有されることもあるようですが、現在の大学の状況はよくわかりません。昔は、ここらへんには大学は関知していなかったはずですが、さすがにオウム真理教のこともあり、本格的に注意喚起してるみたいです。

マジで変な宗教関係のサークルは人生を破壊することがあるから、本当に気を付けてほしい。

 

バイトは電話営業のバイトを2年間くらい続けると営業系の就活で無双できるという伝説を聞いたことがある。人手不足の業界のわりに、そこまで劇的な業務の変化がないため、つぶしが聞いたりダブルワーク先としても選ばれるコンビニはわりとおすすめと聞いたことがある。どちらも真偽不明。

 

話をもとに戻すと。

社会に適応できないなあと思いつつ、その適応のできなさに何かしらの解答や救済が得られるであろうということで文学部に行くことは、全然間違いだとは思いませんが、そこで解答が得られるとはあまり期待しない方がいい、と思います。

問いの立て方は教えてくれても、答えは大学で教えてくれません。

これは悪いことではないですし、ある意味誠実なことでもあるのですが、いろいろな解釈や理論を学ぶことはできても、解答が与えられるわけではないんですよね。

ただ、ここがちょっと難しいところなのですが、文学部に行きたいメンタリティを持つ人間が法学部や経済学部でその適性を発揮できるのかというと、ちょっとよくわからないところがあります。

 

僕から……文学部を卒業したことがある僕から、何か、進路に迷っている文学部の人に言えることがあるとしたら……

まず、語学はある程度まで修めた方がいいということです。

語学系の授業は、それなりに充実しているはずですからね。英語ともう一つ外国語を習得してください。検定2級レベルまでには至ってほしい。多分役に立ちます。(僕はビジネスにおいては、役立てられませんでしたが、もっと磨いていれば違う結果になったかもしれない。ビジネス以外のところでは役に立ちます)

統計や法律に関しては、必要とあらば習得は後からでも可能だと思いますが、教養課程で関連する授業はとっておいて損はないでしょう。

これは難易度が高い気がしますが、法律系の資格か、経済系の資格を在学中にとれるといいですね。行政書士や税理士……。難易度やはり高いかな。

これが取れたら就活でもある程度いける気がしますが……経理や法務がいらない会社はないですからね。そこ狙いで動いて採用があるのかが不透明ですが。

ただ、文学部に行く人は、自分の幸福よりも、大義や正義や他人の幸福に関心がある人が多いと思うんですよ。自分の幸福が大切なら、自分の効用を最大化するために立ち回って、法学部や経済学部に行くんじゃないですか?(両学部へのディスかもしれない、ごめん)

もし、自分の幸福よりも大事なものがあるなら、もしそれを手にすることができたら、たぶん問題ないです。

極論、好きな女の子と付き合って、その子と結婚するために俺は働くぞとなったら、全然問題なく動けると思います。文学部にいる人に必要なのは動く理由です。

社会に適応できないというよりも、適応するだけの理由が持てないだけでしょう。

適応する能力がないというよりは、適応する理由を見いだせない、という方が適切じゃあないですか?

(本当に適応する能力がないという人は学部関係なく一定数いるとは思いますが)

 

ちゃぶ台をひっくり返すようですが、文学部に行く精神性を持っている人間は、どんな経路をとろうと、自分の魂の中にある問題、みたいなものに向き合わなくてはならない気がしています。

僕は自分の人生の時計の針を戻せたら、今よりもうまく立ち回る自信があります。

しかし、今現在の自分の人生よりも幸福になっている自信はありません。

うまく立ち回る可能世界にたどり着けたとして、そこから先の未来、すべての困難に対してうまく立ち回る自信などありません。

この現在の僕が経験していない困難に、その可能世界の自分は出会うはずです。

そのときも、同じようにうまく立ち回れるかは、今現在の自分にはまったくわかりません。

人生にセーブポイントはないので、こんな思考実験にはあまり意味はないのかもしれませんが、結局、どんなルートをたどったところで、自分の精神性に起因する「壁」が人生の中から現れて、そこをなんとかしないことには、前にすすめなくなる……そんな気がしませんか。自分の心の中に、社会と折り合いがつかない「なにか」を飼っている人間が(あるいは、みんなその「なにか」を飼っているのだけれど、その「なにか」から目をそらせない人間が)、文学部に来る確率が高いと思っているのですが、もし、そうなら、その「なにか」は、人生のどこかの時点で、社会性を身に着けたあなたと対決しに来るのだと思っています。それが大学在学中かどうかはさておいて。

