ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

「チェスタトンのフェンス」の出典であるエッセイ「家庭生活から離れて」の翻訳

チェスタトンのフェンス」、インターネットで遭遇したことのある言葉だが、「なぜそのフェンスが建てられたかわかるまでは、そのフェンスを撤去するべきではない」の出典となるエッセイを翻訳してみました。

意訳的なところも多いと思います。記憶が確かなら、どこかの書籍の中で翻訳はすでにあったような気がしますが、それは参照していません。翻訳の正しさを保証することはできません。趣味で訳しました。出典さえ明記してもらえれば無断転載可能です。

個人的な意見ですが、現代日本でも同じような問題意識はあるように感じます。「無限のリソースなど本当はないのに、無限のリソースがあるかのような問題解決の方法が提案される」というような箇所は、約百年前も同じようなことを人間はしていたのか、と驚きました。

以下、翻訳です。

 

 

 

「家庭生活から離れて」

何かを修正しようということになると、奇形化させる場合は別として、ひとつの単純で簡単な原則、パラドックスとよべるかもしれない原則が存在する。この原則は法律や組織において存在する。単純化のために、道を横切るフェンスあるいは門が立てられていると考えてほしい。より現代に近い修正者は陽気にそこに行き、こういうだろう「役に立たないようにみえるね。どかしちゃおう」。

それに対して、もっと知的なタイプの修正者は、こう答えるのがよいだろう。「もし役に立たないと思うのであれば、どかすことを許すわけにはいかない。離れて考えてみたまえ。そして、もし戻ってきてどう役に立つか僕に教えてくれたら、壊してもいいというかもしれないね」。

このパラドックスは最も基本的な常識に基づいている。この門なり柵なりは、そこに生えてきたわけではない。夢遊病者によって眠っている間に準備されたわけではない。通りに何らかの理由で解き放たれた脱走狂人がそこに建てたなんて、とても考えられそうにない。ある人が、だれかの役にたつだろうと思えるだけのなんらかの理由をもっていたのだ。

そして、その理由が何かわかるまで、その理由が道理にかなったものか本当に判断することはできない。

非常にありそうなことだが、もしわれわれ人間の手によって作られた何かが完全に無意味で謎めいたものに見えるとするなら、私たちはこの問題のある全体的な特徴を見過ごすかもしれない。

何人かの修正者は、自分たちの先祖がバカであると仮定する難しさを乗り越えてしまうが、もしそうなら、私たちに言えることは、そのような愚かさは遺伝的な病気に見えますねということだけであろう。

しかし、真実は、歴史的な制度だと本当にわかるまで、社会制度を破壊する筋合いは誰にもない、ということである。もしどのようにできたか、それがどのような目的に奉仕するのかがわかれば、それらがよくない目的であるとか、あるいはある時点で悪い目的になってしまったのだということや、もはや奉仕不可能な目的なのだということを本当に言うことができるかもしれない。

しかし、もし単に物事を、それがどのようにしてか通り道に生えてきた無意味な奇形だとみなすなら、伝統主義者ではなくそうみなす人が、幻想にまどわされている。

私たちは、こういう人物は、悪夢の中で物事を見ているということさえいえるかもしれない。

この原則は、幾千もの物事に適用される、本当の制度と同様つまらないものにも適用されるし、確信と同様に協定にも適用される。

まさにこれはジャンヌダルクのような人物であり、彼女は、女性はスカートをはくと知っていたが、だれよりもそれをはかないことを正当化できる人物だったし、まさにこれはアッシジのフランチェスコのような人物であり、祭りや炉端に共感をもちながら、公道で物乞いをすることにもっともふさわしい人物だった。そして、現代社会の一般的な解放において、ケンブリッジ公爵夫人がなぜ馬飛びをとぶべきではないのかわからないという時、カトリック枢機卿会会長が、なぜ自分の好きなことをしてはいけないのか聖典に認められた明白な理由がわからないという時、私たちはこれらの人たちに、忍耐強い博愛をもって、こう言うかもしれない。

「それならば、あなたが犯そうとしているのがどんな原則や先入観か理解するまでは、あなたがしようと思っている企てを延期しましょう。それから馬飛びをしたり、自分の好きなことをしたりしてください、そして神があなたとともにあらんことを」

 

このように攻撃されている伝統の中で、知性的というよりは、もっとも反知性的に攻撃されているのは、家族や家庭と呼ばれる最も基礎的な人間制度である。これは典型的なことだが、人が攻撃するのは、それを見通すことができるからではなく、全然見ることができないからなのである。ひとは盲目的にそれを攻撃するが、完全にいきあたりばったりで出来心による様子で、攻撃者の多くはなぜそれが出来上がったのかを立ち止まって尋ねることさえなく、破壊しようとする。

彼らのひとにぎりのものたちだけが、この目的をさまざまな言葉で素直に認めるだろうというのは真実だ。

このことはいかに彼らがとても盲目で不注意であるかを示すにすぎない。

しかし、人々は徐々に家族生活から離れて、徐々に切り離されている流れの中にある。

しばしば単に偶発的で、しっかりした理論をまったく欠いているのだが。

しかし、それが偶発的であろうと、無政府主義的でないということにはまったくならない。

無政府主義者であるというよりは、むしろ無政府主義的である。

それは、個人的なイライラの上に広く構築されているように見える。このイライラは個人間でも違いがある。

私たちは、いろいろな場合において、ある特定の気質を持つものは、ある特定の環境によって、苦しめられるというにとどめよう。

しかし、だれも、どのように悪が生まれるかを説明することはなく、悪が本当に自由になるのを放置しておくだけだ。

わたしたちは、そこここの家庭で、それが本当か神のみぞ知る無意味なたわごとをおばあちゃんが話したのを聞いた。あるいは、ジョージおじさんがバカだということを本人に伝えることなく、彼と親しく知的な関係を築くことは難しいが、これはまさに現実だ。

しかし、だれも真剣に、救済策を考えていないどころか、問題自体も考えていない。あるいは、現に存在する個人主義的な崩壊が救済策かどうかも考えていない。

これらの問題の多くは、イプセンの影響の共に始まった。非常に強力な劇作家であり、極めて脆弱な哲学者である。

「人形の家」のノラは、論理的ではない人物を意図したと私は思う。

しかし、確かに彼女の最も論理的ではない行動は、彼女の結末である。

ノラは自分が子供の面倒を見るようなタイプではまだないと不平を言って、続けて、そうでなければ、もっと近くで子供を知ることができるかもしれないのに。子供からできるだけ距離を取ろうとする。

 

ひとつの単純なテストだが、科学的思考と社会規範を無視するタイプが存在する。

例外という混乱以外は何もない状態にいまや私たちを取り残す無視だ。

何百回も何千回も読んできたが、わたしたちの時代のすべての小説と新聞の中では、若い人が自由を求めるのは正しく、年寄が指導するのが正しくない、すべての魂は自由でなくてはならないし、すべての市民は平等でなくてはならず、権威はおろかで、権威への服従はよくないことだとする文言がある。

この瞬間、この問題について直接議論するつもりはない。

しかし、論理的な意味で、わたしをびっくりさせるのは、これら無数の小説家や新聞記者のだれ一人として、次なるもっとも明らかな疑問をたずねようとさえしていないことだ。

だれ一人として彼らは逆の義務がどうなるのかについて尋ねようともしていないように見える。

もし、はじめから子供が自由で親を無視するなら、なぜはじめから親が自由で子供を無視することにならないのか?

もし父ジョーンズと息子ジョーンズが単なる二人の自由で平等な市民であるなら、なぜ一方の市民がもう一方を、人生の最初の十五年のために、食い物にしてもいいのか?

なぜ、年上のジョーンズ氏の方が、完全になんの義務もないもう一方に対して、自分のポケットからお金を出してごはんを食べさせ、服を用意して、守ってやることを期待されるべきなのか?

もし、賢い若者が、自分の祖母(だんだん退屈な人になっていく)に対して寛容であれと言われることが不可能なら、なぜ祖母や母は、人生においてその子が決して賢くないときに、その子に寛容であるべきだったとされるのか?

その子ができる会話が、かたことで、あまり理解できないようなとき、なぜ彼らは苦労してその子の面倒を見るのか?

特に未熟な時期に、なぜ父ジョーンズは、子ジョーンズのように不快な誰かに、飲み物や無料の食べ物を与えることを我慢するのか?

なぜその赤ちゃんを窓から捨てるか、あるいはいずれにせよ、ドアからその少年を蹴りださないのか?

明らかなこととして、私たちは本当の関係を持っているのだが、その関係は平等かもしれないが、同質ではない。

 

私は知っているが、ある社会改良家は、親の機能を削除する教育と呼ばれる抽象的なものや国についてのぼんやりとした概念によって、この困難を避けようとする。

しかし、これは、しっかりした科学的人間のたくさんの概念とおなじように、単なる月の光という自然によって引き起こされた野生の幻想である。これは、奇妙な新しい迷信の上に成り立っていて、その迷信とは、組織には無限のリソースが存在するという観念である。

これはまるで公務員が草のように生え、兎のように繁殖するようなものだ。

給料を払われる人間が無限に供給され、その給料も無限に供給されることになっていて、子供のケアも含めて、すべての人間が本来自分たちのためにすることを、彼らは引き受けることになっている。

しかし、お互いの幼児服をとって生きることはできない。親子がお互いの教師になることはできない。だれが先生の先生になりうるか?

