ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

死刑賛成派だったぼくが、反対派になったわけ

記憶をたどれば、高校三年生のある時期までは、死刑賛成派だったはずだ。

なんでそんなことを覚えているのかといえば、うちの高校は一年ごとにクラス替えがあり、三年生のときだけ一緒だったクラスメイトで、死刑反対派だった人から、ぼくは死刑に賛成しているかどうか、という質問を受けたことがあったためだ。

ぼくは、たしかそのとき、賛成していると答えた気がする。理由もふくめて言った気がするが、よく覚えていない。

だけど、今のぼくは、死刑反対派である。なぜだろう。

人の意見が変わるとき、何が起こるのか、ぼくは大変に興味があるのだけど(たぶん他人を自分の意見と同じにしたいという欲望がからんでいる)、どうも一気に意見が変わる、というわけにはいかないようだ。

まず、ぼくが死刑に賛成していた理由は、人を殺した人間に罰を与えるなら、同じだけの罰がふさわしかろう、というものだった。

ここには、言葉にはしなかったが、二つくらいの前提がひそんでいる。

ひとつめは、人を殺した犯人を確実に見つけ出せるということ。

ふたつめは、そいつは死刑を嫌がるだろうということ。

この二つの前提が間違っていると今では考えているために、ぼくは死刑賛成から反対の立場になった。

人を殺した犯人を確実に見つけ出せる、少なくとも犯人とされた人間は、まず間違いなく犯人であると言えるくらい、日本の警察は優秀なのだと思っていた。が、冤罪事件のことを知る。袴田事件とかが有名だが、パソコン遠隔操作事件で大量の冤罪者が出てきたことで、「あれ、警察だって人間だから間違えるんじゃないか?」と思うようになった。しかも、けっこう取り調べがずさんだったり、取り調べの可視化に反対するなど、不信感が芽生えてきた。このことで前提その1が崩れていった。

前提ふたつめについては、池田小学校の殺人者の発言(引用するのも嫌なひどい発言)や、秋葉原大量殺人の犯人の絶望に満ちた言葉、または黒子のバスケ脅迫事件の「無敵の人」(この単語自体は2ちゃんねるの西村氏が言い出したらしいが)発言を聞いて、そして、一審判決を控訴せず死刑を受け入れる犯罪者を目の当たりにするにつれて、これも前提が間違っていたんじゃないかと思うようになった。

議論によって、意見を変えたわけじゃない。ぼくは議論に強くないが、論破されても自分の意見を変えることはあんまりなかった。そもそも、議論に勝ったからと言って、その人が正しいわけじゃない(口のうまい悪人が、うまくしゃべれない善人を言葉で打ち負かすことはあるでしょう)。逆に議論をすると不愉快な気持ちになり、かえって今までの意見にしがみつく気がする。

意見を変えてほしかったら、自分の気持ちを誠実に言うしかなくて、しかも相手が変わることを期待しないことしかないのかな、なんてなんとなく思う。結論があいまいだけど、これにて。