僕は社会性を身に着けようと大学で社会適応をいどんで敗北したクチですが、この経験を反面教師にして、みなさんにはその反社会性をとことんまで突き詰めてもらいたい。社会適応なんて無理してがんばったところで、自分の心の中にある反社会性の反作用で精神が分裂するのがおちかもしれませんよ。

反社会性をとことんまでつきつめたところで、また別の問題が降りかかってくるとは思うのですが、僕は自分の中の問題に向き合わずに中途半端に社会適応しようとしたために精神を病んだと思っているので、逆に、突き詰めることで見えてくるものもあるんじゃないのかな、と思っている次第です。

ただ、こればっかりは、個人差があるので、なんともいえません。

 

僕からいえるのは、居場所を複数作っておいたほうがいいという前段の話ですね。

メンタルがぶっ壊れなければ、なんとかできたりします。大事なのは、致命傷や重傷を避けることです。勝つことよりも負けないことに注意してください。

これをすれば勝てるという方法は、大学を卒業して十年経ってもわかりません。

必勝法はおそらくないでしょう。

環境も、その中にいる個人も、千差万別なので。

でも、敗北を回避する方法であれば、ある程度、確率の高い方法はあると思っていて、バイトとサークルをしておくことが、保険、リスクヘッジになると思っています。

あとは早く結婚したほうがいい。子供も産んだ方がいい。もしできるなら。戦う理由になるので。できないときは、しょうがないです。(僕もしょうがない組だよ)

 

でも……ここでさらにちゃぶ台をひっくり返すようなことをいうと……文学部に行くような魂にロックなものを抱えている人は、きっとこの冗長な文章よりも、自分の心の中の衝動とか感性に従うんじゃないかと思うし、それでいいと思っています。自分で決めたことじゃないと、失敗したときに勉強にならない。

ただ、本当にひとつだけ、まじめな助言をひとつだけ。(所詮個人的意見ですけど)

「やばそう」とか「なんかやだな」という直感は大事にした方がいいと思います。

どんなに条件が良さそうに見えても、あなたの心がそう思ったのなら、「あなたにとっては」、やばくていやなところなのだと思います。

みんなにとっていいところが、あなたにとってもいいところだとは限りません。

統計は、右の道を進めば勝利確立が80パーセントと言ってくれるかもしれませんが、あなたが20パーセントの方に入っていないなんて、だれが立証できるでしょう?

自分が20パーセントの方にいるかどうか、いたらどっちの道を選ぶべきか、判断することができるとすれば、あなたの直感以外にはないのではないでしょうか?

 

春の夜だから、昔のことを思い出して、たくさん書いてしまいました。

頼むからだれかの人生がこれを読んで好転してほしいと思う。人生は、もし可能なら、失敗しない方がいい。失敗するからこそ、深みがでるとも思いますけれど、しかし。

 

ああ、蛇足だと思うし、こういうの嫌いな人もいると思いますが、瞑想は本当に助けになると思っています。座禅、マハーシ式、ゴエンカ式、手動瞑想、呼吸瞑想、歩行瞑想などが日本だと学びやすいかも。ぶっ壊れる前に。

同じくらい重要だ

It matters just as much — The Cat in no Hat

上記エントリの冒頭訳。なんの推敲もしていないし、たぶん誤訳もある。勢いにまかせて書いた。自分でも意味のわからない箇所もある。また時間を見つけて直します。

Please please contact me if the aunther read this.  I really really love your writings.