機械によって人間は教育することはできない。ロボットのレンガ職人や清掃人はでてくるかもしれないが、ロボットの校長や住み込みの女性家庭教師(ガヴァネス)はでてこないだろう。この理論の実際的な結果は、ひとりの普通の人間が普通の数の人間を見る代わりに、ひとりのいじめられた人間が百人もの子供をみなくてならないということにある。通常、普通の人間は自然の欲求に従うが、これは何のコストもかからないし、給与も要求しない。この欲求は、若い人に対する自然な愛情の力であり、これは動物の間にさえ存在する。

もしこの自然の欲求を断絶して、有料の官僚制に置き換えるとしたら、自分の水車の車を回すのに、人にお金を払う愚か者のようであるだろう、風や水のように無料のものを使うのを拒否しているのだから。水から守るために傘をさしつつ、じょうろで自分の庭に水を丁寧にやろうとする狂人のようだ。

 

今や必要なのは、わかりきったことを物語ることだ。そうすることによってのみ、私たちは家族の存在「意義」の兆候を認識し始めることができるし、それを求めて、私は、このエッセイをはじめたのだ。これらは私たちの父祖にはすべてなじみ深いものだったし、彼らは親族の中台を信じていたし、理性の結合も信じていた。今日、我々の理性は、ほとんどその結合を失っている、私たちの家族はその構成員を大半失っている。しかし、なんにせよ、このような調査をはじめるのに正しい目標はこれである。ディックが不満をもつとか、スーザンが彼女自身に腹をたてるとかの、ある個人的ごたごたの結末や結果ではない。

その利点がわからず、もしディックあるいはスーザンが家族を破壊しようとしたら、わたしは、はじめに言ったようなことを言うだろう。もしそれが役に立つとわからないなら、それをそのままにしておくほうがいい。その利点がわからないうちは、それを破壊することを考えることはやめた方がいい。

しかし、さらに他の利点もあり、もしお金によってあがなわれなくても、社会的に必要な仕事は愛によってあがなわれるという明らかな事実がある。そして(ほとんど暗示しかかっているかもしれないが)、おそらくお金であがなわれることが絶対になくとも愛によってあがなわれることは多い。

この事態の単純な側面について、一般的な状況を記録するのはたやすい。

社会に存在する一般的なシステム、これはわれわれ自身の時代そして工業文化において非常に気持ちの悪い虐待と痛々しい問題の支配下にあるのだが、それにもかかわらず、普通のものとなってしまっている。

コモンウェルスはたくさんの小さな王国から成り立っている、この王国の中で男性と女性は王と王女になり、この中で彼らは理性的に権威を行使し、コモンウェルスの常識に従い、その子供たちがその庇護下から成長し、似たような王国を打ち立て、似たような権威を行使する、これはこういう考え方だ。

これは人間の社会的な構築物であり、あらゆる記録より古く、あらゆる宗教より普遍的であり、そしてこれを変えようとするすべての試みは、単なる空論でありくだらない話である。

 

しかし、この小集団の他の利点は、今や、単に現実化していないからといって無視されるべきものではない。

ここには、また、この時代の文学とジャーナリズムに蔓延している極端な幻想が存在する。

あらゆる実際的な目的のために、何千回と明らかな真実として言及されるものは、ほとんど明らかな誤りである、と私たちが言えるくらいに、これらの幻想はいまや存在している。

あるひとつの言明をここで特別に引用しよう。

家庭生活に反対するため、そしてホテルやクラブや大学や地域社会の集まりなどなどに賛成するために、疑いようもなく何かが言われることになり、これはつまり、社会生活がわれらの時代の偉大な経済機構のために組織されているということなのだ。

しかし、真に驚くべきことは、家庭からの逃避が、しばしば、大いなる自由への逃走であるというように示唆されるということだ。

この変化は実際、自由というものに親和的であるかのように、提案される。

 

ものを考えることができる人ならだれでも、もちろん、正反対の結論になる。

人間社会の家庭分断は、完全ではなく、人間は人間である。

この家庭の分断は、完全なる自由に到達はしない。この概念はいくぶん実行が難しく、定義しにくすらある。

しかし、しかし、これは単に計算能力の問題である。

これらのシステムが合法、経済的、あるいは単に社会的なものであるかどうかであろうと、たくさんの人間が何かに対して最高の支配権を得ることができ、それを自分好みに変えることができ、外の社会を支配する広大な機構よりもそれをなしえる。

もしわれわれが、ただ親のことだけを考えるとしても、警察や政治家や大会社の社長たちやホテルの経営者よりも親の数が多いのは当たり前のことだろう。

今、私が示すように、この議論は、親に対して直接的に示したように、直接的ではない形で、子供にも適用される。

しかし、ここでの主な論点は、家庭の「外」の世界は、今や確固とした規律とルーティーンのもとにあり、家の中だけが、その人自身でいられることと自由のために残された場所になっているということだ。

玄関を出ると誰もが、行列の中に巻き込まれて、同じ道を歩いて、はなはだしいくらい同じ服を着る羽目になる。

ビジネス、特に大きなビジネス、はいまや軍隊のように組織されている。

これは、何人かが言うように、流血のない柔らかな軍事主義の一種であり、私自身の言葉でいうなら、軍隊的な価値のない軍事主義だ。

しかし、とにかく、明らかなのは、自分の住まいや住居に戻った時に、お気に入りの絵を掛け、お気に入りの安いたばこの良い香りをまとっているときよりも、銀行ではたくさんの行員が、喫茶店ではたくさんのウェイトレスが、軍隊のように訓練されて、規則の管理下にあるということだ。

しかしこれは、経済の分野の場合はこんなにも明らかであるが、社会の分野の場合でも同様に真実なのだ。

実際、快楽の追求は単に流行の追求である。

流行の追求は単にしきたりの追求である。これは単に新しいしきたりを呼び起こすだけだ。

ジャズダンス、ジョイライド、大規模な楽しいパーティ、ホテルのエンターテイメントは、本当に独自の味を出すことはしないし、過去のどんな流行も本当に独自の味を出すことをしなかった。

もし、裕福な若いレディが、他の若いレディがしているすべてのことをしたいと思ったら、彼女はそれをとても楽しいと思うだろうが、それは単に若さとは楽しみであり、社会とは楽しみだからだ。

彼女のヴィクトリア朝時代の祖母がヴィクトリア朝を楽しんだのとまったく同じように、彼女は現代を楽しむだろう。

そして、かなり正しくもあるのだが、これはしきたりを受け入れるということであり、自由を受け入れるということではない。

あらゆる歴史の時代のすべての若い人々にとって、理性ある度合いの範囲まで一緒に集まって、熱心にお互いをまねしあうのは、完全に健康的なことだ。

しかし、ここにおいては、特別に新鮮なものや特別に自由なものは存在しない。自分の頭を剃って、化粧をして、短いスカートを履くような女の子は、世界が自分のために組織されているように思うだろうし、この世界の進行に歩を同じくし幸福に行進するだろう。

しかし、自分の髪をかかとまでのばしたり、野蛮なつまらない品物とひきずるような衣装でごてごて飾ったり、(この中で一番ひどいが)化粧をせず、もともとの状態のままにおいておくことが好きになってしまったような女の子は、これらのことを自分自身の敷地でやるように、しっかり注意されるだろう。

社会構造のせいだが、もしケンブリッジ公爵夫人が馬飛びを本当にしたいなら、最新のダンスをプロのように踊る50人ものベストカップルたちでいっぱいのバビロンホテルのバスルームで突然馬のように飛んではならない。

フィッツドラゴン城の古いオーク材でおおわれたホールで気心の知れた友人たちに認められながら馬飛びするほうがよほど簡単に思うだろう。

もし、枢機卿会会長が、自分にできることを何でもしようと思うなら、すでに慈善事業のために組織されたなんらかの社会的エンターテイメントのプラグラムを邪魔しようとするよりは、自分の管区のおちついた雰囲気の中でそれをする方が、よほど楽で品位をたもちつつできるだろう。

 

もし、日個人的なルーティーンが経済的、さらには社会的なことの中にも存在するなら、それは政治的、法的なものの中にも存在するし、いつも必ず存在することは言うまでもない。

たとえば、国の罰は、雑な一般化をせざるをえない。

家庭での罰のみが、個人的な事例に対応できるのは、審判者がその個人のことを何でも知っているからに過ぎない。

トミーが銀の指抜きを仕事用のバスケットからくすねたら、彼の母親は、彼がいたずらのためか、腹いせのためか、だれかに売るためか、だれかを困らせるためか、何のためにしたかによって、全然違う態度をとるだろう。

しかし、もしも、トムキンスが銀の指抜きを店からとったら、万引き犯に対して定めたルールに従って法の処罰を受けることになるし、また受けなくてはならない。

家庭的な規範のみが、なんらかの共感や特になんらかのユーモアを示すことができる。

家族がいつもこういうことができるとは言わないが、国家がこのようなことを絶対にしようとしてはいけない。

もし、私たちが親のみを独立した王子で子供がその単なる従属物だと考えるとしても、家族の相対的な自由は、これら従属物に対して、有利に働きうるし、実際にしばしば有利に働く。

しかし、子供が子供である限り、子供はいつだって、だれかの従属物であるだろう。

問題は、子供たちが、古い言い伝えの言うように、他のだれも感じないような感情、自然な愛情を感じる彼らの自然の王子さま(親)のところに、当然分配されるかどうかということなのだ。

わたしにとっては、この分配が、もっとも多くの人に、もっともたくさんの自由を与えるのは明らかなことのように思われる。

 

反家庭的な潮流に対するわたしの不満は、知的なものではない。

人々は、自分が何をしているかわかっていない。彼らは何をしていないかわかっていないからだ。

一番大きなものから小さなものまで、離婚からピクニックパーティまで、多数の現代的な兆候が存在する。

しかし、ひとつひとつは、ばらばらの逃避や回避だし、特にこの問題の要点に対する回避だ。

人々は、哲学的なやり方で、伝統的な社会秩序を望むかどうか、決断すべきである――もし何か特に代替案が望まれる状況なら。

ところが実際は、公的な問題を人々は、単に個人的問題をごちゃまぜにしたものや寄せ集めにしてものとして扱っている。

反家庭的な状況にあっても、家庭主義のテストをするなら、人々は家庭的すぎるだろう。

それぞれの家族は、自分たちの場合だけを考え、その結果は単に偏狭で否定的なものになる。

それぞれの場合は、存在しない規則に対する例外である。

家族、特に現代国家におけるそれは、思慮深い訂正と再生の必要があるし、現代国家のほとんどのものがそうである。

しかし、家族という邸宅は、保存されるべきか、破壊されるべきか、再建されるべきか――レンガ一つ一つバラバラになるべきではないだろう、なぜならだれもレンガが積まれた目的に対して、歴史的意味を見いだせていないのだから。

たとえば、復元のための建築家は、古代のホスピタリティ(暮らしやすさ)という徳のため、広く簡単に開くドアがつけられるように、家を再建するべきなのだ。

別の言葉でいえば、個人的な資産は祝祭の交換の余地を残すように、満足がいくほど適正に平等な形で分配されるべきだろう。

しかし、家のホスピタリティはいつだって、ホテルのホスピタリティとは違うものだろう。

そして、ホテルのホスピタリティよりも、家のホスピタリティの方が、いつだって、もっと個人的で、もっと独立していて、もっと興味深いものだろう。

若いブラウンと若いロビンソンが、創造主の計画に従い、出会って、付き合って、踊って、自分たちをバカにするのは、完璧に正しい。

しかし、ブラウンがロビンソンを楽しませることと、ロビンソンがブラウンを楽しませることの間には、いつだってなんらかの違いがあるだろう。

そして、この違いは、人の心の多様性や人間性、潜在能力にとって有利だろうし、別の言葉でいえば、生活、自由、そして幸福の追求にとって有利になるだろう。

 

 

 

 

ウィリアムジェイムズ「道徳哲学者と道徳生活」

アーシュラ・K・ル・グウィンの「オメラスから歩み去る人々」において、言及されていた文章、ウィリアム・ジェイムズの「道徳哲学者と道徳生活」の、「オメラス」にて言及されている部分の抜粋訳。

訳者の力不足により意味が取れていない箇所があると思います。

【】は訳者の意見です。

 

改行は原文と一致していません。

 

 

***以下より翻訳***

 

 

道徳哲学者と道徳生活

(1891年2月9日イェール大学の哲学クラブの前で読まれた)

 

この論文の主な目的というのは、あらかじめ独断的に倫理哲学を作るということはまったく不可能であるということを示すことにある。

人類の道徳生活に貢献する限りにおいて、我々はみんな、倫理哲学の内容を決めようとしている。

別の言葉でいえば、物理学でそうであるように、人類最後の人間が自分の経験から自分の言い分を言い終わるまでは、最終的な真実は、倫理においては存在しない。

しかしながら、この場合においては、別の場合と同じように、とりあえずの仮説と、この仮説が思いつかせた行為は、その「言い分」が何であるか決定する必須の条件に含まれる。

まず第一に、倫理哲学を求める人間の立場というのは、どのようなものだろうか?

はじめに、その人は倫理的懐疑主義者であることに満足しているすべての人間と区別されなければならない。

その人は懐疑主義者ではないだろう。

 

それゆえに、倫理的懐疑主義は倫理哲学の実りにはなりえず、その結果、すべての哲学にとって、倫理的懐疑主義は最初から、落胆した哲学志望者がその探求をあきらめ、もともとの目標を断念するようにおどかす、あまりものの代替案としかみなせないでしょう。

【倫理について懐疑的な見解を持つものは、そもそも倫理哲学者ではないという話】

 

その目標とは、道徳関係の説明を求めるとういことであり、これらの中には、倫理的関係性を安定したシステムへと作成することや、倫理的観点から真正なる宇宙と人が呼ぶかもしれない世界を作ることも含まれる。

【正しい倫理に関する理論や、正しい世界とは何かについての見解を述べるということ】

 

世界が、統一の形式の減少に抵抗する限り、倫理的な提案が不安定に見える限り、哲学者はその理想を達成できない。研究の題目は、世界に存在することを哲学者が発見した理想である。彼を導く目的は彼自身の理想であり、その理想をちゃんとした形に変えることだ。

 

よって、この理想は、真正なる存在は絶対に見過ごされてはならないという倫理哲学の世界では、あるひとつの要素となる。

これは、倫理哲学者自身が必然的にその問題に対して可能な、肯定的な貢献だ。

しかし、これのみが肯定的な貢献である。

倫理哲学者の探求はその最初から、他の理想を持つべきではない。

 

もし倫理哲学者が特に、なんらかの種類の善の勝利に興味があるならば、彼はその程度までは、裁判官のような調査官であることをやめるだろう、そしてこの件に関しては、ある限定された要素の代弁者になるだろう。

【あらかじめ何らかの善に価値があるとすると、結論ありきの議論を展開するために、その善に関しては不公平な態度をとることになる(いつもその善に味方する)ということだと思う】

 

なんにせよこれらの言説にくっついているかもしれない不明瞭さというものは、我々が具体的な適用をしていき、観察するにつれ、なくなっていくだろう。

 

 

 

 倫理学には、別々に考えなくてはならない問題が三つある。

 これらをそれぞれ、「心理学的問題」、「形而上学的問題」、「詭弁家的問題」と呼ぼう。

 心理学的問題は、我々の道徳概念と判断の歴史的「起源」を問う。

 形而上学的問題は、善、悪、義務などの言葉のまさにその「意味」が何であるかを問う。

 詭弁家的問題は、人間が認識する、さまざまな善と悪の「基準」が何であるかを問う、それにより、哲学者は人間の義務についての真なる秩序を構築するかもしれない。



I

 

 

 心理学的問題は、ほとんどの論争者にとって、唯一の問題である。

 もし、一般的な神学博士が、何が正しくて何が間違っているかを、良心と呼ばれるまったく固有の能力が我々に教えてくれることになっているはずなのだということを、自分の満足いくように証明できたとしたら、あるいは、通俗科学の熱狂的信者が、「先天主義」は打破された迷信であり、我々の道徳判断は徐々に環境の影響によって決定されてくると明白に示したら、これらおのおのの人々は、倫理とは確定されたもので、もはやいうべきことは何もないと思うだろう。

なじみ深いふたつの名前、直感論者と進化論者、今や倫理的問題における全てのありうる違いに言外に意味するのに共通に使われるこの二つの名前は、心理学的質問のみを本当は参照する。

この質問に関する議論は、特定の細かい点に大きく依存するため、この論文の限界により、この点から話をはじめることは不可能である。

 

それゆえ、私は自分の教条的な信念を述べるにとどめるが、それはこのようなものだ――ベンサムや、ミルや、ベインの賛同者たちは、人間の理想をあまりにもたくさん取り上げて、その理想がいかに単純な身体的快と痛みからの逃避という行為の連合から生まれてくるに違いないというこをを示してきた。

【ペインは、文脈からおそらく連合心理学の人物だと思われる】

 

多数あるそれぞれの快感と連合が、疑いようもなく我々の心の中の善というような重要なことがらを作り出すのだが、心の中の善があいまいになればなるほど、善の起源はどんどん神秘的なものになっていくようだ。

しかし、すべての気持ちと好みをこの単純な方法で説明することは確実に不可能だ。

ひっきりなしに人間の本性について心理学が研究すればするほど、二次的な感情の痕跡を人間の本性の中にますます明らかに見つけるだけになり、純粋な経験主義が受け入れることができる共存と連続の単なる連合とはかなり違ったやり方で、環境の印象それぞれと私たちの衝動が関連付けられている。

酩酊への愛をとりあげてみよう。はじらいや、高所恐怖症、船酔いになりやすい傾向、血を見て失神すること、音楽の音に対する感受性、喜劇の感情、詩や数学、形而上学への情熱を取り上げてみよう。これらの事柄のどれも、それぞれの連合あるいは効用によって完全に説明することはできない。

そのように説明されるあれこれに、連合や効用は疑いなく付き物だが、何の役にも立たないことなんて我々の中には見つからないから、だいたいは未来の効用の予言になる。

 