 

 

 

この世界における永遠の不在は、少なくとも、議論するのが難しい。

反例が存在しない。

この宇宙自身は、永遠という観念に反対するように見える。

熱力学の法則は、平衡での終焉の状態を保証しているようだし、確かめられない過去--つまり真のこの世界における永遠は、本質的に単位に限られている。

 

永遠は概念としては、非常に想定可能だし、とても魅力的だ。

しかし、人間の努力のなにもかもがそこに到達することができない。

だから、我々の文学と神話は、とてもしばしば、永遠を厳しく神の範疇に、少なくとも神秘の範疇においたのも、おそらく当然と言えるだろう。

ギルガメッシュ叙事詩の中においても、古典やアブラハムの神話においてと同様に、このことは真実だ。

永久、永遠の生命は、ウトナピシュティムとその妻に、善神エンリルの寛大さによってのみ、与えられる。

若さを保存する秘密の植物は神々の謎だ。人間は死を割り振られ、しかし生命は神自身が保管したままでいる。

 

しかし、この世界では、神の側から見てさえも、永遠はないように見えるから、もしとにかく無意味の制服を着たすべてのものが時の流れの中で終わりを迎えるのならば、究極的には、当然、あらゆるものになんの意味もないという風になるかもしれない。

 

しかし、人々はまさしく、「起きて、仕事をする」。もし何の意味もないのなら、少なくともなにかしらの原動力が、続ける理由がなければならないだろう?

 

何人かの人は、おそらく、この世界の根本的な非永遠性を、本当に信じたことが一度もないだろう。結局、来世(特に人生での行為が審判されることでその人の分担が決定されるというタイプの来世)は、世界の神話における繰り返されてきたテーマだ。意味を測定する独立した基準が導入されれば、この人生のはかなさは、関係のないものになり、この次の人生が重要なのと同じくらいの重要さを持つことになる。ダルマ的な伝統におけるような輪廻転生のシステムであれ、アブラハムの伝統におけるような永遠の来世のシステムであれ、今生の仕事は、これから来るべき人生の期待の中にある。

 

しかし、そのほかの人は――たとえ他の理由がなくても、たとえ本当に人生に意味がなくても――まさに起きて働くことを、実際にするし、長い間続けていくだろう。自然選択の残虐さがそれを確かめている。なぜなら、結局のところ、非永遠性とは、みんな死ぬということだからだ。

 

たとえ、非永遠性のために、すべてのものに意味がないということになったとしても、行動することは、行動しないことよりも意味がないということにはならないし、行動しないことも同様に行動することよりも意味があるということにも、意味がないということにもならない。だから、おそらく、みんな死ぬときだって、何人かは子孫を残したかもしれない。そのほかの持続可能な自己複製するシステムでと同様に、その子孫は、親から形質を受け継ぎ、子孫を残す傾向をやはり継承している傾向にあるだろう。ひとたび、最初の世代が死に絶えたとして、子孫のみが残るだけだし、子孫を残せなかったか、残そうとしなかった個体は、世界の非永遠性に永遠に失われるだろう。

 

よって、意味の量が仮にまったく同じだとしても、すべての可能世界において、私たちが行動するか否かに関係なく、自分の人生を続けない人と比べると、とてもすくない人びとが自分の人生を続けることになるだろう。私たちが世界を観察する能力は、世界の中に存在していることに基礎をおいているので、ほとんどの人間が実際にベッドから朝起き上がる世界を好むような人類的な偏りがその結果として存在することになる。

 

しかし、私たちはみんないつか死んでしまう。私たちは重要になってしまうだろう。

 

(君は重要だ(You mattered)と書かれた画像が挿入されている)

 

だんだん、私たちは重要ではなくなる。私たちが永遠に到達することができないのとちょうど同じように、私たちの影響力も永遠に到達することができないのとちょうど同じように、時がたつにつれ、私たちは忘れ去られ、私たちの行動も、重要ではなくなる。

 

しかし、それらのことが永遠ではないのと同じくらい、きちんと定義された限界のない持続性を行動は持つ。たとえば、特に、自己複製の効果は、永久に拡張して、明瞭にすべての生命に内在する。たとえ仮に意味がないとしても、少なくとも持続はする。各個体はすべての世代において、再生産する命の流れの中に生まれ行く。

 

(もしそれをそう呼べればだが)単一の原動力となる生命は、それ自身の伝播を持つ、あるいは必要とする。生命には意味などないかもしれないが、逆に意味など必要ないのだ。私たちのほとんどすべては、どっちにしろ朝目覚めて仕事に行くのだから。

 

何人かはいかないだろう。それも同じくらい重要なことだ。

あずきあずの魅力

https://www.youtube.com/watch?v=4kscV-_W2Gc

まずは諸君、この動画を見てくれ。
この動画をどう思う?