しかし、連合や効用の起源は我々の大脳構造――その構造は、その元からの特徴がこれらの不協和音と調和の認識になんの関係もなく出てくるのだが――に対して偶発的で厄介な問題の中に存在する。

【ちょっと何を言っているかわからない】

 

ああ、我々の多くの道徳認識は、この二次的で脳に由来する種類のものからも確かにできている。道徳認識は、感じられた感覚に直接とりくもうとし、しばしば習慣という先入観と効用という仮定をしばしば無視する。

 

粗悪でありふれた道徳格言の枠を超えるとき(たとえばモーセ十戒や、貧しきリチャードの暦)、あなたは、常識的な目には風変りで過剰に緊張したように見える形式と立場の中に落ち込む。

 

何人かの人が持つ抽象的正義の感覚は、博物学の視点からすれば、音楽への情熱か他所の魂を破壊する高次の哲学的一貫性と同じくらい異様な変異種である。

 

ある霊的な態度に対する内的な遡源の感覚、つまり平安、平静、簡素さ、誠実さ、あるいは他者に対する本質的な品性のなさ、つまり愚痴っぽさ、不安、わがままなうるささ、など、これらはほぼ説明できない――純粋にそれ自身のためのより理想的な態度を好むという先天的な好みを除いては。

【人類には先天的に向上心があると言いたいのだと思う】

 

高貴な物事は、より「良い」味がする、そしてこれが我々に言いうるすべてだ。

 

継起するものごとに対する「経験」は、我々に、何が奇妙なことなのかを確かに教えてくれるかもしれないが、何が意地悪で下品かということについては何の関係があるのか?

【一般的な時間の流れの中で普通にする経験から常識というものは作られるし、それによって何が普通でそうではないかはわかるだろうが、何が意地悪で下品かということを説明することはできないだろうと言いたいのだと思う】

 

もしある男が、妻の愛人を撃ったとして、我々は 夫婦が仲直りして、ふたたび一緒に仲良く暮らしていると聞いたときに我々がとても気持ち悪くなるのは、いったいどんな言葉にできない嫌悪感によるのだろうか?

 

あるいは、フーリエ、ベラミー、モリスたちのユートピアがすべてに勝る世界において、すべての人が永遠に幸福になっており、ある失われた魂が、物事の遠いはじっこで、孤独な拷問の人生を歩むということのみを条件としてそれが成立するという仮定を提案されたら、特別で独立した種類の感情以外に、何が我々を以下のように感じさせるのだろう、そのように提案された幸福を自分たちが手にしようという衝動があろうとも、そのような取引の結果と知りながら受け取ることはおぞましいことであると感じさせるのは。

【この箇所がオメラスのインスピレーションとなった箇所】

 

もうひとつ言うと、いったい何が、因果応報を求める正義のまったき民族的伝統に対する最近のこれら、繊細な脳に由来する抗議的不協和音感情の原因なのだろうか?

【ここの訳は自信がない】

 

私は、トルストイの無抵抗の考えに言及する、ベラミーの後悔の忘却の代理(ハイデンハインのプロセスという小説の中にある)について言及する、ギュイヨーの刑罰の理想に対する急進的な避難について言及する。社交形式のマニュアルに印字されている「婚約期間に観察されるエチケット」の教訓を、若い恋人たちの間にうまれうる感情のきめこまやかさが乗り越えるのと同様に、「連合法則」によって明らかにされるものをこれらすべての道徳的感性の微妙さは乗り越える。

 

いや! 純粋に内的な力がここでは確かに働いている。

理想が高くなるだけいっそう、理想はより透徹し、革命的になる。

その理想は過去の経験の装いというよりは、未来の体験の可能的な原因としてあらわれてきて、環境と教訓が私たちに服従しなければならないと教えてきた要素だ。

【おそらくこの文は意味をよく取れていない】

 

これは、私が心理学的質問について今や言えることのすべてだ。

最新の研究の最後の章で、一般的な方法において、私は、関係性についての考えの中にある存在は経験の単なる反復だけではないということを証明しようとしてきた。私たちの理想は確かにたくさんの起源をもっている。この理想は、重要な肉体的な得たい喜びと、避けたい苦痛とですべて説明できるわけではない。そして、この心理学的事実をしげしげと観察すると、直感学派を我々は称賛するしかない。この称賛を、この学派の人物にまで拡大しなければならないかどうかは、次なる質問をみていく上であきらかになるだろう。

 順番からして、次の質問は、形而上学的質問であり、私たちは義務、善、悪といった言葉で何を意味するのかという質問である。

功利主義者の考えだけでは、人間の精神を理解することはできないということを言いたいのだと思う】

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」宗教的な感想

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」について。
あまり、ネットの書評では書かれていない観点からの感想を書きたい。
SFが好きな人と宗教に興味がある人は、もしかしたらあんまりかぶらないかもしれない。
だが、僕はSFが好きだし、宗教も好きだ。
ネタばれありで、少し語る。
これは僕の解釈なので、そう思わない人もいると思う。
文学部的な言い方になるが、僕なりのテクストの「読み」だ。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」についてだが、僕の見るところ、これはアンドロイドものによくある、人間の心を持つアンドロイド、的な話にはならない。
アンドロイドは基本的に、人間とは決定的に違う要素を持つ存在として語られる。
僕の見るところ、もっとも人間に近いアンドロイドとして描かれているように見える、ルーバルフト(LubaLuft)も、最初の尋問の際に、アンドロイドが劇団の中にいるなら捜査に協力する、と言って、仲間を売るのをいとわないようなそぶりを見せる。
主人公のリックには、自分以外のアンドロイドがどうなろうと気にしないのがアンドロイドの特徴のひとつだ、と指摘されてしまう。
このエンパシー(共感)能力を、アンドロイドはもたない、というのが、この小説での大前提である。
他者に対して共感することができない、そういう能力を欠如している存在、これをこの小説でアンドロイドと呼んでいて、そしてそれは「処理(リタイア)」させるべき対象とされている。
ここらへんはフィリップ・K・ディックはあまり煮詰めて書いていないと思うが、「共感能力を持たないやつは人間ではない」ということがひとつの前提で、この前提があったうえで、書きたいトピックをいろいろ書いていったのではないかという感じがする。

 

マーサー教という宗教が作中で出てくる。
これは共感ボックスという、その取っ手をにぎると、その宗祖マーサーの受難を体験できるという道具を使う宗教らしいのだが、詳しいことはあまり語られない。
実際に共感ボックスで投石されたら現実の体にも傷がついたりする。
これは一般的な「共感」とは異なると思う。もう少し射程の広い話をディックは展開しているように思う。
ディックがここで言っているのは、共感というよりも、ある種の宗教体験である。

マーサーは、時間を巻き戻すような能力を持っていた、とされている。
死んだ生き物をよみがえらせたりできたらしい。

物語の終盤で、マーサー教はインチキだということがあばかれる。
役者がやっていた偽物の舞台で、受難の歴史を捏造したのだということなのだが、ここで、この本は面白い展開を見せる。
物語の設定上でも、たしかにマーサーの受難映像はインチキであるというのは「正しい」ことだとされている。
しかし、そのあと、物語の登場人物であるイジドアはマーサーに会い、救われる。
ここでの描写はすごくて、イジドアの周りの物質が時間を加速して崩壊していくような描写がある。
共感能力を持たないアンドロイドが足を切り落としたクモも、足が復活して息を吹き返す。
これはマーサーの祝福として描写されているように見える。
バウンティハンターであるリックも、自分が好きになってしまった女性アンドロイドと同型のアンドロイドに殺されそうになる時に、マーサーに助けてもらう。
It will be the hard one of the three and you must retire it first.
残っている三人のアンドロイドの中でもっとも難しい相手だから、最初にそれをリタイアさせなくてはならない。
という助言のみならず、背後にいることまでも指摘する。
もう、ここでは現実世界に干渉している。

 

マーサーは、リックがこの三人のアンドロイドと戦う前に、自分の本質とは違うことをするのが人間のさだめだし、それが呪いなんだ、そして救済はないんだ、しかし、それでも「間違ったことでもしなくちゃならない」みたいなことを言う。
インチキだとわかったマーサー教だが、それでもその力は失われないことが物語では示唆されている。そしてなぜそうなるのかをアンドロイドは理解できないであろう、とも語られる。

キリスト教の高等批評にしろ、仏教学の成果にしろ、実際に聖書に書かれていることが本当ではないとか、聖書に書かれていることが相互矛盾するとか、ある仏典が釈迦の死後数百年後に作られたものだとか、相互矛盾する記述があるとか、そういうことがわかってきている。
地球が平らだったり、須弥山を信じている現代日本人はいないだろう。
しかし、それでも、キリスト教や仏教には、ある種の力--こういっていいのかわからないが、救済力が存在する。
聖書が歴史的事実であるかどうか、仏典で語られる話が本当かどうか、とは違うレベルで、人を救う力がある。
マーサー教のところでディックが言いたかったことはこういうことだろう。

 

それが歴史的事実として、客観的事実として真実かどうかはあまり問題ではなくて――たとえそれが嘘でも、それでも何かそこには意味があるのだということを言いたかったのではないか。
もともと、純文学を志向していた作家らしいし、ヴァリスなどはもっと宗教的な著作らしいから、そこらへん読むとよくわかるのかもしれない。

学歴の暴力セカンドワンマンライブの感想

記憶が消えないうちに、学歴の暴力セカンドワンマンライブの感想を書きたい。
(注:あまりにも色々ありすぎて、10月にこの文章を推敲している。すでに記憶は摩耗しつつあり、自分の感想の方が割合が高くなっているでしょう)
帰ってきた後にコロナになってしまったために記憶が混濁している可能性があるので、もし間違いなどあったら指摘してほしい。
でもたぶんどう考えても気持ち悪いことしか書けないよなあと思います。(あと完全な初心者なので同じような人には参考になるかも)
ひどく暑い7月2日の日曜日、名古屋でセカンドワンマンライブがあり、やすすさんに背中を押していただいた僕は、やすすさんと共に前物販に足を運んでいた。

 

「地下の駐車場で物販をする」という文言の意味がいまひとつわからなかったのだが、本当に文字通り、駐車場にちょっとした長机を出して、そこに4人のメンバーが並んで、好きなメンバーのところに行って注文をする……みたいな形だった。
なんと表現すればいいのか、長机に四人が映画「家族ゲーム」みたいに並んで、それぞれにお客さんが相対して、これが欲しいと注文をする、みたいな……伝わるかな……。
いちおうネットで事前知識は仕入れてきていたけれど、物販というものがいまひとつよくわかっていなかったのだが、それは地下駐車場でするものなのか、写真を撮るらしいがそれはどういう風にするのかが全くイメージがつかめなかった。(のでやすすさんに教えていただいた)
のだけど、本当に地下駐車場でやるし、そこでものを売っていた。ものというか、見ていると、おしゃべりをして写真を撮って、それをもらっていた。なるほど、これがチェキ、ですね! はじめて見た!
やり方がよくわかっていなかったので、ちょっと後ろで見ていたのだけれど、各メンバーのところに行って、何かおしゃべりしてこれが欲しいなど言っているようだったので、同じように並んでみた。
人が少なかったためか、あまり列みたいな感じはなくて、流れと雰囲気にまかせて相手のところに行く感じだった。
どういう順番で並んだのかを覚えていないのだけれど、あずきちゃん、かーりーちゃん、あろちゃん、なつぴちゃんの順番だったかな……。

 

ここから本当に気持ち悪い感想になっちゃうのですが、駐車場に現れた四人を見ると、「本物……!」感があって、すごく感動した。
本物が動いているというのは、こんなに衝撃的なんだなあというか、心に与えた衝撃がすごい。
みんなネットで見るよりもかわいかった。昔、なつぴちゃんだかがツイートであずきちゃんは写真より実物の方がかわいいと言ってたと思うのだけれど、いや、あずきちゃんだけじゃなくて、みんな写真よりかわいいぞと思った。
かーりーちゃんと話したときに、写真よりもかわいいです、みたいな話をしたら、写真はマジック使ってるから現実見たら失望しない??みたいなことを言ってたんですが、実物の方がみんな明らかにかわいかったですね。
あと、なつぴちゃんが実際にいるのを見て思ったんですが、オーラがあるというか、なんて表現したらいいんだろう、すごいカリスマ性みたいなものを感じたんですよね。
学歴の暴力の要はこの人なんだろうな、という感じというか……喫茶店とかで店長さんやリーダーさんがまとっているオーラみたいな……。
これはちょっと驚いたというか、ネット越しではわからない魅力だと思う。エネルギーみたいなものを感じるんですよね。
あろちゃん、「アイコンが青い方ですか……?」みたいに聞いてくれて、うれしかった。
見ていただいているというか、「ええ、覚えていてくれてるの」というか、そういうのすごいなあと思います。
それとあろちゃんはめちゃくちゃ細くて、華奢なんですよね。こちらが心配になるくらいというか、もっと太ってもいいと思う。
おなかが出ている衣装だから恥ずかしいんです、と言っていたけれど、全く問題ないというか、おなか出ている衣装好きです。
あずきちゃん、なんだろう、ちょっと何を書いても何も表現できない気がするから、何も書きたくないというか、書いたそばから書いたものが書きたかったこととずれていく気がするのだけど、とりあえず書いてみます。
なんか、なんだろう、かわいすぎるなあという感覚があって、でも記憶がどんどん薄れていくからさみしいなあと思ったり。
名前を教えて、からの、えっ!?という驚きからの、みるみる笑顔になっちゃった感じが本当にかわいかった。
あー、こんなに笑顔になってくれることあるんだー、という。
生まれて初めてのチェキがあずきちゃんでした。バージンチェキというらしい。この言葉をあずきちゃんが言ったときにちょっと恥ずかしそうにしていたのが、かわいかった。
あずきちゃん、表情の変わり方がかわいいんですよ。これは実際に見てみるまでわからなかった。
うまく表現できる日本語を知らないんですが、表情が変わるときの……なんていうんだろう、表情筋の動き?みたいなのがすごくかわいいんです。
これは本当に実際に見ていただくことをおすすめします。

あと、ツイッターのリプライが丁寧な人という印象があったみたいで、それは純粋にうれしかったです。
かーりーちゃん、現実に会うと、「あぁ、この人が話しているのか」というリアリティが増すから好きと言っていたけど、僕も同じですね。
かーりー、あまりツイッターだと他の三人と比べて相対的に人となりが見えないところがあったんだけれど、話すととても良いので直接会える方はぜひ話してみてほしい。

 

ライブは、学歴の暴力の曲と、キューティーハニーや丸の内サディスティック、群青はわかったが、アイドル楽曲はほぼわからなかった。
入場するときに名前を受付の人に告げると、再入場のためのハンコを押してもらって(なんらかの理由で一時離脱するときのため?)、ドリンク代を払って好きな場所でライブを見るという形。
ライブすらいかない人なので、これが一般的な作法なのかどうかよくわからない。
今回は無料イベントだったけれども、有料イベントだと、入場料を払う感じになるのかな? よくわからないけれど。
曲が終わった後に、アンコールが一回入って、そのあとに物販、だったと思う。
物販については、ツイッターで告知していたのだけれど見逃していて、ステージ側から誰の列、みたいなものが決まっていた。
四人のメンバーがいるから、その中のだれとお話して写真を撮るかを決めて、そこに並ぶというシステムらしい。
今回は闇市があったのでそこに並んでいる人もいた。(闇市=特別なグッズを売っている場所で、いつもは存在しない、らしい)
なつぴ列、あろ列、あずき列、かーりー列があるから、好きな人のところにならんで、自分の番が来たらメニューから欲しいアイテムを選ぶ、みたいな感じ。このシステムは理解できた。
こっちの方はかなり人が多かったので、やり方の把握はしやすいと思う。前の人が何やってるかを見ればだいたいわかる感覚がある。
物販というものがよくわかっていなかったのですが、メニュー表みたいなものがあり(レギュレーションという単語で表現される模様)、写真を一枚とるなら何円、私物サインは何円みたいな感じで表記されているので、それでしてほしいことを選ぶ、みたいな感じです。

 

あずきちゃんの美しさがすごくて、写真を撮っていたのだが、途中からとるのをやめてしまって、なんというか、写真よりも実物の方が美しいので、撮ろうという意思がくじけてしまった。
記憶は消滅してしまうのだけれど、本物の美しさにかなわない写真という偽物を残しておくよりは、記憶が消えるに任せた方がいいというか。
(子供のころからこういうことを考えていて、旅行に行った時も写真をあまり撮らないので、注意?されたことがある。たぶん、自分の思っているものと別の形で痕跡が残るよりは、すべてが失われてしまった方がいいと僕は思っているのだろう)
でも、思い出としては当然、撮っておいた方がいいと思います。これは本当にそう。ただ自分の中で変なこだわりがあるだけ、でも本当は撮った方がいいはず。

 

四人の夏休みの発表が、かなり面白かった。
あろちゃんが文学部はワードをよく使うけどパワポはあまり使わないから苦手で、という言葉に、今でもそうなのか~と懐かしくなりました(文学部出身)。
なつぴちゃんの腕相撲は、まさかのなつぴちゃん以外が拮抗するという展開にびっくりした。
あと、かーりー、面白いんですよ。お愛想の笑いじゃなくて、普通に笑ってしまった。なんだろう、しゃべり方の間の取り方みたいなのが上手な気がする。
あずきちゃんの発表で「シズル度」という言葉をはじめて知りました。

 

今からさらに気持ち悪いことを書きます。
あずきちゃん、なんか、いい匂いがするんですよね。香水じゃないみたいと言っていたけど……なんだろう。
あと、あずきちゃんが下を向いたときに、髪を通して、少し頭皮が見えるんだけど、それがかわいいなあと思った。
多分ぜんぜん理解されないだろうと思うけど、むしろ本来、毛量の多い子の方が好きだと思うんだけど、髪の毛を通して見える頭の皮膚がすごくかわいいと思っちゃったんですよね。
(自分でもちょっとびっくりする感想だった。)
あずきちゃん、かわいすぎて怖い。
たぶんあずきちゃんからお金を無心されたら多少なら払っちゃうような怖さがある。
でも、これが魅力なのかなあという気がします。
全部自分でコントロールできる要素じゃなくて、文字通りの意味で「頭おかしくなるくらいかわいい」というのがすごいんだろうなと思う。
でも、上記文言を書いたときから少し時間が経ち、最近自分の中でちょっと変わってきた感じがあって、こんな(https://twitter.com/azuki__info/status/1708138601845035473)感じの系統の顔の人を僕は魅力的だと感じるのですけれど、あずきちゃんに関しては、だんだんむしろこっち(https://twitter.com/azuki__info/status/1691918658455650443)の感じの方をかわいいと思うようになってきた。
というか、別にかわいくなくてもいい気がしている。元気で幸せに生きていてくれればそれでいいです。
元気で幸せに生きていてくれればいいのは、なつぴちゃんも、あろちゃんも、かーりーも同じ。
これはたぶんみんなには否定されるだろうけど、アイドルじゃなくていいから幸せになってくれればよいという感覚がある。アイドルにならないと幸せになれないんだよと言われるかもしれない。