この動画の冒頭にある、あずきあずの絵日記のメイキング動画、ちょっとかわいすぎんか?
大丈夫? 無料で流していいの?
「しゃーぺん」「めがな゛ーん、ぱさぱさ」などの発話における音声がかわいすぎる。
「しゃーぺん」をこんなにかわいく発音できる人いるの?
「今日は書くことが、決まって、いる!」のあとの笑顔が非常に良い。

完全に心が可愛さで圧倒されている。すごいな、これがアイドルの力か……!
神経がかわいさを摂取しすぎて焼き切れてしまった。


最初、学歴の暴力を知って、やっぱり頭の切れる女の子はかわいいねぇ、と思ってつらつらツイッターを追っていたら、新メンバー加入のお知らせ。
ふーん、新しいメンバー、かぁ、日本国内に現存するすべての旧帝大をそろえられたら面白いねぇ、と思っていた、だけ、だった、と思う。
ただふわふわとたまに流れてくるツイートを見てた。たぶんなつさんのツイートが多かったのかな。バズることが多かったから。
それが、この二つの写真でノックアウトでしたね。
下の方の写真では、写真を保存している旨のリプがありましたが、僕もしている。
https://twitter.com/PP29H9GixlN66UJ/status/1571490632388190214
https://twitter.com/azuki__info/status/1572076521640300551

あと、たぶんこの動画が決定打だった。
ご本人は気づいてないのかもしれないけれど、動画に強いタイプだと思う。動いて話している姿がとてもかわいい。
https://twitter.com/azukinokizuki/status/1568981663463669761/video/1


共感するツイート。

何にも嫌なことはないけど、生きることがプレッシャーだから、早く人生ゲームをクリアして、ポケモン進化させないで愛でるみたいな、闘いも優劣もなく、お金を稼ぐ必要も生活を営むということもしなくていい世界にいきたい
https://twitter.com/azuki__info/status/1575453028811153409


とりあえず、もうちょっと彼女のことが知りたくなった人は、以下の文章でも読むといいよ。


過去について書かれた記事。
>可愛いのピークも、すでに過ぎている気がした。
ここだけは文章に誤りがありますね。今が全盛期でしょ?
https://fumufumunews.jp/articles/-/23203?page=3


あずきちゃんが山にいってやばいなと思って帰った話
「もう僕は死ぬからどうにかしてほしい」という同級生の子と山に行った話……
https://www.youtube.com/watch?v=BvOjN0bvAXM


どうでもいいが、黄色とオレンジがあまり好きな色じゃない、というのは自分も同じ。
病んでるように見えないけれど、人に影響されちゃうから何も考えないようにしてる、夜に病む、というのもわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=WJbVbfNrvss

 


正直、僕はアイドルが好きというわけではないのだが、ないはずなのだが、アイドルさんたちのツイッターみてると楽しい気持ちはある。
かわいさを振りまいてくれるのは、見ている人たちを幸せにするので。
でも、かわいい子だけが勝つゲームをしたいわけではないし、そういうゲームの成立基盤を強化したいわけでもないんだ。
ちなみに以下はなつぴちゃんの分析……合っているかどうかは各自の判断に任せる。
https://twitter.com/natsupikkk/status/1591150735945011200


個人的なお気に入りツイートたち。あずきちゃんの魅力が詰まっている、と思う。
https://twitter.com/azuki__info/status/1574786559601410048
https://twitter.com/azuki__info/status/1544109026656808960
https://twitter.com/azuki__info/status/1541047949194838016
https://twitter.com/azuki__info/status/1541042099692670977

 

あずきちゃんに限らずだが、アイドルのかわいい女の子を見ていると、僕は、フィッツジェラルドの文章を思い出す。
アメリカの作家で、グレートギャッツビーが有名だ。
これは、あるエッセイの三部作の第一回目で、いろいろなことを考えることができるエッセイだと思う。
さて、結局、フィッツジェラルドは、ここで「こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった」と言っている。
つまり、この「一般論」をフィッツジェラルドは捨てた、少なくともぴったりくるものではなくなった、と読めるのだが、さて、このエッセイを最後まで読んで、ラストタイクーンが未完に終わったフィッツジェラルドのことを思うと、もうまともに書けないと思いながらもそうはさせるものかと歯を食いしばっていたように思える。
妄想かもしれないが。