 

なつぴちゃんが、写真を撮ってくれる人がいなくて、あずきちゃんに撮ってもらうときに、「時間つかっちゃってすみません、帰りの時間大丈夫ですか?」と聞いてくれたのがすごいと思った。
あずきちゃんも心配してくれた。
そんな気遣いまでしてくれるんですか? たぶんこれは一般的なアイドル現場での普通の対応ではなく、純粋な思いやりなんだと思っている。感謝。

 

ライブがはじめてという女性の方と帰り際一緒になって、これってこのまま帰って大丈夫なんですよね? たぶん大丈夫だと思います、たぶん……みたいな会話をした。
時間がなかったのであまり話せなかったのですが、もうちょっと話してみたかった気もする。
「終わり」みたいな明確な区切りがないので、「よし」と思ったら帰って良いのかなと思った。たぶん終演後物販に行かずに帰っても問題はないみたいな感じでした。

 

僕は、みんなが盛り上がっているときに、一緒に盛り上がれなかったりするタイプで、みんなと一緒になにかするというのが苦手というところがあるのですが、それでもみんなが幸せそうにしているのは好き。
コールもMIXもできない、ただきれいな女の子が歌って踊っているのを眺めることしかできない。
なんだろう、たとえばクラスみんなが体育祭で優勝しようぜとか応援頑張ろうねと言っているときに、どんどん冷めていくタイプなのですが、でもだからといってみんなが頑張るのを見るのは好きだし、みんなが幸せそうにしているのを見るのは好きなんですよ。
ただ自分がうまく輪に入れないだけで、しかも入りたくもないだけで、みんなの幸せを壊したいわけじゃないので、クラシック音楽を聴くようにライブを見つつ、すべてが美しいなと思いながらぼんやりと突っ立って、幸せを感じていました。
でも周りからみたら楽しめてないように見えるかもしれない。全然そんなことはないのだけど。
没入して自分が消えるみたいな感覚が嫌なのかもしれない。自意識を常に保っていたいというか。単なる傍観者気質なのかもしれないが、それってちょっと卑怯かもしれない、当事者から逃げてるだけじゃないのという気もする。
みんなで盛り上げてくれるからアイドルさんも楽しめるのだと思う。ただ、僕はそちら側にはいけないなと思う。
どことなく疎外感を感じても、それは全く問題ない。結局のところ、みんなの中に埋没するよりは、一対一で話したいのだろう。(めちゃくちゃ自我が強くてわがままなことを言っている気がする)

 

学歴の暴力で好きなところが、一人ひとりの個性が強いという点で、人間と話している感覚がある。
アイドルは特に好きではないけれど、学歴の暴力には興味を持てたのはそこだと思う。他のアイドルの人は何を考えているのかいまいちわからない。
かわいいだけしかない感じがする。そしてそれは別に魅力的じゃない。学歴の暴力にはかわいいだけじゃないものがある。
アイドルはじめてというファンの人が多いというのは、たぶんそのせいもあるんじゃないかという気がする。個人の中身の魅力が高い。

 

やすすさんに最初からアテンドしていただいたので、非常に安心して楽しむことができました。
たぶん誘われてなかったら行けていなかったし、タイミング的にはバッチリだったので、本当に感謝しております。

 

セカンドワンマンが終わってからいろいろありすぎて、時間的余裕、精神的余裕どちらもないが、でもたぶんこのまま出せないままだとよくないので、未完成のような気もするが投稿します。小説と同じで、いくらでも推敲はできるから、どこかで区切りをつけないといけない。
2023年10月3日 祖母の葬儀の日の夜に

文学部生のための進路相談

文学部に行きたいなあとか、入ったけれどこれからどうしようかなぁとか、就活どうしようかなぁ、という人向けに、無責任におしゃべりする手紙みたいなものを書いてみる。

これが誰かの役に立つといいなと思う。誰の役にも立たないかもしれない。

 

文学部に行きたいという子は、どちらかというと「俺、音楽で食べていくから」みたいな精神性を持つ、というと、さすがに言い過ぎですか?

でも、法学部にも経済学部にも行きたくなかったんでしょう?

社会に「適応」するなら、文系男子だったら、法学部か経済学部に行った方が、「安定」や「安心」を手に入れることができるんじゃないですか?

教育学部に行って、先生になるのもいいかもしれないですね。

でも、そこでもあえて文学部を選ぶということは、そのどれでも自分は満足できないということを、心のどこかで確信しているからでしょう。

法学部にも経済学部にも教育学部にもないものを、文学部であれば手に入れられる、そう思ってる、違いますか?

 

手に入れることができましたか?

 

僕の場合、手に入れることはできませんでした。

法学部で学べることは、現代日本でしか通用しない局所的な真理だと感じていたんです。大日本帝国憲法がその効力を失ってから、日本国憲法ができて、それを頂点とする法体系ということは、百年経っていないシステムなわけで、それを学んだところで、それは自分が生きている間には役に立つかもしれないが、もっと普遍的な真理を知りたかったんです。そりゃあ、法律を学んだらうまく立ち回ることができて、有利に人生をすすめることができるかもしれませんが、それが人間としての理想的な生き方だとは思わなかったわけですよ。だって、自分が社会の中で勝利者になったとして、それは敗者を生み出すわけじゃないですか。

経済学部は法学部よりも普遍性があると思いましたが、経済システムの分析なわけだから、資本主義社会(とマルクス経済学も含めれば社会主義経済も)だったら世界中が対象になるけれど、そもそも資本主義が好きではなくて、「お金と引き換えに幸福を手に入れるというよりも、お金がなくては幸福になれないみたいなシステム」みたいに感じていたんですよね。でも、そんなシステムがあったとして、そんなものは破壊しなくてはならないんじゃないですか?(もちろん破壊すべき対象を研究するのは大事なことですが)

椅子取りゲームで勝ちたいわけじゃなくて、椅子取りゲーム自体を終わらせたかったというか、椅子取りゲームじゃないところに行きたかった。法学部や経済学部で学べることは、椅子取りゲームで勝つ方法であって、そこから抜け出したり、椅子取りゲームを違うゲームに変えることは学べないですよね?

 

じゃあ、文学部ではそれを学べるのかよ?

という答えに対しては、学べませんでした、と僕は言うしかないです。

行ったことが無駄だったとは思わないのですが、自分が欲しい真理を探して、大学図書館と講義と自宅を往復する日々を過ごしていましたが、ある日、気づいてしまったんですよね。

自分の欲しいものは、この中には、ない、ということに……。

そこから精神を病むのは結構早かった気がしますね。なまじ勉強を頑張ってしまったがために、どこにもほしいものがないことがわかってしまったというか。

 

若いみなさまにご忠告申し上げたいのは、勉強だけするのは精神衛生上、危険な可能性があるので、人と人とのつながりを作ろうということですね。サークルとバイトはした方がいいです。興味なくてもです。居場所を複数作ることで、とりあえずメンタルの崩壊を防げる可能性が上がります。精神が崩壊すると回復するのに年単位の期間がかかることがあり、人生に多大な悪影響を及ぼすことがあります。致命傷を避ける、これは大切なことです。

(過去の自分は、致命傷を受けるリスクを背負ってこそだろうと思っていた節があるので、過去の僕と同じような精神性を持っている人間は、この話を聞いてくれないかもしれないけれど……)

 

サークルは、まず宗教的なサークルを避けるということが肝要でして、親鸞会などの新興宗教の勧誘を隠したサークルがけっこう大学には跋扈しているので気を付けてください。その手の情報は新歓などである程度共有されることもあるようですが、現在の大学の状況はよくわかりません。昔は、ここらへんには大学は関知していなかったはずですが、さすがにオウム真理教のこともあり、本格的に注意喚起してるみたいです。

マジで変な宗教関係のサークルは人生を破壊することがあるから、本当に気を付けてほしい。

 

バイトは電話営業のバイトを2年間くらい続けると営業系の就活で無双できるという伝説を聞いたことがある。人手不足の業界のわりに、そこまで劇的な業務の変化がないため、つぶしが聞いたりダブルワーク先としても選ばれるコンビニはわりとおすすめと聞いたことがある。どちらも真偽不明。

 

話をもとに戻すと。

社会に適応できないなあと思いつつ、その適応のできなさに何かしらの解答や救済が得られるであろうということで文学部に行くことは、全然間違いだとは思いませんが、そこで解答が得られるとはあまり期待しない方がいい、と思います。

問いの立て方は教えてくれても、答えは大学で教えてくれません。

これは悪いことではないですし、ある意味誠実なことでもあるのですが、いろいろな解釈や理論を学ぶことはできても、解答が与えられるわけではないんですよね。

ただ、ここがちょっと難しいところなのですが、文学部に行きたいメンタリティを持つ人間が法学部や経済学部でその適性を発揮できるのかというと、ちょっとよくわからないところがあります。

 

僕から……文学部を卒業したことがある僕から、何か、進路に迷っている文学部の人に言えることがあるとしたら……

まず、語学はある程度まで修めた方がいいということです。

語学系の授業は、それなりに充実しているはずですからね。英語ともう一つ外国語を習得してください。検定2級レベルまでには至ってほしい。多分役に立ちます。(僕はビジネスにおいては、役立てられませんでしたが、もっと磨いていれば違う結果になったかもしれない。ビジネス以外のところでは役に立ちます)

統計や法律に関しては、必要とあらば習得は後からでも可能だと思いますが、教養課程で関連する授業はとっておいて損はないでしょう。

これは難易度が高い気がしますが、法律系の資格か、経済系の資格を在学中にとれるといいですね。行政書士や税理士……。難易度やはり高いかな。

これが取れたら就活でもある程度いける気がしますが……経理や法務がいらない会社はないですからね。そこ狙いで動いて採用があるのかが不透明ですが。

ただ、文学部に行く人は、自分の幸福よりも、大義や正義や他人の幸福に関心がある人が多いと思うんですよ。自分の幸福が大切なら、自分の効用を最大化するために立ち回って、法学部や経済学部に行くんじゃないですか?(両学部へのディスかもしれない、ごめん)

もし、自分の幸福よりも大事なものがあるなら、もしそれを手にすることができたら、たぶん問題ないです。

極論、好きな女の子と付き合って、その子と結婚するために俺は働くぞとなったら、全然問題なく動けると思います。文学部にいる人に必要なのは動く理由です。

社会に適応できないというよりも、適応するだけの理由が持てないだけでしょう。

適応する能力がないというよりは、適応する理由を見いだせない、という方が適切じゃあないですか?

(本当に適応する能力がないという人は学部関係なく一定数いるとは思いますが)

 

ちゃぶ台をひっくり返すようですが、文学部に行く精神性を持っている人間は、どんな経路をとろうと、自分の魂の中にある問題、みたいなものに向き合わなくてはならない気がしています。

僕は自分の人生の時計の針を戻せたら、今よりもうまく立ち回る自信があります。

しかし、今現在の自分の人生よりも幸福になっている自信はありません。

うまく立ち回る可能世界にたどり着けたとして、そこから先の未来、すべての困難に対してうまく立ち回る自信などありません。

この現在の僕が経験していない困難に、その可能世界の自分は出会うはずです。

そのときも、同じようにうまく立ち回れるかは、今現在の自分にはまったくわかりません。

人生にセーブポイントはないので、こんな思考実験にはあまり意味はないのかもしれませんが、結局、どんなルートをたどったところで、自分の精神性に起因する「壁」が人生の中から現れて、そこをなんとかしないことには、前にすすめなくなる……そんな気がしませんか。自分の心の中に、社会と折り合いがつかない「なにか」を飼っている人間が(あるいは、みんなその「なにか」を飼っているのだけれど、その「なにか」から目をそらせない人間が)、文学部に来る確率が高いと思っているのですが、もし、そうなら、その「なにか」は、人生のどこかの時点で、社会性を身に着けたあなたと対決しに来るのだと思っています。それが大学在学中かどうかはさておいて。

僕は社会性を身に着けようと大学で社会適応をいどんで敗北したクチですが、この経験を反面教師にして、みなさんにはその反社会性をとことんまで突き詰めてもらいたい。社会適応なんて無理してがんばったところで、自分の心の中にある反社会性の反作用で精神が分裂するのがおちかもしれませんよ。

反社会性をとことんまでつきつめたところで、また別の問題が降りかかってくるとは思うのですが、僕は自分の中の問題に向き合わずに中途半端に社会適応しようとしたために精神を病んだと思っているので、逆に、突き詰めることで見えてくるものもあるんじゃないのかな、と思っている次第です。

ただ、こればっかりは、個人差があるので、なんともいえません。

 

僕からいえるのは、居場所を複数作っておいたほうがいいという前段の話ですね。

メンタルがぶっ壊れなければ、なんとかできたりします。大事なのは、致命傷や重傷を避けることです。勝つことよりも負けないことに注意してください。

これをすれば勝てるという方法は、大学を卒業して十年経ってもわかりません。

必勝法はおそらくないでしょう。

環境も、その中にいる個人も、千差万別なので。

でも、敗北を回避する方法であれば、ある程度、確率の高い方法はあると思っていて、バイトとサークルをしておくことが、保険、リスクヘッジになると思っています。

あとは早く結婚したほうがいい。子供も産んだ方がいい。もしできるなら。戦う理由になるので。できないときは、しょうがないです。(僕もしょうがない組だよ)

 

でも……ここでさらにちゃぶ台をひっくり返すようなことをいうと……文学部に行くような魂にロックなものを抱えている人は、きっとこの冗長な文章よりも、自分の心の中の衝動とか感性に従うんじゃないかと思うし、それでいいと思っています。自分で決めたことじゃないと、失敗したときに勉強にならない。

ただ、本当にひとつだけ、まじめな助言をひとつだけ。(所詮個人的意見ですけど)

「やばそう」とか「なんかやだな」という直感は大事にした方がいいと思います。

どんなに条件が良さそうに見えても、あなたの心がそう思ったのなら、「あなたにとっては」、やばくていやなところなのだと思います。

みんなにとっていいところが、あなたにとってもいいところだとは限りません。

統計は、右の道を進めば勝利確立が80パーセントと言ってくれるかもしれませんが、あなたが20パーセントの方に入っていないなんて、だれが立証できるでしょう?

自分が20パーセントの方にいるかどうか、いたらどっちの道を選ぶべきか、判断することができるとすれば、あなたの直感以外にはないのではないでしょうか?

 

春の夜だから、昔のことを思い出して、たくさん書いてしまいました。

頼むからだれかの人生がこれを読んで好転してほしいと思う。人生は、もし可能なら、失敗しない方がいい。失敗するからこそ、深みがでるとも思いますけれど、しかし。

 

ああ、蛇足だと思うし、こういうの嫌いな人もいると思いますが、瞑想は本当に助けになると思っています。座禅、マハーシ式、ゴエンカ式、手動瞑想、呼吸瞑想、歩行瞑想などが日本だと学びやすいかも。ぶっ壊れる前に。

同じくらい重要だ

It matters just as much — The Cat in no Hat

上記エントリの冒頭訳。なんの推敲もしていないし、たぶん誤訳もある。勢いにまかせて書いた。自分でも意味のわからない箇所もある。また時間を見つけて直します。

Please please contact me if the aunther read this.  I really really love your writings.

 

 

 

この世界における永遠の不在は、少なくとも、議論するのが難しい。

反例が存在しない。

この宇宙自身は、永遠という観念に反対するように見える。

熱力学の法則は、平衡での終焉の状態を保証しているようだし、確かめられない過去--つまり真のこの世界における永遠は、本質的に単位に限られている。

 

永遠は概念としては、非常に想定可能だし、とても魅力的だ。

しかし、人間の努力のなにもかもがそこに到達することができない。

だから、我々の文学と神話は、とてもしばしば、永遠を厳しく神の範疇に、少なくとも神秘の範疇においたのも、おそらく当然と言えるだろう。

ギルガメッシュ叙事詩の中においても、古典やアブラハムの神話においてと同様に、このことは真実だ。

永久、永遠の生命は、ウトナピシュティムとその妻に、善神エンリルの寛大さによってのみ、与えられる。

若さを保存する秘密の植物は神々の謎だ。人間は死を割り振られ、しかし生命は神自身が保管したままでいる。

 

しかし、この世界では、神の側から見てさえも、永遠はないように見えるから、もしとにかく無意味の制服を着たすべてのものが時の流れの中で終わりを迎えるのならば、究極的には、当然、あらゆるものになんの意味もないという風になるかもしれない。

 

しかし、人々はまさしく、「起きて、仕事をする」。もし何の意味もないのなら、少なくともなにかしらの原動力が、続ける理由がなければならないだろう?