 


いうまでもなく人生はみな崩壊の過程だ。
だが、手ひどい打撃――つまり、不意に襲ってくる、というか、外からふりかかってくるように感じられる打撃ならば、思い出しては誰かのせいにしてみたり、落ちこめば友だちに愚痴ったりするものではあっても、影響が一気に現れるようなことはない。ところがそうではないタイプの打撃、言うなれば内側からやられてしまうような打撃は、もはや手の施しようのないところに来るまで気がつかないし、気がついたが最後、自分はある面においては二度と元には戻れないのだ、と悟るほかない。外からの破壊作用は一瞬のうちに終わる――だが、後者はやられた瞬間を気づかせないままに、ある日突然、致命傷となってあらわれる。

 この短い自伝を続ける前に、一般論をひとつあげておこう。人が第一級の知性を備えているか否かは、相反するふたつの考えを同時に頭の中に抱きながら、なおかつ行動できるかどうかによる。事態が絶望的であることは充分に理解しながらも、そうはさせるものかと歯を食いしばる人のように。……こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった。

https://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/1958d36a87b21834646d160c7ed2bd6e

 

 


崩壊していく人生を止めることはできない。
かわいい女の子のツイートにいいねをしたって、リプをしたって、何かが変わるわけではない。
しかし、もしかしたら、吹っ飛びたくなるような精神状態を、ひとつのツイート、ひとつの写真が救うことだってあるかもしれない。
半分以上信じていないことを、心のどこかで信じたいと思っている。
僕に、第一級の知性は備わっているだろうか?
何もかもが終わりだと思いながらも、まだなんとかなるんじゃないかと思うこと……。

 

「なんだろう、色々考慮した結果、最終的に出した結論が正直に話すことで、いつも「正直者はバカを見る」みたいな人生なんだけど、これっていつか治る?」
ここからの連続ツイートが、一番好きかもしれない。僕はこういう人、好きですよ。

こういう人が幸せになれないなら……明日、世界が終わっちゃってもいいんじゃないかな。

https://twitter.com/azuki__info/status/1586896006368858112
https://twitter.com/azuki__info/status/1586896314348236802
https://twitter.com/azuki__info/status/1586898231984029696
https://twitter.com/azuki__info/status/1586899192316067840


北海道のライブに同じ飛行機で行くんだけど、そこからバラバラに行動する「学歴の暴力」、本当に推せる。
いい意味で女の子っぽくない。自立している。歌もみんなうまいよねえ。
三人とも幸せになってほしいと思う。そう、努力して道を切り開いた人たちは報われるべきでしょう。

 

おやすみ。

Christy Anne Jones

Christy Anne Jones という人がいて、この人の動画が好きだ。

 

 

 

小鳥遊るいさんというアイドルさんの配信を聞いていて、三重県で「とっしゃ」という方言があるらしいが意味がわからないという話が出た。

気になる。

グーグルで検索して、少しヒットするが、こういうのはやはり書籍で探索したほうがいい気はしている。

 

島岩さんという学者さんがいて、その人がヴィパッサナー瞑想について書いていたので読んだ。聖者たちのインドに書いてある「ゴエンカとヴィパッサナー瞑想法」という文章だ。ゴエンカ式ヴィパッサナーについて。すごく短い文章だ。

思想や方法は伝統的な仏教のものだが、それを一般市民にも開放しているところが新しい、と言っていた。僧侶だけのものでなくなっている、のだそうだ。

以下のウィキペディアヴィパッサナー瞑想の説明は、本の要約としてかなりまとまっていると思う。

「島岩は、ゴエンカの瞑想コースの過程には伝統的な上座仏教とは異なる特徴があると述べ、「涅槃寂静に達する技法というよりむしろ日常生活をよりよく生きる技法だとされている点」と、「心身と宇宙をすべて振動(ヴァイブレーション)ととらえている点」を指摘している[8]。彼の独自性は、これまで伝統的に行われてきた出家の比丘が森林にこもって瞑想して涅槃寂静を目指すという形ではなく、人間仏陀の説いた合理的な技法であり、在家の一般人が日常生活をよりよく送るための実用的な「生き方の技法」としてヴィパッサナー瞑想をおもに広めているという点であろうと述べている[8]。また現代のゴエンカの系統では、パーリ大蔵経の出版を熱心に行っており、仏教近代改革運動で提示された仏教観が色濃く認められるという。」

 

「雪沼とその周辺」も読んだ。まだ、スタンス・ドットだけだが。

寂しい感じ。悪くはない。

 

ドイツ語の言語機能のリスト。面白そう。

https://home.hiroshima-u.ac.jp/katsuiwa/communication/com.html

 

 

昔と比べて、本に興味が薄くなっているな、と思う。

なにかをつみあげたとしても、それが崩れ去ることがわかっているので、むなしくなってしまうのだろう。そのこと自体を楽しむ必要がある。

ドイツ語を勉強しても忘れてしまう、ではなくて、ドイツ語を勉強するのが楽しい。こうしたいね。

瞑想はその点、他のものとは違う。

蓄積、とは少し違う。

知性、崩壊、計名さや香

didhe.github.io/hatfree/

 

好きな文章、にじみでる知性がすばらしい。

犬養毅とアンティステネスが、どちらも犬に関係した名前だと知っている英語話者がいったい現在、世界で何人いるんだろう。

知性を感じる文章に、僕はノックアウトされやすいみたいだ。

 

体力がないんだ、と言ったら、だったら鍛えればいいんじゃない?と言ってくれた他校の女の子のことを今でも尊敬している。「それ」を変える能力を君は持っているんじゃない?と肯定的に言われた気がして。

 

 

気がついたら精神が崩壊していた。 この経験があったので、後年になってフィッツジェラルドのエッセイの二つの崩壊について完全に同意できた。 致命的な崩壊は気づいたら起こっていて、気づいたら手遅れなのだ。

なんでそうなったのか分からないが、突然、何もかもがやる気がなくなってしまった。退学したくなったし、勉強に情熱を注げなくなった。 本当に崩壊という感じだった。友達がいなかったのも危険因子だったのかもしれない。

死にたいとは思わなかったが、自分が何をしたいのか分からなかった。何もかもが終わってしまった感じがあった。
このせいで人生は確実に「レール」から外れてしまったと思う。
もし、ぼくが時を巻き戻すことができたら、この「崩壊」を止めることはできただろうか、とたまに思う。
百パーセントの確信は持てないが、おそらくこの「崩壊」を、あの時点で引き起こすことだけは、止めることができる。
あれがおこった原因は、正確にはわからないが、あの専攻を選ばなければ、違う選択肢をもっと早い段階でとっていれば、あの頃には思いつかなかった行動をとることができていれば、あの「崩壊」の発現をとめることはできるだろうと思う。
でも、ここで二つの事実を指摘したい。
ひとつめ。現時点では、過去に戻ってあの「崩壊」を止めることができたとしても、幸福になれる自信はない。過去に戻れたら、「もっとうまくやる」自信はある。だが、幸福になれるかはわからない。これは、本当に大事な点だ。今は、それなりに幸福でいるから、そう思えるのかもしれない。「崩壊」が起こったあとでも幸福にはなれる。
そして、「崩壊」が起こらなかったとしても、それは幸福になれることを意味しない。
ふたつめ。過去に戻って「崩壊」をとめられたとしても、そこからさらに生きていくときに、別の形で「崩壊」が発現する可能性はある。これは当然、この今の人生でも同様だ。「崩壊」を引き起こす要因を特定しきれたわけではないのであれば、同じ現象が起こることはありうる。ここを防ぐには、瞑想が有効なのではないかと思っているが……。
 
この「崩壊」は、ぼくの人生の方向性を、かなり大きく変えてしまった。
前と同じような人生、子供のころに描いていた人生が二度と手に入らないように思う。(いや、でも、子供のころから、みんなと同じようには生きられないような気もしていたかな)
昔と同じような人間にさえなれないだろうと思う。
しかし、これは必然だった気もするのだ。つみあがっていた歪みが発現しただけで、兆候は昔からあったんじゃないだろうか。
高校のころ、現代文が読めなくなって、サリンジャーしか読めなくなったころから、死ぬのが怖くなって頭の働きがとても悪くなっていたころから、周りの環境がよくてたまたまそろわずにすんでいたカードがすべてそろってしまったために、最悪なロイヤルストレートフラッシュが完成してしまったんじゃないだろうか。
 