 

何人かの人は、おそらく、この世界の根本的な非永遠性を、本当に信じたことが一度もないだろう。結局、来世(特に人生での行為が審判されることでその人の分担が決定されるというタイプの来世)は、世界の神話における繰り返されてきたテーマだ。意味を測定する独立した基準が導入されれば、この人生のはかなさは、関係のないものになり、この次の人生が重要なのと同じくらいの重要さを持つことになる。ダルマ的な伝統におけるような輪廻転生のシステムであれ、アブラハムの伝統におけるような永遠の来世のシステムであれ、今生の仕事は、これから来るべき人生の期待の中にある。

 

しかし、そのほかの人は――たとえ他の理由がなくても、たとえ本当に人生に意味がなくても――まさに起きて働くことを、実際にするし、長い間続けていくだろう。自然選択の残虐さがそれを確かめている。なぜなら、結局のところ、非永遠性とは、みんな死ぬということだからだ。

 

たとえ、非永遠性のために、すべてのものに意味がないということになったとしても、行動することは、行動しないことよりも意味がないということにはならないし、行動しないことも同様に行動することよりも意味があるということにも、意味がないということにもならない。だから、おそらく、みんな死ぬときだって、何人かは子孫を残したかもしれない。そのほかの持続可能な自己複製するシステムでと同様に、その子孫は、親から形質を受け継ぎ、子孫を残す傾向をやはり継承している傾向にあるだろう。ひとたび、最初の世代が死に絶えたとして、子孫のみが残るだけだし、子孫を残せなかったか、残そうとしなかった個体は、世界の非永遠性に永遠に失われるだろう。

 

よって、意味の量が仮にまったく同じだとしても、すべての可能世界において、私たちが行動するか否かに関係なく、自分の人生を続けない人と比べると、とてもすくない人びとが自分の人生を続けることになるだろう。私たちが世界を観察する能力は、世界の中に存在していることに基礎をおいているので、ほとんどの人間が実際にベッドから朝起き上がる世界を好むような人類的な偏りがその結果として存在することになる。

 

しかし、私たちはみんないつか死んでしまう。私たちは重要になってしまうだろう。

 

(君は重要だ(You mattered)と書かれた画像が挿入されている)

 

だんだん、私たちは重要ではなくなる。私たちが永遠に到達することができないのとちょうど同じように、私たちの影響力も永遠に到達することができないのとちょうど同じように、時がたつにつれ、私たちは忘れ去られ、私たちの行動も、重要ではなくなる。

 

しかし、それらのことが永遠ではないのと同じくらい、きちんと定義された限界のない持続性を行動は持つ。たとえば、特に、自己複製の効果は、永久に拡張して、明瞭にすべての生命に内在する。たとえ仮に意味がないとしても、少なくとも持続はする。各個体はすべての世代において、再生産する命の流れの中に生まれ行く。

 

(もしそれをそう呼べればだが)単一の原動力となる生命は、それ自身の伝播を持つ、あるいは必要とする。生命には意味などないかもしれないが、逆に意味など必要ないのだ。私たちのほとんどすべては、どっちにしろ朝目覚めて仕事に行くのだから。

 

何人かはいかないだろう。それも同じくらい重要なことだ。

あずきあずの魅力

https://www.youtube.com/watch?v=4kscV-_W2Gc

まずは諸君、この動画を見てくれ。
この動画をどう思う?


この動画の冒頭にある、あずきあずの絵日記のメイキング動画、ちょっとかわいすぎんか?
大丈夫? 無料で流していいの?
「しゃーぺん」「めがな゛ーん、ぱさぱさ」などの発話における音声がかわいすぎる。
「しゃーぺん」をこんなにかわいく発音できる人いるの?
「今日は書くことが、決まって、いる!」のあとの笑顔が非常に良い。

完全に心が可愛さで圧倒されている。すごいな、これがアイドルの力か……!
神経がかわいさを摂取しすぎて焼き切れてしまった。


最初、学歴の暴力を知って、やっぱり頭の切れる女の子はかわいいねぇ、と思ってつらつらツイッターを追っていたら、新メンバー加入のお知らせ。
ふーん、新しいメンバー、かぁ、日本国内に現存するすべての旧帝大をそろえられたら面白いねぇ、と思っていた、だけ、だった、と思う。
ただふわふわとたまに流れてくるツイートを見てた。たぶんなつさんのツイートが多かったのかな。バズることが多かったから。
それが、この二つの写真でノックアウトでしたね。
下の方の写真では、写真を保存している旨のリプがありましたが、僕もしている。
https://twitter.com/PP29H9GixlN66UJ/status/1571490632388190214
https://twitter.com/azuki__info/status/1572076521640300551

あと、たぶんこの動画が決定打だった。
ご本人は気づいてないのかもしれないけれど、動画に強いタイプだと思う。動いて話している姿がとてもかわいい。
https://twitter.com/azukinokizuki/status/1568981663463669761/video/1


共感するツイート。

何にも嫌なことはないけど、生きることがプレッシャーだから、早く人生ゲームをクリアして、ポケモン進化させないで愛でるみたいな、闘いも優劣もなく、お金を稼ぐ必要も生活を営むということもしなくていい世界にいきたい
https://twitter.com/azuki__info/status/1575453028811153409


とりあえず、もうちょっと彼女のことが知りたくなった人は、以下の文章でも読むといいよ。


過去について書かれた記事。
>可愛いのピークも、すでに過ぎている気がした。
ここだけは文章に誤りがありますね。今が全盛期でしょ?
https://fumufumunews.jp/articles/-/23203?page=3


あずきちゃんが山にいってやばいなと思って帰った話
「もう僕は死ぬからどうにかしてほしい」という同級生の子と山に行った話……
https://www.youtube.com/watch?v=BvOjN0bvAXM


どうでもいいが、黄色とオレンジがあまり好きな色じゃない、というのは自分も同じ。
病んでるように見えないけれど、人に影響されちゃうから何も考えないようにしてる、夜に病む、というのもわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=WJbVbfNrvss

 


正直、僕はアイドルが好きというわけではないのだが、ないはずなのだが、アイドルさんたちのツイッターみてると楽しい気持ちはある。
かわいさを振りまいてくれるのは、見ている人たちを幸せにするので。
でも、かわいい子だけが勝つゲームをしたいわけではないし、そういうゲームの成立基盤を強化したいわけでもないんだ。
ちなみに以下はなつぴちゃんの分析……合っているかどうかは各自の判断に任せる。
https://twitter.com/natsupikkk/status/1591150735945011200


個人的なお気に入りツイートたち。あずきちゃんの魅力が詰まっている、と思う。
https://twitter.com/azuki__info/status/1574786559601410048
https://twitter.com/azuki__info/status/1544109026656808960
https://twitter.com/azuki__info/status/1541047949194838016
https://twitter.com/azuki__info/status/1541042099692670977

 

あずきちゃんに限らずだが、アイドルのかわいい女の子を見ていると、僕は、フィッツジェラルドの文章を思い出す。
アメリカの作家で、グレートギャッツビーが有名だ。
これは、あるエッセイの三部作の第一回目で、いろいろなことを考えることができるエッセイだと思う。
さて、結局、フィッツジェラルドは、ここで「こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった」と言っている。
つまり、この「一般論」をフィッツジェラルドは捨てた、少なくともぴったりくるものではなくなった、と読めるのだが、さて、このエッセイを最後まで読んで、ラストタイクーンが未完に終わったフィッツジェラルドのことを思うと、もうまともに書けないと思いながらもそうはさせるものかと歯を食いしばっていたように思える。
妄想かもしれないが。

 


いうまでもなく人生はみな崩壊の過程だ。
だが、手ひどい打撃――つまり、不意に襲ってくる、というか、外からふりかかってくるように感じられる打撃ならば、思い出しては誰かのせいにしてみたり、落ちこめば友だちに愚痴ったりするものではあっても、影響が一気に現れるようなことはない。ところがそうではないタイプの打撃、言うなれば内側からやられてしまうような打撃は、もはや手の施しようのないところに来るまで気がつかないし、気がついたが最後、自分はある面においては二度と元には戻れないのだ、と悟るほかない。外からの破壊作用は一瞬のうちに終わる――だが、後者はやられた瞬間を気づかせないままに、ある日突然、致命傷となってあらわれる。

 この短い自伝を続ける前に、一般論をひとつあげておこう。人が第一級の知性を備えているか否かは、相反するふたつの考えを同時に頭の中に抱きながら、なおかつ行動できるかどうかによる。事態が絶望的であることは充分に理解しながらも、そうはさせるものかと歯を食いしばる人のように。……こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった。

https://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/1958d36a87b21834646d160c7ed2bd6e

 

 


崩壊していく人生を止めることはできない。
かわいい女の子のツイートにいいねをしたって、リプをしたって、何かが変わるわけではない。
しかし、もしかしたら、吹っ飛びたくなるような精神状態を、ひとつのツイート、ひとつの写真が救うことだってあるかもしれない。
半分以上信じていないことを、心のどこかで信じたいと思っている。
僕に、第一級の知性は備わっているだろうか?
何もかもが終わりだと思いながらも、まだなんとかなるんじゃないかと思うこと……。

 

「なんだろう、色々考慮した結果、最終的に出した結論が正直に話すことで、いつも「正直者はバカを見る」みたいな人生なんだけど、これっていつか治る?」
ここからの連続ツイートが、一番好きかもしれない。僕はこういう人、好きですよ。

こういう人が幸せになれないなら……明日、世界が終わっちゃってもいいんじゃないかな。

https://twitter.com/azuki__info/status/1586896006368858112
https://twitter.com/azuki__info/status/1586896314348236802
https://twitter.com/azuki__info/status/1586898231984029696
https://twitter.com/azuki__info/status/1586899192316067840


北海道のライブに同じ飛行機で行くんだけど、そこからバラバラに行動する「学歴の暴力」、本当に推せる。
いい意味で女の子っぽくない。自立している。歌もみんなうまいよねえ。
三人とも幸せになってほしいと思う。そう、努力して道を切り開いた人たちは報われるべきでしょう。

 

おやすみ。