この「崩壊」は、自分が何もしたくなくなってしまって、完全に人生の方向性を失ってしまったことにある。「あんまりにも自分のことばかり考えていた、あたりはほらあなのように暗い」、若山牧水の詩だ。中学校のころに読んでからずっと頭の中にある。僕のことだと思った。
ぼくには、他人が必要だと思う。
 
 
昔、計名さや香さんに会ったことがある。とても若く見える人だった。実年齢から20歳くらいは若く見えた。幸福に生きていてほしいと思う。もっといろいろ話してみたかった。
 
 
 
何かを手に入れたいと思っている。
まだ、そう思っている。
だが、時間と能力とエネルギーが、もうあまり残っていない。
本当に慎重に考えないと、また失敗するだろう。
今度は失敗してたまるかという気持ちがある。
結局、ぼくは、少し怒っているのだろう。あの頃に、「崩壊」してしまった自分自身に。失敗とか成功とか関係ない境地に行きたいと思いつつも、あの頃の失敗を絶対に挽回してやるという気持ちがある。こんなところで終わってたまるかという気持ちがある。自分の中にある攻撃性、貪瞋痴のうち瞋を強く感じる。
もう少し、自分を信じてあげたい。
 
 

「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。


いつか死ぬことが確定している世界におけるハッピーエンドとは何か?
最後には全て失うことになるのにハッピーエンドは存在するのか?
これを子供の頃から考えている。滝本竜彦のネガティブハッピーチェーンソーエッヂはこの問題意識を共有していると思っている。

全ての努力が無駄に終わるとしても戦いながら死にたい。勝てないまでも負けたくない。せめて一太刀、一矢報いたい。

 

滝本竜彦さんの、「安倍吉俊さんと私」という文章について。
これは、ユリイカの「安倍吉俊」特集で出てきた文章だ。
安倍さんの描く女の子では、オナニーしたくならないのだ、と書いてある。
それは、つまり、性的なまなざしを受け付けないような絵なのだという。確かに、オナニーしたくなる絵ではないとぼくも思う。
滝本さんの洞察ですごいなあと思ったのは、ここからで、「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」というところ。
これは、まったくそのとおりかもしれない。
(実は、性的な目線が、イコールで、奪うべき価値があるという錯覚「だけ」にもとづくのかには、ちょっと疑問があるのだが)


好きな人はいつか離れ、自分の頭も体も衰えて、以前できたことができなくなってゆく、本当に自分のものとして永遠に手に入れることができるものは何一つない、だから戒を守って瞑想しなくては救われないと言う気持ちがある。
今年度は、絶対ぶっ殺してやるという気持ちがわいてきた。
絶対ぶっ殺してやるという気持ちがあるが、特定の誰かに向けた気持ちではない。殺意みたいな憎しみがあり、たぶん何かスイッチが入るとそちらに向かうような気配がある。貪瞋痴、あまり今まで感じていなかった瞋を強く感じる。憎悪、怒り、これを心の自然現象として、ただ見るだけ、観察するだけ。


自分が幸せになれないゲームに強制参加させられているなら、当然ゲームごと自分をぶっ壊してやると思ってもまったく不思議じゃない。
闘争領域の拡大とは最終的にはそういうことでしょう。ウェルベックの問いは正しい。問題は解法の行方だ。

ミシェル・ウェルベックというフランスの作家がいる。
彼の処女作が、「闘争領域の拡大」だ。
資本主義が経済の自由化をもたらしたように、性愛の自由化、自由恋愛の進展が、「闘争領域」の拡大をもたらすという話だ。

経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。―『闘争領域の拡大』より。


闘争領域が拡大する中で、敗北者になったものには何が残るのだろう。きっと何も残らない。そして勝利者になったものには、得たものを失う恐怖が常に付きまとう。安息はない。闘争領域の縮少が求められている。
みんながご飯が食べられるくらいにお金を稼げるべきだと思う。
みんなが結婚できるのがいいと思う。(しかし――それはみんなを幸せにするとは限らない――それは新しい犠牲者を出すだけなのでは?)


自分には、あとどれだけのチャンスが残されているかと考える。自分には、あとどのようなチャンスが残されているかと考える。たぶんあまりないだろうと考える。それでも実際にどうかは、可能性を叩き潰してみるまで厳密にはわからないだろう。

美しくない人にも救済が訪れますように。

僕が本当に興味があったのは、「僕自身の救済」だったんだろう。
たまに青井えうさんのブログの最後のエントリ「なすびあんは終わりました」とか、kentz1さんの「会社を辞めた」とかを読みたくなる。
すべてが終わったと思ってからが、その人間の真価が出ると思っているからだ。何もかもが失われてもまだ未来だけは残っているし、たぶんまだ未来以外にも残っている。
とりあえず、このままでは終われないな。

今までできていたことが、どんどんできなくなっていく感覚がある。老いというよりは、これは、摩耗という感覚に近い。
しかし、完全に駄目になる前に、やれることはあるはずだと、まだ信じている。
まだ、何もかもが手遅れだというわけではないのだと、心のどこかでは信じている。
思い返せば、幸せになることをあきらめたことだけは、物心ついてから一度もない。
絶対に決着をつけてやるという気持ちで生きている。
勝つことはできないにしても、負けないことはできるはずだという確信めいた信仰を僕は持っているのかもしれない。

叫び出したくなるような孤独を経験したことがない人間にとって文学は必要ない。(必要ないがあっても問題ない)
やはり文学はかつて語られたように勝つための学問ではなく負けないための学問だ。

小鳥遊るいというアイドルがいる。その知性は本当に美しい。もっとその頭の良さを見せて欲しい。頭のいい女の子は、頭の切れる女の子は、本当に本当に魅力的です。
そしてもちろんアイドルに愛されることはできない。
好きな女の子に一生好きだと言われることのない人生だとしても小鳥遊るいを愛することはできる。これは得られなかった感情や思い出の代替品なのかもしれないし、一種の補償作用なのかもしれないが、いずれにせよ救済であることに違いはない。(本当に? 本当にそれは救済か?)
小鳥遊るいちゃんはみんなに救済と幸福を与えていて偉い。叫び出したくなるような孤独に安らぎを与えている。キリエエレイソン。
たぶん子供の頃からずっと考えていることのひとつとして、「『闘争領域の拡大』のティスランが人生を肯定するにはどうすればいいのか」という問題がある。
カラマーゾフのイワンも言っているように、ティスランが救われないままなら天国行きのチケットは謹んでお返しするべきだ。
救われたいけど救われないような人間が一人でもいるならそれはそんな人間を生み出すこの世界が間違っているし、それを神様が作ったのなら、そんな天国行きのチケットなんて倫理的に汚れている。
神様が世界を作ったくせに、その世界でもがいている人が死んだ後に天国に行くか地獄に行くか決めるだけならそんなのはただの暴君だし、そんな存在が作った天国なんて高が知れている。
全知全能なら全員救って見せろ。
それができないなら無能だろ?
仏教の好きなところは、梵天も死ぬところだ。ブラフマンも万能じゃない。最高神も不完全なところだ。戒、定、慧の三学を修めて涅槃に至らない限り、この苦痛に満ちた現世から解放されることはない。
結局、絶対に救われない人がいるという状態がたまらなく納得できないのだろう。どこかに救済がないと嘘だと思ってしまう。
そういう意味だと大乗仏教徒っぽいな。


このまま何もやる気がなくなって人生が終わるのは納得できない。
闘争領域の拡大ではないが、戦って死にたい。抗って死にたい。勝てないとしてもそれなら負けたことにはならないという信仰がある。誰が言ったか(「素晴らしき日々」という美少女ゲームだったはず)、「文学は負けないための学問」ですよね。何もしたくない欲が増えていって、自分を蔑ろにしつつあり、可愛い女の子を可愛いというだけで人生を終わるのは、それは、嫌だな。好きな詩を書き留めたノートも、もうどこにいったのかわからないな。
自分の人生の勝利条件は自分で決めないとな。

全てが終わり果てていくのを感じる。だけど。どんなことをやっても結局死ぬのだというのは、少し気が楽になる。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。
たとえ全てがいつか失われるとしても、何もかもが無駄というわけではない、と信じさせてくれ。